第121話
森野さんに「面白い知り合いがいるんです」と言われたのは、製材所に丸太を分けてもらいに行った、その帰り際のことだった。
街外れに、夜だけ開く店がある。発酵だの熟成だの、そういう話にやたら詳しい人がやっている。結城さんの暮らしなら、きっと気が合いますよ——森野さんは、いつもの少し浮世離れした調子でそう言って、地図の切れ端に店の場所を書いてくれた。
春の日が落ちて、山の仕事をひと段落つけてから、俺は軽トラを走らせた。
教わった場所は、正直、店だと気づくのに苦労するような一角だった。看板らしい看板もない。日暮れとともに、木の扉の上の小さな灯りだけが、ぽつりと点っている。
「……ここで、合ってるのかな」
半信半疑で扉を押すと、乾いたベルの音がして、思いのほか広い店内が目に入った。
仄暗い。天井から吊るされた灯りは、どれも息をひそめるように控えめで、床の近くをやわらかく照らしている。低いところで、名前も知らない古い音楽が流れていた。
壁一面の棚に、ワインの瓶がずらりと並んでいる。その隣には、口を蝋で封じた瓶詰めの群れ。中で野菜だの何だのが、琥珀色の液に沈んでいた。漬物か、発酵食品か。見ているだけで、腹の奥がそわそわしてくる。
「へえ……大人の隠れ家って感じだな」
思わず声が漏れた。この、時間がゆっくり澱んでいくような静けさ。悪くない。むしろ、ずいぶん落ち着く。
◇◇◇
カウンターの奥から、人が現れた。
透けるように白い肌の女性だった。歳の見当がつかない。若く見えるのに、若さとは違う、静かな深みのようなものを纏っている。気だるげに、それでいてどこか上品に、彼女はこちらへ目を向けた。
「いらっしゃい。……あら」
俺を一目見て、その人は少しだけ目を細めた。何かに得心がいったような、そんな細め方だった。
俺は入り口で棒立ちのまま、慌てて頭を下げた。
「あ、どうも。森野さんから、こちらのことを聞いて。夜しかやってないお店があるって」
「森野さんの。ふふ、そう」
その人——宵さん、と名乗った——は、カウンターの椅子を目でこちらに勧めた。俺は言われるまま、艶の出た木のスツールに腰を下ろす。
近くで見ると、指がひどく細く、白かった。ワインの瓶を扱う手つきに、まるで無駄がない。栓を抜き、脚の長いグラスに赤を注ぐその一連が、何かの所作のように滑らかだった。
「森野さんが、誰かをうちに寄越すなんて、珍しいこと」
宵さんはグラスをこちらへ滑らせ、自分の分にも少しだけ赤を満たした。飲むというより、灯りにかざして眺めるような、そんな持ち方で。
「山で、暮らしているのですって?」
「ええ。半分崩れかけた古民家を買って、直したり、畑をやったり。……のんびり、というか、なんというか」
我ながら、しまりのない紹介だ。俺は苦笑して、グラスの赤に口をつけた。
ふくよかで、渋くて、後からじわりと甘い。喉を通ったあと、鼻の奥に果実の残り香がいつまでも居座る。うまい、と素直に思った。こういう味を、うまいと言っていいのか自信はないが、うまいものはうまい。
「うわ、これ、すごいですね。……こんな味、飲んだことないな」
「気に入った? よかったわ」
宵さんは、口の端だけでやわらかく笑った。棚のワインも、瓶詰めの群れも、どれも彼女がひとつずつ、時間をかけて見守ってきたものなのだろう。店の空気そのものが、そういうふうに落ち着いていた。
急かされない。誰にも。ここには、あの街にあった尖った時間が、ひとかけらもない。
「いい店だなあ。……こういう静かな夜、久しぶりだ」
俺がしみじみ漏らすと、宵さんは灯りにグラスをかざしたまま、こちらを見た。含みのある、それでいて穏やかな目だった。
◇◇◇
と、ふところで何かがもぞりと動いた。
肩の上に、丸い苔玉がちょこんと乗っている。コロだ。うちの精霊が、いつのまにやら軽トラに便乗してきたらしい。まんまるの目で、瓶詰めの棚をじっと見上げている。
「あるじ、あのつぼの中……ちいさいのが、いっぱいいるの。がんばってるよぉ」
俺にしか聞こえない小さな声で、コロがうれしそうに揺れた。発酵食品の菌のことを言っているのか。相変わらず、こいつには俺の見えないものが見えているらしい。
「……こら、勝手についてくるなよ」
小声でたしなめると、コロはえへへと笑って、俺の髪に埋もれた。
宵さんが、その様子をどう見ていたのかはわからない。ただ、彼女はグラスをそっとカウンターに置くと、こちらへ向き直り、ゆっくりと微笑んだ。
「ふふ。あなたが……噂の、ね」
「え?」
「ええ、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
噂の、というのが引っかかった。俺みたいな山奥のしがない素人が、いったい何の噂になるというのか。
まあ、森野さんあたりが「変わった新入りがいる」とでも話したのだろう。そう思って、俺は「どうも」と間の抜けた返事をした。
深く追いはしなかった。この静かな店の、琥珀色の灯りと、赤いワインと、名も知らぬ古い音楽。それだけで、今夜はもう、じゅうぶんに満ち足りていたから。




