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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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121/207

第121話

 森野さんに「面白い知り合いがいるんです」と言われたのは、製材所に丸太を分けてもらいに行った、その帰り際のことだった。


 街外れに、夜だけ開く店がある。発酵だの熟成だの、そういう話にやたら詳しい人がやっている。結城さんの暮らしなら、きっと気が合いますよ——森野さんは、いつもの少し浮世離れした調子でそう言って、地図の切れ端に店の場所を書いてくれた。


 春の日が落ちて、山の仕事をひと段落つけてから、俺は軽トラを走らせた。


 教わった場所は、正直、店だと気づくのに苦労するような一角だった。看板らしい看板もない。日暮れとともに、木の扉の上の小さな灯りだけが、ぽつりと点っている。


「……ここで、合ってるのかな」


 半信半疑で扉を押すと、乾いたベルの音がして、思いのほか広い店内が目に入った。


 仄暗い。天井から吊るされた灯りは、どれも息をひそめるように控えめで、床の近くをやわらかく照らしている。低いところで、名前も知らない古い音楽が流れていた。


 壁一面の棚に、ワインの瓶がずらりと並んでいる。その隣には、口を蝋で封じた瓶詰めの群れ。中で野菜だの何だのが、琥珀色の液に沈んでいた。漬物か、発酵食品か。見ているだけで、腹の奥がそわそわしてくる。


「へえ……大人の隠れ家って感じだな」


 思わず声が漏れた。この、時間がゆっくり澱んでいくような静けさ。悪くない。むしろ、ずいぶん落ち着く。


◇◇◇


 カウンターの奥から、人が現れた。


 透けるように白い肌の女性だった。歳の見当がつかない。若く見えるのに、若さとは違う、静かな深みのようなものを纏っている。気だるげに、それでいてどこか上品に、彼女はこちらへ目を向けた。


「いらっしゃい。……あら」


 俺を一目見て、その人は少しだけ目を細めた。何かに得心がいったような、そんな細め方だった。


 俺は入り口で棒立ちのまま、慌てて頭を下げた。


「あ、どうも。森野さんから、こちらのことを聞いて。夜しかやってないお店があるって」


「森野さんの。ふふ、そう」


 その人——宵さん、と名乗った——は、カウンターの椅子を目でこちらに勧めた。俺は言われるまま、艶の出た木のスツールに腰を下ろす。


 近くで見ると、指がひどく細く、白かった。ワインの瓶を扱う手つきに、まるで無駄がない。栓を抜き、脚の長いグラスに赤を注ぐその一連が、何かの所作のように滑らかだった。


「森野さんが、誰かをうちに寄越すなんて、珍しいこと」


 宵さんはグラスをこちらへ滑らせ、自分の分にも少しだけ赤を満たした。飲むというより、灯りにかざして眺めるような、そんな持ち方で。


「山で、暮らしているのですって?」


「ええ。半分崩れかけた古民家を買って、直したり、畑をやったり。……のんびり、というか、なんというか」


 我ながら、しまりのない紹介だ。俺は苦笑して、グラスの赤に口をつけた。


 ふくよかで、渋くて、後からじわりと甘い。喉を通ったあと、鼻の奥に果実の残り香がいつまでも居座る。うまい、と素直に思った。こういう味を、うまいと言っていいのか自信はないが、うまいものはうまい。


「うわ、これ、すごいですね。……こんな味、飲んだことないな」


「気に入った? よかったわ」


 宵さんは、口の端だけでやわらかく笑った。棚のワインも、瓶詰めの群れも、どれも彼女がひとつずつ、時間をかけて見守ってきたものなのだろう。店の空気そのものが、そういうふうに落ち着いていた。


 急かされない。誰にも。ここには、あの街にあった尖った時間が、ひとかけらもない。


「いい店だなあ。……こういう静かな夜、久しぶりだ」


 俺がしみじみ漏らすと、宵さんは灯りにグラスをかざしたまま、こちらを見た。含みのある、それでいて穏やかな目だった。


◇◇◇


 と、ふところで何かがもぞりと動いた。


 肩の上に、丸い苔玉がちょこんと乗っている。コロだ。うちの精霊が、いつのまにやら軽トラに便乗してきたらしい。まんまるの目で、瓶詰めの棚をじっと見上げている。


「あるじ、あのつぼの中……ちいさいのが、いっぱいいるの。がんばってるよぉ」


 俺にしか聞こえない小さな声で、コロがうれしそうに揺れた。発酵食品の菌のことを言っているのか。相変わらず、こいつには俺の見えないものが見えているらしい。


「……こら、勝手についてくるなよ」


 小声でたしなめると、コロはえへへと笑って、俺の髪に埋もれた。


 宵さんが、その様子をどう見ていたのかはわからない。ただ、彼女はグラスをそっとカウンターに置くと、こちらへ向き直り、ゆっくりと微笑んだ。


「ふふ。あなたが……噂の、ね」


「え?」


「ええ、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」


 噂の、というのが引っかかった。俺みたいな山奥のしがない素人が、いったい何の噂になるというのか。


 まあ、森野さんあたりが「変わった新入りがいる」とでも話したのだろう。そう思って、俺は「どうも」と間の抜けた返事をした。


 深く追いはしなかった。この静かな店の、琥珀色の灯りと、赤いワインと、名も知らぬ古い音楽。それだけで、今夜はもう、じゅうぶんに満ち足りていたから。


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