第120話
湯に肩まで沈めて、俺は早春の夜空を見上げていた。
湯気が、まっすぐに立ちのぼっていく。冷たく澄んだ空気のなかを、白い柱になって、星のほうへ昇っていく。そのてっぺんが、闇にほどけて消える。
その様子を、俺はぼんやりと、いつまでも眺めていられた。
祝いの宴は、まだ家のほうで続いている。笑い声と、火のはぜる音が、木立の向こうから、ほんのりと届いてくる。俺はひとり湯船を抜け出して、そのぬくもりに浸かりに来ていた。
顎まで湯に沈めると、山の湧き水の、あの柔らかい肌当たりが、ぐるりと体を包む。じんわりと、芯まで熱が届く。
「……できたんだよなあ、本当に」
声が、湯気と一緒に、ゆらりとほどけた。
目の前にあるのは、石を組んだ湯船だ。ごつごつとした鞍馬さんの石が、湯の縁をぐるりと囲っている。その一角には、掘っている最中に土から現れた、あの大きな天然の岩が、どっしりと据わっている。
湯口からは、澄んだ湧き水が、こんこんと落ち続けている。石をつたって、優しい水音を立てて。あの音の角度を、何度もチューニングし直したのを思い出して、俺はひとり、口の端で笑った。
湯船を囲む木の縁側は、モクの手によるものだ。継ぎ手のひとつひとつが、寸分の狂いもなく噛み合っている。湯気で百年濡れてももつと、あいつは胸を張っていた。
石と、木と、水と、湯気。
全部がそこにあって、いま、俺の体を、こうして温めている。
思えば、長い工事だった。
軒の雪が雫を落とし始めた、あの朝に始めた。冬じゅう描き続けた、下手なりの設計図を握りしめて。素人が一人で露天風呂なんて、と、あの時の俺は、半分ビビっていた。
でも、一人じゃなかった。
鞍馬さんが、どこから運んだのかも分からない、上物の石を積み上げてくれた。あの尊大な人が、石を無造作に持ち上げ、二、三度傾けて、迷いなく据える。それだけで、びくともしない石垣が立ち上がっていく。あの手さばきは、いま思い出しても、ため息が出る。
掘るのは、モクとコロが手伝ってくれた。土が硬くて音を上げそうな時、コロが地面をほぐしてくれると、鍬がすっと入るようになった。
水を引くのは、スイの独壇場だった。水脈の走りを教え、流れながら水を澄ませ、湯船まで導いてくれた。あいつがいなかったら、水引きだけで何日かかったか分からない。
湯を沸かす火は、エンがずっと守ってくれている。今夜も、焚き口のあたりで、得意げに火を跳ねさせているのが、木立ごしに見えた。
「石も、木も、水も、火も、土も、みんなが受け持ってくれた。……で、俺は」
湯のなかで、俺は自分の手のひらを、ぼんやり眺めた。
まめの潰れた跡が、いくつも残っている。爪の際に、まだ落ちきらない土が入り込んでいる。
「俺は、図面を引いて、掘って、詰めて、仕上げただけ、か」
言ってみて、俺はおかしくなった。だけ、なんてものじゃない。この一冬と早春を、まるごと注ぎ込んだのだ。
水漏れを一つずつ潰したのも。湯口の水音を、あと五度、と調整したのも。木と石のコントラストに、ため息をついたのも。全部、俺の手のなかに、確かに残っている。
やった分だけ、形が残る。
その、いちばん好きな手触りが、いま、湯気を上げて、俺を包んでいる。
俺は、ずるずると湯に深く沈んで、もう一度、夜空を仰いだ。
独りになりたくて、逃げるようにして登ってきた山だった。都会で、終電まで消耗して、笑い方を忘れていた頃の俺には、こんな夜、想像もできなかった。
「独りで来た、この山に」
星が、湯気の向こうで、にじんで見える。
「自分の手で……いや、みんなの力で。こんなものを、作っちまった」
胸の底から、じわりと、熱いものが込み上げてくる。湯の熱さとは、また別のやつだ。
達成感、というにはあまりに深くて、静かで、あたたかい。ここまで来たんだな、俺、と。そう呟くと、なんだか目の奥が、少しだけ熱くなった。
ぱしゃ、と、湯の面が揺れた。
見れば、湯の縁で、スイがとろけるように浮かんでいた。半透明の体が、湯気を映して、うっとりと揺れている。
「あるじ、いい湯でしょう。わたくしの、自信作ですのよ」
「ああ。……最高だよ、スイ。お前が一番の功労者だ」
湯気の立つ岩のうえでは、コロがまんまるに丸まって、うとうとしている。エンの守る焚き口のほうから、ぱちぱちと機嫌のいい音がする。木の縁側では、モクが腕を組んで、自分の組んだ縁を、満足げに検分していた。
完成した湯は、俺だけのものじゃなかった。
この山の相棒たち、全員の居場所に、いつのまにか、なっていた。
◇◇◇
同じ夜を、遠い遠い辻の空も、分け合っていた。
ネル村の外れ。建て直されて、すっかり立派になった石の祠の前で、行商の若者ガロは、湯気の立つ器に、そっと手を浸していた。
澄んだ、あたたかい湯だ。祠の主さまが、いつからか、糧とともに授けてくださるようになった、不思議な湯。
この湯で傷を洗えば、痛みが引き、腫れが収まる。病み上がりの老人が体を拭えば、見違えるように顔色が戻る。凝りがほどけ、疲れが溶ける。村の者は、いつしかこれを、"聖なる湯"と呼ぶようになっていた。
「祠の主さま。今日も、こんなにありがたい湯を……」
ガロは器を捧げ持ち、深く頭を垂れた。
祠の主さまは、瑞々しい糧を恵んでくださる神であるだけでなく、傷を癒し、病を溶かす、癒しの神でもあらせられる。いまや、この湯なしの暮らしなど、村の誰にも考えられない。
子どもの熱を、この湯が下げた。畑仕事で痛めた腰を、この湯がほぐした。祠の主さまは、村の暮らしのすみずみに、なくてはならないお方になっていた。
「どうか、この縁が、いつまでも」
ガロは長いこと、湯気の立つ器を胸に、手を合わせていた。
その"聖なる湯"が、山ひとつ向こうの湯船で、疲れた元会社員が「もったいないから、おすそ分けするか」と、暢気に汲んでいる一杯だとは。
ネル村の誰ひとりとして、知る由もなかった。
◇◇◇
木立の向こうで、ひときわ大きな笑い声が上がった。
俺は湯から上がって、火照った体に、早春の夜気を浴びた。ひやりとした空気が、湯上がりの肌に、なんとも心地いい。
宴の輪へ戻ると、鞍馬さんが湯上がりの上機嫌で、盃を傾けていた。
「いい湯だったぞ、結城。儂の石も、この山でこう使われるなら、本望よ」
鷹揚に笑うその横顔を見て、俺はもう一度、じんわりと胸が温かくなる。石を提供して、あの妙技で組んでくれた人が、その湯を、こうして楽しんでくれている。
これ以上の礼は、ないと思った。
夜が更けて、一人また一人と、帰り支度を始める。
その帰り際のことだった。かねて縁のある森野さんが、湯けむりの名残の立つ庭先で、ふと思い出したように、俺のほうを振り返った。
「そういえば、結城さん」
いつもの、穏やかな声だった。
「今度、面白い店をやってる知り合いを、紹介したいんです」
「店、ですか」
「ええ。夜にしか開かない、変わったカフェでね」
森野さんは、少しだけ、いたずらっぽく目を細めた。
「ちょっと、風変わりな人なんですけど。……でも、きっとあなたとは、気が合いますよ」
夜にしか開かない、変わったカフェ。
なんだか妙な響きだな、と思いながら、俺は「へえ」と相槌を打った。この人が引き合わせてくれる縁に、外れがあったためしはない。森野さんも、鉄本さんも、鞍馬さんも、みんなそうだった。
「じゃあ、いつか、ぜひ」
俺が笑ってそう返すと、森野さんは満足げにうなずいて、夜道へと去っていった。
残された庭に、湯けむりが、まだ細く立ちのぼっている。
俺はその白い揺らぎを見上げて、ふう、と、白い息を吐いた。
「……この山、また、賑やかになりそうだな」
早春の夜空に、湯気が、まっすぐに昇っていく。
独りで来たはずの山は、いつのまにか、こんなにも温かい縁で、いっぱいになっていた。
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あとがき
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