第119話
湯けむりが、早春の夜気に、ゆらりと立ちのぼっていた。
完成したばかりの露天風呂を囲んで、今夜はささやかな宴だ。石を運び、あの妙技で組み上げてくれた鞍馬さんを、俺は湯に招いた。世話になった礼に、まずはこの湯に浸かってもらわないことには、始まらない。
縁石の脇には、燗をつけた徳利と、炙った肴を並べてある。焚き口ではエンが火の番をして、湯のまわりでは、精霊たちが思い思いにはしゃいでいた。
「ふむ」
鞍馬さんが、ゆっくりと湯に身を沈める。自分で組んだ石垣に囲まれた湯船に、肩まで浸かって、満足げに目を細めた。
「……いい湯だ。眺めも、湯加減も、文句なしよ」
低い声が、湯気の向こうで、しみじみと響く。
鞍馬さんは片手で湯をすくい、指の間からこぼしながら、囲いの石をぐるりと見渡した。まるで、据えた一つ一つに、あらためて挨拶でもするみたいに。
「儂の石も、この山でこう使われるなら、本望だろう」
石の本望、というのが、俺にはうまく飲み込めなかった。
ただ、この人が自分の据えた石をどれだけ大事に思っているかは、その横顔を見ていれば、さすがに伝わる。石屋というのは、道具を売って終いじゃないらしい。
◇◇◇
徳利を傾けて、鞍馬さんの盃に注ぐ。
「石も水も、ここまでのものは、そうそう揃わんぞ。おぬし、いい山を持ったな」
「鞍馬さんの石があってこそですよ。俺一人じゃ、こんな立派なの、逆立ちしても組めなかった」
「フン。それは違うな」
鞍馬さんは盃をあおって、悠々と言い放った。
「石を活かすも殺すも、据える場所と、育てる暮らし次第よ。この湯を、これだけの湯にしたのは——まあ、おぬしと、この賑やかな連中だ」
賑やかな連中、と言われて、俺は思わず湯のまわりを見回した。
スイは湯面をぷかぷかと漂って、湯加減を自慢げに波打たせている。コロは縁の苔の上でうとうとし、湯気に眠そうに目を細めていた。焚き口のエンは、火を守るのがよほど得意なのか、さっきから胸を張りっぱなしだ。
「あるじ、今宵のお湯、最高の仕上がりですわ。都の湯屋も裸足で逃げますのよ」
「その台詞、鞍馬さんの受け売りだろ」
澄まして波打つスイに、俺は笑ってしまった。誰かの名調子を、しっかり覚えて使うあたりが、こいつらしい。
「あるじ、もっと火、たいてやろうか! オレ、まだまだいけるぜ!」
「じゅうぶんだよ。これ以上熱くしたら、鞍馬さんが茹だっちまう」
エンが尻尾の火をぱちぱち跳ねさせて、不服そうに炎を揺らす。張り切りたい盛りの火の番に、ほどほど、という加減はまだ難しいらしい。
◇◇◇
湯に肩まで浸かって、俺は、賑わいをぼんやりと見渡した。
腕利きの石屋が、自分で組んだ湯に上機嫌で浸かり、火のとかげが焚き口で火を守り、水のスライムが湯加減を誇り、苔玉が縁でまどろんでいる。軒下では、モクが木の縁側の仕上がりを、まだぶつぶつと検分していた。
……なんというか、賑やかな夜だ。
半年前——いや、この山に越してきた頃の俺に見せたら、たぶん、腰を抜かすに違いない。あの頃の俺は、誰の顔も見なくていい暮らしが欲しくて、貯金を全部はたいて、こんな山奥まで逃げ込んできたのだ。
それが、どうだ。
露天風呂ひとつ作るのに、石屋を呼び、精霊が総出で手を貸してくれて、こうして完成の湯を、みんなで囲んで祝っている。独りになりたくて来たはずの山が、いつのまにか、こんなに人でにぎわっている。
人、と数えていいのか微妙な面々ではあるけれど。
「みんなで作った風呂だもんな」
湯気に向かって、俺はぽつりと声に出していた。
石は鞍馬さん、木はモク、水はスイ、火はエン、土はコロ。そして、figを引いて、掘って、詰めて、仕上げたのが俺。どれ一つ欠けても、この湯は生まれなかった。
独りで来た山なのに、いつのまにか、こんなにたくさんの手が、ここに集まっている。
湯船の縁で、鞍馬さんが盃を置いて、こちらをちらりと見た。
「なんだ、しみじみして。……まあ、悪くない夜だな」
「ええ。最高の夜です」
俺が返すと、鞍馬さんは、ふん、と満足げに鼻を鳴らして、また湯に深く沈んだ。
焚き口の火がぱちりと爆ぜ、湯けむりが、星のびっしり埋まった夜空へ、ゆっくりとほどけていく。
この山が、確かに、みんなの場所になってきている。
その手応えを、俺は熱い湯の中で、そっと噛みしめていた。




