第118話
早春の朝、俺は露天風呂の縁に腰かけて、湯の面をぼんやり眺めていた。
雪はもうすっかり解けて、山肌には土と苔の色が戻っている。冷たい朝の風に、湯気だけが白く立ちのぼっては、芽吹きかけの梢の間に消えていった。
湧き水を引いたこの湯は、いつ見ても呆れるほど澄んでいる。底に沈めた石の一粒まで、手を伸ばせば届きそうなほど、くっきり見えた。
その澄んだ湯の上を、スイがぷかぷかと機嫌よく漂っている。半透明のぷるぷるした体が朝日を弾いて、水面みたいにきらきら光っていた。
「あるじ、今日のお湯も、最高の仕上がりですわ」
得意げに言って、スイが胸を——あるのかどうか分からないが、とにかくその辺りを——反らしてみせる。
最高の仕上がり、というのは、まあ本当だった。ただ、俺が気になったのはそこじゃない。この湯、完成した頃より、さらに澄んできている気がするのだ。
スイの浄化の腕が上がったのか。いや、腕というか、なんというか、力そのものが、少し増しているような。
◇◇◇
そう思って見回してみると、気になるのはスイだけじゃなかった。
湯船の縁石には、コロが張りつけた苔が、うっすらと緑の絨毯を広げ始めている。まだ据えたばかりだというのに、その色が、やたらとみずみずしい。指で触れると、しっとりと露を含んで、いかにも元気そうだ。
焚き口のほうでは、エンが火の番をしていた。こいつの守る火は、もともと安定していたが、この頃はさらに危なげがない。薪をくべる手間が、目に見えて減った。
「あるじ、湯加減はオレに任せろって! ばっちりだぜ!」
尻尾の先の炎を揺らして、エンが得意満面に胸を張る。
工房のモクにいたっては、この間こしらえた湯桶の仕上がりが、我ながら惚れ惚れするほど滑らかだった。手のひらで撫でても、引っかかりひとつない。木の面の取り方が、以前より一段冴えている気がする。
あの渋い顔で腕を組んでいるだけに見えて、こいつの手が入った木は、いつも仕事がひと味変わる。それが、この頃はさらに際立っていた。
……気のせい、ではないよな、これは。
みんな、露天風呂が出来上がったあたりから、そろって調子がいい。元気なだけじゃなく、それぞれの力が、ほんの少しずつ、確かに増している。
「露天風呂ができてから、みんな調子いいな」
俺は湯気の向こうの精霊たちを、ぐるりと見渡した。暮らしがひとつ豊かになると、こいつらも元気になる——前にも、そんな話をした覚えがある。
だとすると、今度の風呂は、よっぽど大きな出来事だったのかもしれない。
◇◇◇
肩の上に、ふわりと軽いものが乗った。コロだ。まんまるの目を輝かせて、俺の頬をつついてくる。
「あるじのおうち、どんどんよくなるねぇ。だから、ぼくたちも、うれしいの」
「そうか。……俺の暮らしが良くなると、お前らも力が増すのか」
「そうなの!」
コロが、もふもふの体をぷるんと弾ませた。
湯の縁で、スイも誇らしげに揺れている。半透明の体を、ゆらり、ゆらりと波打たせて。
「あるじが豊かになれば、わたくしたちも嬉しいですわ。持ちつ持たれつ、ですのよ」
「持ちつ持たれつ、ねえ」
なるほど、と俺は湯に手を浸した。とろりと温かい湯が、指の間を流れていく。
俺がいい暮らしをすると、こいつらが元気になる。こいつらが元気だと、湯も畑も火も、いっそう具合がよくなって、暮らしがまた豊かになる。ぐるぐると、いいほうへ回り続ける輪だ。
思えば、一冬かけて練った露天風呂は、この山に来てから一番の大仕事だった。石を組み、木を張り、水を引いて、湯を張って——。それだけの手間をかけたぶん、こいつらにも、たっぷり伝わったのかもしれない。
もっとも、力が増すといっても、たかが知れているんだろう。生き物なんだから、調子のいい時期くらい、あって当たり前だ。俺はそのくらいに、軽く考えていた。
それが本当はどれほど大きな仕組みなのか、そのときの俺は、まるで分かっていなかった。
湯気がゆらりと立ちのぼって、芽吹きかけの山を、やわらかくかすませる。
「そっか。……じゃあ、俺がもっといい暮らしをすれば、お前らも、もっと元気になるってことか」
肩のコロが、うんうん、と嬉しそうに頷いた。
俺は思わず、口元がゆるむのを感じた。頑張れば頑張るほど、みんなで元気になれるなんて、ずいぶん気前のいい話だ。
「なら、頑張り甲斐があるな」
澄んだ湯が、朝日を受けてきらめいている。今日も、いい一日になりそうだった。




