第117話
早春の朝は、まだ骨の芯まで冷える。
布団を抜け出して、寝間着のまま外へ出る。素足に触れる縁側の板は、氷みたいに冷たい。それでも、この寒さが、じきに極上のご褒美へ化けると、俺はもう知っている。
湯船へ続く飛び石を、つま先立ちで渡っていく。湯口からこんこんと落ちる湧き水が、白い湯けむりを上げていた。肩まで沈み込むと、冷えきった体に、じんわりと熱が染み渡ってくる。
「……はぁ。効くなあ、これは」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
目の前には、雪解けの山肌がひらけている。冬じゅう茶色くくすんでいた木々に、若草色の芽が、点々とにじみ始めていた。渡り鳥が一羽、湯けむりの向こうを横切っていく。
朝の湯に浸かりながら、山が春へ衣替えしていくのを、一日ぶんずつ眺める。こんな贅沢な朝の過ごし方があるなんて、去年までの俺は知りもしなかった。
湧き水そのものの湯は、肌ざわりがとろりと柔らかい。手ですくうと、湯気の匂いに、かすかな土と若葉の香りが混じっている。山の朝を、そっくり煮出したような一杯だ。
湯の縁では、スイがぷかぷか浮いている。
「あるじ、今朝のお湯も、最高の仕上がりですわ」
「だな。お前のおかげで、湯冷めもしにくい」
得意げに、スイが水面をきらりと弾ませた。この涼やかさと温もりを両立させる仕事は、こいつの独壇場だ。手放しで褒めると照れるくせに、褒められないとむくれる。難しい相棒である。
◇◇◇
露天風呂のある暮らしは、一日の段取りまで丸ごと変えてしまった。
畑を起こして土にまみれても、工房で木くずをかぶっても、汗をかいたそばから極上の湯が待っている。以前は「風呂は夜」と相場が決まっていたのに、今は、汗をかいたらそのつど入ればいい。
思えば、暮らしの句読点が増えた感じだ。ひと仕事して、湯で区切る。また動いて、湯で区切る。だらだら続けて疲れをためこむより、こまめに整えるほうが、体も頭もずっと軽い。
昼下がり、ひと仕事終えて湯に浸かると、こわばった背中が、ほどけるようにゆるんでいく。石の湯船に、木の縁。山を丸ごと見晴らす眺め。そこらの温泉旅館にだって、負けていない気がする。
「……いや、身内びいきかな。自分で作った風呂を、贔屓しすぎだ」
元SEの俺が、効率をすっかり放り出して、手作りの風呂に見惚れている。人生、何が起きるか分からないものだ。
焚き口では、エンが火を守っていた。
「まかせろって! オレがいるかぎり、湯はぬるくならねえぜ!」
「頼りにしてるよ、火の番長」
縁側の日だまりでは、モクが腕を組んで寛いでいる。自分の刻んだ縁の据わりを、湯気に濡れた具合まで、まだ検分しているらしい。
「フン。……この木組み、湯気を吸って、いい色に落ち着いてきたな」
「気に入ったか、相棒」
「別に。悪くない、と言っただけだ」
渋い顔のまま、モクは満更でもなさそうに鼻を鳴らした。コロのほうは、湯けむりのぬくもりに、まんまるの目をとろんとさせて、縁石の上でうとうとしている。
◇◇◇
そして、一日の締めくくりは、やっぱり夜の長湯だ。
湯に肩まで沈めて、星を仰ぐ。都会では数えるほどしか見えなかった星が、ここでは空いちめんにびっしり散らばっている。火照った頬を、早春の夜気がひやりと撫でていく。熱い湯と、冷たい風。この境目が、なんともたまらない。
湯から上がって、縁側に腰かける。肩から立ちのぼる湯気が、夜気にほどけていくのを、ぼんやり眺める。ほてった肌に、板の間のひんやりした感触が心地いい。
冷やしておいた一杯を、火照った体に流し込むと——これが、五臓六腑に沁みわたった。
「はー……。この一杯のために生きてる、まである」
湯上がりの火照り、夜風、星空、それに冷たい一杯。たったこれだけのことで、どうしてこんなに満ち足りるんだろう。
ふと、都会にいた頃を思い出す。あの頃はシャワーを浴びるのすら億劫で、それを面倒がる自分に、うっすら後ろめたさまで覚えていた。風呂に入ることが、贅沢どころか、片づけるべき義務だった。
「風呂ひとつで、こんなに毎日が豊かになるとはな」
しみじみと、声に出していた。
夜空を仰ぎながら、火照った体で、俺はもう一度つぶやく。
「毎日が、こんなに豊かでいいのかな。……いいんだよな、これで。ちゃんと、自分の手で作ったんだから」
湯けむりが、星に向かって、ゆらりと立ちのぼっていった。




