第116話
早春の朝の湯は、格別だ。
芽吹きかけの山を眺めながら肩まで浸かって、体の芯までとろりとほどけたところで、俺はざぶりと湯船を出た。湯上がりの肌に、まだ残る朝の冷気がきりりと心地いい。
振り返れば、露天風呂の湯はなお、もうもうと湯気を上げている。俺ひとりが浸かったくらいでは、減った気配もない。
なにしろ、湧き水がこんこんと注ぎ続けているのだ。湯はいつでも満々と、縁から静かに溢れている。
朝いちばんに沸かした湯は、まだ誰の手も触れていない。透きとおって、湯気の一本まで、そのままそっくり残っている。
「……もったいないよなあ、これ」
澄んだ湯が、使われもせずに排水口へ流れていくのを見ていると、なんだか申し訳ない。こんなにいい湯を、俺ひとりで独り占めしているのも、どうにも据わりが悪かった。
この山に来る前、狭いユニットバスで冷めかけの湯に浸かっていた頃を思えば、これはもう、贅沢の使い切れないくらいの贅沢だ。
だから昨日から、余った湯は桶に汲んで、直売所へおすそ分けするようにしている。畑の野菜を棚に並べるのと、同じ気軽さで。
「よし。今朝も、分けてやるか」
我ながら単純なことだが、始めてみると悪くない。手頃な桶を持ってきて、湯口の澄んだところを、静かに汲みとる。
湯の縁では、スイがぷかぷかと浮きながら、その様子をじっと見ていた。半透明の体に朝日を映して、なんだか誇らしげに、ゆらゆら揺れている。
「どうぞ、たっぷり持っていってくださいまし。わたくしの自信作ですのよ」
「ああ、分かってるって。お前が浄めた水だもんな。そりゃあ、いい湯にもなる」
澄まして胸を張るスイに笑いかけて、俺は湯を張った桶を、こぼさないよう両手で抱えた。
◇◇◇
直売所の棚に、朝採りの菜っ葉と並べて、湯の桶を据える。
板きれに「あったかい湯です ご自由にどうぞ」と書いて添えておいた。冷めないうちに使ってもらえたら、こっちも汲んだ甲斐がある。
あくまで、野菜のおすそ分けと同じ感覚だ。うまい米が炊けたから隣にひと椀、みたいなもの。湯が余ったから、ひとつどうぞ。それだけのことである。
考えてみれば、この直売所の常連さんたちには、いつも律儀に何か置いていってもらってばかりだ。たまには、こっちからも気の利いたものを供したい。
まあ、湯なんぞもらって嬉しいかは分からないけど。気は心、というやつだ。
それに、まだ朝晩は冷える早春だ。あったかい湯なら、この寒がりの時季、案外ありがたがってもらえるかもしれない。そう考えると、なんだかいいことをした気になってくる。
棚を整えて、俺はその日の畑仕事へ戻った。汲んで、供える。それだけの、ささやかな朝の一手間。昨日始めたばかりのそれが、もう俺の心地よい習慣になりつつあった。
◇◇◇
翌朝、顔を洗いに出た俺は、直売所の前で足を止めた。
桶は、からになっていた。張っておいた湯は、きれいさっぱり汲み尽くされている。よほど気に入ってもらえたらしい。
そして、料金箱と棚の上に、見慣れないものが、ずらりと並んでいた。
丁寧に編み込まれた籠に、艶やかに磨かれた小さな石の飾り。細やかな刺繍をあしらった布きれ。どれも、手のひらにのせるとほのかに温かいような、心のこもった品ばかりだった。
これまでも、野菜の対価にいろいろと置いてもらってきた。だが、今日のこれは、明らかに念の入り方が違う。
「……なんだこれ。ずいぶん丁寧なお返しが来たぞ」
俺は籠を手に取って、しげしげと眺めた。ひと針ひと針、時間をかけて整えられたのが、素人目にもよく分かる。
野菜のときより、よっぽど手厚い。たかが湯に、ここまでするものか、普通。
「湯って、そんなに喜ばれるのか……」
思わず、そう声に出していた。米や野菜ならまだ分かる。腹の足しになるからだ。だが、湯である。飲めるわけでも、取っておけるわけでもない、ただの温かい水だ。
首をかしげながら、俺は温かい籠を抱え直した。世の中には、桶ひとつの湯に、これだけの礼を尽くす人がいるらしい。
「不思議な常連さんたちだよなあ、ほんとに」
しみじみそう呟いて、俺は苦笑した。まあ、喜んでもらえたのなら、こっちも汲み甲斐がある。
明日も、いい湯が沸いたら、また一桶、分けてやろう。そう決めて、俺は朝日の匂いのする籠を抱えて、家へと戻った。




