表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
116/215

第116話

 早春の朝の湯は、格別だ。


 芽吹きかけの山を眺めながら肩まで浸かって、体の芯までとろりとほどけたところで、俺はざぶりと湯船を出た。湯上がりの肌に、まだ残る朝の冷気がきりりと心地いい。


 振り返れば、露天風呂の湯はなお、もうもうと湯気を上げている。俺ひとりが浸かったくらいでは、減った気配もない。


 なにしろ、湧き水がこんこんと注ぎ続けているのだ。湯はいつでも満々と、縁から静かに溢れている。


 朝いちばんに沸かした湯は、まだ誰の手も触れていない。透きとおって、湯気の一本まで、そのままそっくり残っている。


「……もったいないよなあ、これ」


 澄んだ湯が、使われもせずに排水口へ流れていくのを見ていると、なんだか申し訳ない。こんなにいい湯を、俺ひとりで独り占めしているのも、どうにも据わりが悪かった。


 この山に来る前、狭いユニットバスで冷めかけの湯に浸かっていた頃を思えば、これはもう、贅沢の使い切れないくらいの贅沢だ。


 だから昨日から、余った湯は桶に汲んで、直売所へおすそ分けするようにしている。畑の野菜を棚に並べるのと、同じ気軽さで。


「よし。今朝も、分けてやるか」


 我ながら単純なことだが、始めてみると悪くない。手頃な桶を持ってきて、湯口の澄んだところを、静かに汲みとる。


 湯の縁では、スイがぷかぷかと浮きながら、その様子をじっと見ていた。半透明の体に朝日を映して、なんだか誇らしげに、ゆらゆら揺れている。


「どうぞ、たっぷり持っていってくださいまし。わたくしの自信作ですのよ」


「ああ、分かってるって。お前が浄めた水だもんな。そりゃあ、いい湯にもなる」


 澄まして胸を張るスイに笑いかけて、俺は湯を張った桶を、こぼさないよう両手で抱えた。


◇◇◇


 直売所の棚に、朝採りの菜っ葉と並べて、湯の桶を据える。


 板きれに「あったかい湯です ご自由にどうぞ」と書いて添えておいた。冷めないうちに使ってもらえたら、こっちも汲んだ甲斐がある。


 あくまで、野菜のおすそ分けと同じ感覚だ。うまい米が炊けたから隣にひと椀、みたいなもの。湯が余ったから、ひとつどうぞ。それだけのことである。


 考えてみれば、この直売所の常連さんたちには、いつも律儀に何か置いていってもらってばかりだ。たまには、こっちからも気の利いたものを供したい。


 まあ、湯なんぞもらって嬉しいかは分からないけど。気は心、というやつだ。


 それに、まだ朝晩は冷える早春だ。あったかい湯なら、この寒がりの時季、案外ありがたがってもらえるかもしれない。そう考えると、なんだかいいことをした気になってくる。


 棚を整えて、俺はその日の畑仕事へ戻った。汲んで、供える。それだけの、ささやかな朝の一手間。昨日始めたばかりのそれが、もう俺の心地よい習慣になりつつあった。


◇◇◇


 翌朝、顔を洗いに出た俺は、直売所の前で足を止めた。


 桶は、からになっていた。張っておいた湯は、きれいさっぱり汲み尽くされている。よほど気に入ってもらえたらしい。


 そして、料金箱と棚の上に、見慣れないものが、ずらりと並んでいた。


 丁寧に編み込まれた籠に、艶やかに磨かれた小さな石の飾り。細やかな刺繍をあしらった布きれ。どれも、手のひらにのせるとほのかに温かいような、心のこもった品ばかりだった。


 これまでも、野菜の対価にいろいろと置いてもらってきた。だが、今日のこれは、明らかに念の入り方が違う。


「……なんだこれ。ずいぶん丁寧なお返しが来たぞ」


 俺は籠を手に取って、しげしげと眺めた。ひと針ひと針、時間をかけて整えられたのが、素人目にもよく分かる。


 野菜のときより、よっぽど手厚い。たかが湯に、ここまでするものか、普通。


「湯って、そんなに喜ばれるのか……」


 思わず、そう声に出していた。米や野菜ならまだ分かる。腹の足しになるからだ。だが、湯である。飲めるわけでも、取っておけるわけでもない、ただの温かい水だ。


 首をかしげながら、俺は温かい籠を抱え直した。世の中には、桶ひとつの湯に、これだけの礼を尽くす人がいるらしい。


「不思議な常連さんたちだよなあ、ほんとに」


 しみじみそう呟いて、俺は苦笑した。まあ、喜んでもらえたのなら、こっちも汲み甲斐がある。


 明日も、いい湯が沸いたら、また一桶、分けてやろう。そう決めて、俺は朝日の匂いのする籠を抱えて、家へと戻った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ