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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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115/243

第115話

 所変わって、遠い遠い場所の空も、同じ早春を分け合っていた。


 辺境のネル村。まだ日陰には雪が残り、辻の泥は溶けかけてぬかるんでいる。けれど土のにおいはもう春のもので、村の子どもたちは水たまりを跳んで遊んでいた。


 その村外れの辻に、石の祠がある。


 かつては苔むして傾いていた祠も、今では見違えるほど立派になった。村じゅうの働き手が寄り集まって屋根を葺き直し、囲いを立て、まわりの草をきれいに刈った。祠の主さまへの感謝を、形にせずにはいられなかったのだ。


 その祠の前に、行商のガロが膝をついている。


 いつものように供物台へ手を伸ばした、その時だった。ガロの目が、まんまるに見開かれる。


 供物のそばに、見慣れぬものが置かれていた。


 木の器に、なみなみと満たされた、湯である。


「……お、お湯……?」


 思わず、声がこぼれた。


 湯からは、ほのかに白い湯気が立ちのぼっている。恐る恐る顔を近づけると、ふわりと、やわらかい木の香りと、澄んだ水のにおいがした。冷たい早春の朝の中で、その器だけが、ぬくもりを抱いていた。


 ガロは、しばらく動けなかった。


 祠の主さまが、糧を恵んでくださるのは知っている。腐らぬ食べもの、病を癒す瑞々しい野菜、魔獣を退ける神具。この村は、そのすべてに救われてきた。


 だが、湯を授かるのは、初めてのことだった。


「主さま……これは、いったい……」


 答える声はない。ただ、湯気だけが、静かにゆらいでいる。


◇◇◇


 その日、ガロは辻から街道へ出て、隣村まで荷を運ぶ道すがら、うっかり岩で手の甲を切ってしまった。


 深くはないが、じくじくと血のにじむ傷である。旅の途中では手当ての手も足りず、ガロはふと、腰に提げた小さな革袋を思い出した。祠の湯を、ほんの少しだけ、分けてもらってきたのだ。


 もったいないと思いながらも、ガロはその湯で、そっと傷口をぬぐった。


 すると、どうだろう。


 しみるどころか、傷のまわりのずきずきした痛みが、みるみる引いていく。赤く腫れていたのが、すうっと落ち着いて、血もじきに止まってしまった。


「……え」


 ガロは、自分の手の甲を、まじまじと見つめた。


 何度も、まばたきをする。夢でも見ているのかと、頬をつねってもみた。だが、痛みが消えたのは、まぎれもない事実だった。


「これは……これは、癒しの湯だ……!」


 声が、震えた。


 ガロは村へ取って返すと、まっすぐ、長く床に臥せっていた老人のもとへ走った。冬のあいだに体を弱らせ、春になっても起き上がれずにいた、村の古老である。


 湯を含ませた布で、そっと体を拭ってやる。乾いた唇を、湯で湿してやる。


 すると翌朝、老人は自分の足で立ち、久しぶりに戸口まで歩いて、朝の陽を浴びたのだ。


「顔色が……見違えるようだ。何年も、こんなに軽い体は、覚えがねえ」


 老人は、しわだらけの手を合わせて、涙をこぼした。


 噂は、またたく間に村じゅうへ広まった。


 旅の疲れが、ひと晩で抜ける。長引いた咳が、鎮まる。子どもの擦り傷が、朝には塞がっている。祠に現れるその湯は、いつしか「聖なる湯」と呼ばれ、村人たちに大切に分け合われるようになった。


 湯を分けてもらった者は、ほんの少しを布に含ませ、残りは大事に瓶へ移して、家の棚の一番いい場所へ供えた。ひと匙の湯を惜しみ、順番に譲り合い、いちばん弱った者のもとへ、まず届ける。誰に言われたわけでもなく、村にはそんな作法が生まれていった。


 小さな寒村に、久しく忘れていた笑い声が戻ってくる。祠の恵みは、村の暮らしそのものを、少しずつ立て直していた。


 祠の主さまは、糧を恵む神であるだけではない。


 傷を癒し、病を溶かす、癒しの神でもあらせられる——。


 ネル村の信仰は、いっそう篤いものになっていった。


「祠の主さま」


 夕暮れの辻で、ガロはまた、深く頭を垂れる。


 供物台には、村じゅうから寄せられた、心づくしの品が並んでいた。丁寧に磨かれた金貨、村の女たちが夜なべで織った布、猟師が獲った上質な毛皮。どれも、感謝の思いをありったけ込めた、精いっぱいの供物だった。


「あなたさまは、いったい、どれほどお優しいお方なのでしょう」


 ガロの声は、切実に潤んでいる。


 姿を見たことはない。どこの、どんなお方かも知らない。それでも、この祠を通して、絶えることなく恵みを授けてくださる、遠い遠い主さま。


「どうか、この湯で、村のみんなが、いつまでも達者でありますように」


 ガロは長いこと、そのまま手を合わせていた。


 その「聖なる湯」の正体が——山ひとつ向こうの縁側で、露天風呂の湯加減にのんきに舌鼓を打っている、ただの少し疲れの抜けた元会社員の、風呂の残り湯だとは。


 ネル村の誰ひとりとして、知る由もなかった。


◇◇◇


 同じ頃、俺は湯船の縁に腰かけて、ぼんやりと湯気を眺めていた。


 早春の朝の空気はまだ冷たいのに、足を浸けた湯は、とろりとあたたかい。肩から力が抜けて、我ながら、だらしのないため息が出た。


「……はぁ。何度入っても、たまらんな、これは」


 自作の露天風呂である。一冬かけて図面を引き、鞍馬さんに石を組んでもらい、みんなで作り上げた、俺の自慢の湯だ。


 湧き水を引いた湯は、澄んでやわらかく、入ったあとの肌の調子まで妙にいい。近ごろは、この湯に浸かるためだけに、一日の段取りを組んでいる気すらする。


 ふと、湯船の縁に置いた桶に目がいった。


 昨日、湯加減を見ようと汲んでおいた湯が、まだ半分ほど残っている。もったいないな、と思う。こんなにいい湯を、ただ捨ててしまうのは、どうにも気が引けた。


 水盆のほうで、スイがぷかりと浮いて、こちらを見ている。半透明のスライムが、湯気の向こうで、なぜだか得意げに揺れていた。


「あるじ。そのお湯、捨ててしまうのは、もったいのうございますわ」


「だよなあ。お前もそう思うか」


「ええ。それはもう、たっぷりと、どうぞお使いくださいまし」


 やけに乗り気だな、と俺は苦笑した。


 まあ、水を司るこいつからすれば、湯を粗末にされるのは忍びないのかもしれない。そう勝手に納得して、俺は残り湯の桶を、ひょいと持ち上げた。


 考えてみれば、うちには律儀な常連さんがいる。


 顔も名前も知らない、直売所のお客さんたちだ。野菜を並べておくと、毎回きっちり対価を置いて、黙って持っていってくれる。この頃は、こちらが恐縮するほど立派な品まで交じるようになった。


「野菜だけじゃ、なんだか申し訳ないんだよな」


 湯気の立つ桶を眺めながら、俺は独りごちた。


 いつも野菜を喜んでくれる相手だ。せっかくのいい湯が余ったのなら、これも一緒に、おすそ分けしてやったらどうだろう。喜んでくれるかは分からないが、捨てるよりは、ずっといい。


「よし。湯が余ったから、常連さんにもおすそ分けするか」


 我ながら、いい思いつきだ、と俺は満足げにうなずいた。


 縁の苔をならしていたコロが、まんまるの目を輝かせて、ぴょこんと弾む。


「あるじ、やさしいの。きっと、みんなよろこぶなの」


「そうだといいけどな。まあ、風呂の残り湯だ。気持ちだけ、受け取ってもらえりゃ上等さ」


 俺は桶を抱えて、直売所のほうへ、のんびりと歩き出した。


 風呂の余り湯を、ちょっとおすそ分けする。ただ、それだけのことだ。


 その一杯が、遠い異世界で「聖なる湯」と崇められ、村じゅうの傷と病を癒す神の恵みになっているなどとは。


 俺は、これっぽっちも、知らなかった。


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