第115話
所変わって、遠い遠い場所の空も、同じ早春を分け合っていた。
辺境のネル村。まだ日陰には雪が残り、辻の泥は溶けかけてぬかるんでいる。けれど土のにおいはもう春のもので、村の子どもたちは水たまりを跳んで遊んでいた。
その村外れの辻に、石の祠がある。
かつては苔むして傾いていた祠も、今では見違えるほど立派になった。村じゅうの働き手が寄り集まって屋根を葺き直し、囲いを立て、まわりの草をきれいに刈った。祠の主さまへの感謝を、形にせずにはいられなかったのだ。
その祠の前に、行商のガロが膝をついている。
いつものように供物台へ手を伸ばした、その時だった。ガロの目が、まんまるに見開かれる。
供物のそばに、見慣れぬものが置かれていた。
木の器に、なみなみと満たされた、湯である。
「……お、お湯……?」
思わず、声がこぼれた。
湯からは、ほのかに白い湯気が立ちのぼっている。恐る恐る顔を近づけると、ふわりと、やわらかい木の香りと、澄んだ水のにおいがした。冷たい早春の朝の中で、その器だけが、ぬくもりを抱いていた。
ガロは、しばらく動けなかった。
祠の主さまが、糧を恵んでくださるのは知っている。腐らぬ食べもの、病を癒す瑞々しい野菜、魔獣を退ける神具。この村は、そのすべてに救われてきた。
だが、湯を授かるのは、初めてのことだった。
「主さま……これは、いったい……」
答える声はない。ただ、湯気だけが、静かにゆらいでいる。
◇◇◇
その日、ガロは辻から街道へ出て、隣村まで荷を運ぶ道すがら、うっかり岩で手の甲を切ってしまった。
深くはないが、じくじくと血のにじむ傷である。旅の途中では手当ての手も足りず、ガロはふと、腰に提げた小さな革袋を思い出した。祠の湯を、ほんの少しだけ、分けてもらってきたのだ。
もったいないと思いながらも、ガロはその湯で、そっと傷口をぬぐった。
すると、どうだろう。
しみるどころか、傷のまわりのずきずきした痛みが、みるみる引いていく。赤く腫れていたのが、すうっと落ち着いて、血もじきに止まってしまった。
「……え」
ガロは、自分の手の甲を、まじまじと見つめた。
何度も、まばたきをする。夢でも見ているのかと、頬をつねってもみた。だが、痛みが消えたのは、まぎれもない事実だった。
「これは……これは、癒しの湯だ……!」
声が、震えた。
ガロは村へ取って返すと、まっすぐ、長く床に臥せっていた老人のもとへ走った。冬のあいだに体を弱らせ、春になっても起き上がれずにいた、村の古老である。
湯を含ませた布で、そっと体を拭ってやる。乾いた唇を、湯で湿してやる。
すると翌朝、老人は自分の足で立ち、久しぶりに戸口まで歩いて、朝の陽を浴びたのだ。
「顔色が……見違えるようだ。何年も、こんなに軽い体は、覚えがねえ」
老人は、しわだらけの手を合わせて、涙をこぼした。
噂は、またたく間に村じゅうへ広まった。
旅の疲れが、ひと晩で抜ける。長引いた咳が、鎮まる。子どもの擦り傷が、朝には塞がっている。祠に現れるその湯は、いつしか「聖なる湯」と呼ばれ、村人たちに大切に分け合われるようになった。
湯を分けてもらった者は、ほんの少しを布に含ませ、残りは大事に瓶へ移して、家の棚の一番いい場所へ供えた。ひと匙の湯を惜しみ、順番に譲り合い、いちばん弱った者のもとへ、まず届ける。誰に言われたわけでもなく、村にはそんな作法が生まれていった。
小さな寒村に、久しく忘れていた笑い声が戻ってくる。祠の恵みは、村の暮らしそのものを、少しずつ立て直していた。
祠の主さまは、糧を恵む神であるだけではない。
傷を癒し、病を溶かす、癒しの神でもあらせられる——。
ネル村の信仰は、いっそう篤いものになっていった。
「祠の主さま」
夕暮れの辻で、ガロはまた、深く頭を垂れる。
供物台には、村じゅうから寄せられた、心づくしの品が並んでいた。丁寧に磨かれた金貨、村の女たちが夜なべで織った布、猟師が獲った上質な毛皮。どれも、感謝の思いをありったけ込めた、精いっぱいの供物だった。
「あなたさまは、いったい、どれほどお優しいお方なのでしょう」
ガロの声は、切実に潤んでいる。
姿を見たことはない。どこの、どんなお方かも知らない。それでも、この祠を通して、絶えることなく恵みを授けてくださる、遠い遠い主さま。
「どうか、この湯で、村のみんなが、いつまでも達者でありますように」
ガロは長いこと、そのまま手を合わせていた。
その「聖なる湯」の正体が——山ひとつ向こうの縁側で、露天風呂の湯加減にのんきに舌鼓を打っている、ただの少し疲れの抜けた元会社員の、風呂の残り湯だとは。
ネル村の誰ひとりとして、知る由もなかった。
◇◇◇
同じ頃、俺は湯船の縁に腰かけて、ぼんやりと湯気を眺めていた。
早春の朝の空気はまだ冷たいのに、足を浸けた湯は、とろりとあたたかい。肩から力が抜けて、我ながら、だらしのないため息が出た。
「……はぁ。何度入っても、たまらんな、これは」
自作の露天風呂である。一冬かけて図面を引き、鞍馬さんに石を組んでもらい、みんなで作り上げた、俺の自慢の湯だ。
湧き水を引いた湯は、澄んでやわらかく、入ったあとの肌の調子まで妙にいい。近ごろは、この湯に浸かるためだけに、一日の段取りを組んでいる気すらする。
ふと、湯船の縁に置いた桶に目がいった。
昨日、湯加減を見ようと汲んでおいた湯が、まだ半分ほど残っている。もったいないな、と思う。こんなにいい湯を、ただ捨ててしまうのは、どうにも気が引けた。
水盆のほうで、スイがぷかりと浮いて、こちらを見ている。半透明のスライムが、湯気の向こうで、なぜだか得意げに揺れていた。
「あるじ。そのお湯、捨ててしまうのは、もったいのうございますわ」
「だよなあ。お前もそう思うか」
「ええ。それはもう、たっぷりと、どうぞお使いくださいまし」
やけに乗り気だな、と俺は苦笑した。
まあ、水を司るこいつからすれば、湯を粗末にされるのは忍びないのかもしれない。そう勝手に納得して、俺は残り湯の桶を、ひょいと持ち上げた。
考えてみれば、うちには律儀な常連さんがいる。
顔も名前も知らない、直売所のお客さんたちだ。野菜を並べておくと、毎回きっちり対価を置いて、黙って持っていってくれる。この頃は、こちらが恐縮するほど立派な品まで交じるようになった。
「野菜だけじゃ、なんだか申し訳ないんだよな」
湯気の立つ桶を眺めながら、俺は独りごちた。
いつも野菜を喜んでくれる相手だ。せっかくのいい湯が余ったのなら、これも一緒に、おすそ分けしてやったらどうだろう。喜んでくれるかは分からないが、捨てるよりは、ずっといい。
「よし。湯が余ったから、常連さんにもおすそ分けするか」
我ながら、いい思いつきだ、と俺は満足げにうなずいた。
縁の苔をならしていたコロが、まんまるの目を輝かせて、ぴょこんと弾む。
「あるじ、やさしいの。きっと、みんなよろこぶなの」
「そうだといいけどな。まあ、風呂の残り湯だ。気持ちだけ、受け取ってもらえりゃ上等さ」
俺は桶を抱えて、直売所のほうへ、のんびりと歩き出した。
風呂の余り湯を、ちょっとおすそ分けする。ただ、それだけのことだ。
その一杯が、遠い異世界で「聖なる湯」と崇められ、村じゅうの傷と病を癒す神の恵みになっているなどとは。
俺は、これっぽっちも、知らなかった。




