第114話
初湯の夜、俺はすっかり上機嫌だった。
一冬かけて図面を練った露天風呂に、ついに肩まで浸かれたのだ。湯上がりの体はぽかぽかで、縁側で飲む冷たい麦茶が、いつも以上にうまい。早春の夜気に、湯の名残の火照りが、じんわり気持ちいい。
湯船のふちでは、スイがまだぷかぷかと浮かんでいた。完成した湯がよほど嬉しいのか、この子は初湯からずっと、上機嫌が止まらないでいる。
「あるじ、あるじ。この湯船、ほんとうに素敵ですわ。わたくし、一生ここに住みますの」
「一生って、お前、もともと水場の住人だろ」
軽口を返して、俺は空になったコップを片づけに立った。ほんの少し、その場を離れただけだった。
台所でコップを洗って戻ってくると、湯船のあたりが、なんだかいつもと様子が違う。湯面が、ほのかに青白く光っているのだ。藍色の夕闇のなかで、立ちのぼる湯気まで、うっすらと輝いて見えた。
「……ん? なんだ、これ」
目をこすって、もう一度見る。気のせいかと思ったが、たしかに湯が、淡くきらめいている。
ふちのスイに目をやると、なぜか、やたらと姿勢がいい。ぴん、と伸びをするように背を張って、あさっての方角をじっと見つめている。
「スイ、この湯、光ってないか?」
「さ、さあ。夕日ではありませんこと? 早春の夕日は、とても幻想的ですものね」
もう日は落ちきっている。夕日もなにも、あたりはすっかり藍色だ。まあ、山の湧き水だ。ミネラルだか何だかの加減で、光る晩もあるんだろう。深く考えず、俺はその夜、床についた。
◇◇◇
翌朝、目を覚ました俺は、体の妙な軽さに気づいた。
布団から起き上がると、肩も腰も、いつもより格段に軽い。連日のDIYで、ばきばきに凝り固まっていたはずの背中が、すっきりとほぐれている。
顔を洗おうと手をかざして、また驚いた。あかぎれだらけだった手の甲が、つるりとしている。荒れて硬くなっていたのが、嘘みたいに滑らかだ。
「なんだ、この手。……肌、つるつるじゃないか」
鏡を覗くと、顔色までいい。ここ何年ぶんかの疲れが、ごっそり抜けたような、そんな軽さだった。
「昨日の湯、やたら効いたな……気のせいか? いや、明らかに違うぞ」
思い当たるのは、あの淡い光だ。それから、湯のふちで、妙にかしこまっていた水色の相棒。
井戸端で、なにくわぬ顔で水場を磨いていたスイに、俺は声をかけた。
「スイ。お前、昨日、湯に何かしただろ」
スイの体が、びくっと大きく波打った。そして、これ以上ないほど不自然に、ぷるぷると小刻みに震えだす。
「し、してませんわ! わたくし、な、何も……! あの青いつぶつぶなんて、ぜんっぜん入れておりませんわ!」
……青いつぶつぶ。俺は、まだひとことも言っていない。
「その青いつぶつぶ、まだ言ってないんだけどな」
「!」
スイは、ぴたりと動きを止めた。それから、ふい、と勢いよくそっぽを向く。
「し、知りませんわ。わたくし、お掃除の続きがありますの!」
そそくさと桶の中へ逃げ込んでいく。……バレバレである。
どうやらこの入浴剤マニアは、完成した湯が嬉しくてたまらず、大好きな青い錠剤のシュワシュワを、俺の留守にこっそり湯へ混ぜてしまったらしい。宝物みたいに眺めるだけでは、我慢できなかったと見える。
それにしても、たかが百円かそこらの入浴剤で、こんなに効くものだろうか。凝りは抜けるし、肌はつるつる。まるで、名湯で湯治でもしてきたみたいだ。まあ、スイが澄ませた湧き水と、よほど相性がよかったんだろう。安物でも、侮れないもんだな。
◇◇◇
もっとも、責める気なんて、さらさらなかった。
あんなに喜んでくれるなら、むしろ、いくらでも入れてやりたいくらいだ。桶の中で縮こまっている相棒に、俺はしゃがんで声をかけた。
「なあスイ。あの青いの、そんなに好きなら、堂々と入れていいぞ。まとめ買いしてあるしな」
桶の底から、スイがそろりと顔を出した。まんまるの体が、期待にきらきら光っている。
「……よろしいんですの?」
「おう。お前の湯でもあるんだ。好きにしろ」
スイは感激のあまり、ぷるんと高く跳ねた。
「あるじ、あなたって方は、やっぱりお心が広いんですの……!」
たかが入浴剤で大げさな。とはいえ、これで一件落着だ。
こうして、うちの露天風呂の湯には、スイのお気に入りが、遠慮なく混ざるようになった。そのせいか、それからというもの、この湯は不思議とよく効く。浸かれば一日の疲れが抜け、小さな不調も、いつのまにか和らいでいる。
山の湧き水と、精霊の澄ましと、安物の入浴剤。その三つがそろっただけの、ただの手作り風呂。——それがどれほど得がたい湯なのか、そのときの俺は、まだ何も知らなかった。




