第113話
朝がいちばん静かな時間に、俺は手ぬぐいを一本だけ肩にかけて、庭を歩いていた。
昨夜のうちに湯を張り、エンに火加減を頼んでおいた露天風呂が、湯けむりを立てて待っている。冷たい早春の空気の中で、その白い湯気だけが、生きもののようにゆらゆらと立ちのぼっていた。
足の裏に、飛び石のひやりとした感触が伝わる。まだ朝露の残る石を一歩ずつ渡っていくと、それだけで、これから始まる贅沢の予感に胸が高鳴った。
湯船のふちに立って、俺はしばらく、ただそれを眺めた。
鞍馬さんが組んでくれた石が、朝の光を受けて濡れた肌を光らせている。モクの刻んだ木の縁が、その石にそっと寄り添っている。スイの導いた湧き水が、湯口から絶えることなく、こぷこぷと注ぎ込んでいた。
「……とうとう、この日が来たか」
声に出すと、なんだか照れくさかった。一冬かけて図面を引いて、雪解けと一緒に掘り始めて、みんなの手を借りて、ようやくここまで来たのだ。
俺は帯を解いて、湯のふちにそっと片足を差し入れた。
その瞬間、ぞくりと背筋が震えた。
冷えきった足先を、とろりとした湯が、やわらかく包み込んでくる。熱い、というより、まとわりつくような優しさだった。山の湧き水は、こんなにも肌に馴染むのかと、足先だけで思い知らされる。
ふくらはぎ、膝、腿と、少しずつ身を沈めていく。そのたびに、じんわりとした温もりが、足のほうから体を這い上ってきた。
腰まで浸かったところで、俺は思わず息を止めた。
急ぐのがもったいなかった。この、湯が体を登ってくる時間そのものを、味わっていたかった。
そうして、肩まで、ゆっくりと沈み込む。
「……ふうう」
喉の奥から、自分でも驚くほど長いため息が漏れた。
芯だ。芯まで届く。表面をなでるだけの熱じゃない。体の内側、骨のあたりまで、じわじわと熱がしみ込んでくる感じがした。冬のあいだこわばっていた肩が、腰が、指の一本一本までが、湯の中でほどけていく。
◇◇◇
肩まで浸かってしまうと、あとはもう、天国だった。
俺は湯船のふちに後頭部をあずけて、大きく目を開けた。
目の前に、山があった。
雪解けの山肌は、まだところどころに白を残しながら、その下から、萌えたばかりの若草色をのぞかせている。冬のあいだ、じっと灰色に沈んでいた山が、たった数日で、こんなにも色づきはじめていた。
木々の枝先には、ほどけかけた芽が、朝露を光らせて震えている。ひと粒ひと粒が、小さな光の玉みたいに、ちかちかと瞬いていた。
風が渡ると、その光がいっせいに揺れる。まるで山ぜんたいが、深呼吸をしているみたいだった。
どこかで、鳥が鳴いた。
ひとつ鳴くと、それに答えるように、別の枝からもうひとつ。冬のあいだ絶えていた声が、あちこちで戻りはじめている。澄んだ空気の中を、その声が、思いのほか遠くまで通っていった。
俺は湯気ごしに、その全部を眺めていた。
熱い湯に肩まで浸かった体と、頬をかすめる冷たい外気。そのふたつが、ちょうど湯面のあたりで出会って、白い湯けむりになって立ちのぼっていく。
内と外の、この落差がたまらなかった。熱いだけでも、涼しいだけでも、こうはならない。冷たい空気があるからこそ、湯の熱がありがたく、湯があたたかいからこそ、外気の澄みが心地いい。
「……最高だ。何なんだ、この贅沢は」
しみじみと、声がこぼれた。
金じゃ買えない、と思う。いや、金を積んだって、こんなものは手に入らない。雪解けの山も、渡る鳥の声も、湯口から絶えず注ぐこの水も、値段のつけようがないのだ。
俺はもう一度、深く息を吸い込んだ。
早春の空気は、少しだけ土の匂いがした。雪の下で眠っていたものが、ようやく目を覚ましたような、湿ってやわらかい匂い。それを胸いっぱいに満たして、ゆっくりと吐き出す。
体の芯からあたたまって、頭のてっぺんだけが、外気でひんやりしている。この、のぼせない具合が、また絶妙だった。いつまでも入っていられる。
◇◇◇
ふと、湯のあちこちで、相棒たちが思い思いに過ごしているのに気づいた。
俺のすぐ隣の湯面で、スイがとろけていた。半透明の体を、これ以上ないくらいゆるゆると波打たせて、湯にすっかり溶け込んでいる。
「ああ……あるじ、わたくし、幸せですわ……このお湯、わたくしの、いちばんの自信作ですのよ……」
語尾までとろんとして、いつもの得意げな張りがない。よほど気持ちがいいらしい。自分で浄めた水に、自分でうっとりしているのだから、世話がない。
「そりゃよかった。お前の水が、いちばんの立役者だもんな」
俺が言うと、スイはくすぐったそうに、ぷるんとひとつ跳ねて、また湯に沈んでいった。
湯船のふちの、あたたかい石の上では、コロがまるくなっていた。
立ちのぼる湯気に包まれて、苔玉のモフモフが、しっとりと湿っている。まんまるの目は、もう半分閉じかけていた。
「ぬくいの……あるじ、ここ、ぽかぽかで、きもちいいの……」
寝ぼけた声でそう言って、コロはこてんと首を傾けた。湯気の温もりが、こいつにはちょうどいい昼寝の毛布らしい。今にも寝入りそうな顔が、なんとも可笑しかった。
湯を沸かす焚き口のほうからは、パチパチと、機嫌のいい火の音がしている。
のぞいてみると、エンが胸を張って火を守っていた。赤い尻尾を得意げに揺らして、薪のあいだをちょろちょろと行き来しては、火加減を整えている。
「どうだ、あるじ! オレの火加減、完璧だろ! 熱すぎず、ぬるすぎず、だぜ!」
「ああ、文句なしだ。ずっと同じ温さが続くもんな。助かるよ」
「へへっ、まかせとけって!」
褒められて、エンの尻尾の火が、ひときわ元気にぱちんと跳ねた。こいつが火を見てくれているから、いつまで浸かっても湯がぬるまない。ありがたい相棒である。
そして、湯船から少し離れた木の縁側では、モクが腕を組んで座っていた。
自分が刻んだ木の継ぎ手を、湯気がしっとりと濡らしていくのを、渋い顔で見守っている。だが、その口元は、かすかにゆるんでいた。
「フン……湯気で百年濡れてももつ、と言っただろう。……まあ、悪くない眺めだ」
そう言って、モクは山のほうへ視線を移した。石と、木と、湯と、雪解けの山。自分の仕事がその一部になっているのが、満更でもないらしい。
みんな、それぞれのやり方で、この完成した湯を味わっている。
俺ひとりの風呂のはずが、いつのまにか、四匹ぶんの居場所になっていた。それがまた、なんともあたたかかった。
◇◇◇
俺はもう一度、肩まで深く沈み込んで、山を眺めた。
湯口の水音が、こぽこぽと、ちょうどいい調子で耳をくすぐる。あの音を、あと五度と角度をいじって整えたのは、我ながら悪くない仕事だったと思う。
鳥が鳴いて、風が芽吹きを揺らして、湯気がゆらゆらと立ちのぼる。時間が、うんとゆっくり流れていた。
ふと、ずいぶん昔のことのように、都会での日々が頭をよぎった。
終電で帰って、狭いユニットバスの浅い湯にうずくまって、明日の会議のことを考えていた夜。追い焚きボタンを押しても、ちっともあたたまらなかった、あの薄っぺらい湯。汚れを落とすだけの、ただの作業だった風呂。
あの頃の俺は、心も体も、いつもどこか冷えきっていた。
それが、どうだ。
いま俺は、自分の手で山を掘って作った露天風呂で、雪解けの山を眺めながら、肩まで湯に浸かっている。芯の芯まであたたまって、隣では相棒たちが幸せそうに湯にとろけている。
「都会で、終電まで消耗して、心をすり減らしてた頃の自分に……この景色を、見せてやりたいよ」
湯気の向こうの山に、俺はそっと語りかけた。
あの頃の俺に、教えてやりたい。お前、いつか、こんな贅沢するんだぞ、と。山の湧き水で、朝から湯に浸かって、鳥の声を聞きながら、ぼんやり山を眺める朝が来るんだぞ、と。
……たぶん、信じないだろうな。疲れて幻でも見たか、と自分の正気を疑うに違いない。
俺は湯の中で、ふっと笑った。
ずっと欲しかったはずのこの時間を、いつのまにか贅沢だと思うことすら忘れていた。それが今、こうして、まぎれもなく手のなかにある。
その実感が、湯の温もりと一緒に、じんわりと胸を満たしていった。
もう少しだけ、と俺は目を細める。あと少しだけ、この湯の中で、春の始まる山を眺めていよう。
湯口の水が、こぷ、とひとつ、あたたかく鳴った。




