第112話
早春の朝は、まだ骨の芯が冷える。
俺は焚き口の前にしゃがんで、薪の爆ぜる音を聞いていた。組んだばかりの石の湯船は、まだ空っぽで、ひんやりと据わっている。今日はいよいよ、この器に、初めての湯を張る日だ。
昨日までで、風呂そのものは形になった。石を組み、木で縁を回し、湧き水を引く樋も通した。あとは、水を溜めて、温めるだけ——原理は、うちの五右衛門風呂と変わらない。
……と、頭では分かっているのに、なぜか手が、さっきからそわそわしている。
樋の口をひらくと、山の湧き水がこんこんと湯船へ流れ込みはじめた。澄んだ水が石の底を叩き、渦を巻いて、少しずつ、かさを増していく。空だった器が水を得ていく様子は、何度眺めても、妙に胸が躍るものだ。
水面が縁石の目印まで届くのを待って、樋をそっと止める。石に囲まれた小さな水鏡に、早春の淡い空が、ゆらりと映り込んだ。ここまで来るのに、丸ひと冬かかった。
水があらかた溜まったら、次は火だ。焚き口に薪をくべ足すと、赤いサラマンダーが、待ってましたとばかりに炎の中へ転がり込んだ。
「まかせろよ、あるじ! 湯加減は、オレの担当だぜ!」
エンが尻尾をぱちぱち跳ねさせると、炎が一段、素直な色に揃う。火力が、ぶれない。こいつが火の番についていると、温度計もいらないくらいだ。
やがて、湯船の水面から、うっすらと湯気が立ちはじめた。冷たい朝の空気に触れて、白い湯けむりが、ゆらり、ゆらりと立ちのぼっていく。
手を近づけると、ふわりと湿ったぬくもりが指先を包む。水のにおいに、ほんのり、木の縁と石の匂いが混じって、まだこの世にない、うちだけの湯の匂いがした。
◇◇◇
湯がじゅうぶんに温もってきた頃、水盆で様子をうかがっていたスイが、たまらず飛び出してきた。半透明のスライムが、湯気の中をぷかぷかと舞い上がり、湯面のうえをくるくる回りはじめる。
「できましたわ! できましたわ〜! わたくしの湯船が、ついに!」
スイの声は、聞いたこともないほど弾んでいた。水しぶきを星みたいにきらめかせて、湯の上を右へ左へ、うれしくてたまらないという風に飛び回っている。
「ああ、なんて素敵な湯加減……! やわらかくて、あたたかくて……! これですわ、わたくしが、ずうっと欲しかったのは!」
うっとりと、いまにも湯に頬ずりせんばかりだ。
「スイ、ずいぶんご機嫌だな」
「あるじ、当然ですわ! だって、これは、わたくしの湯船ですのよ!」
胸を張る——というより、全身で弾むスイに、俺は思わず吹き出した。水を浄めて、湯を冷めにくくして、いちばん働いてくれたのは、こいつだ。
まあ、一番の功労者が、一番はしゃぐのは、道理というものだろう。
◇◇◇
薪をひとつくべ足して、俺は一歩、下がった。
湯けむりの立ちのぼる、石造りの湯船。木の縁が湯気にしっとりと濡れて、色を深めている。その向こうには、雪解けの山肌に、若草の緑がうっすらと戻りはじめていた。
……気づけば、俺は、しばらく言葉を失っていた。
「本当に、作っちゃったな……」
じわじわと、実感が、腹の底のほうから湧いてくる。
一冬かけて、ノートに何度も描き直したfigだ。湯船の形も、石の置き方も、湯の引き込みも、排水の勾配も。雪ごもりの夜、囲炉裏のそばで、鉛筆を舐めながら線を引いた。あの、紙の上のただの線が——いま、目の前で、ほかほかと湯気を上げている。
図面が現実になっていく感じは、SE時代のリリース前に、ちょっと似ている。ただ、こっちは、手を伸ばせば湯気に触れられるぶん、達成感の手ざわりが桁違いだ。
沸いているのは、山の湧き水を温めただけの、ただの湯である。温泉が出たわけでも、大した仕掛けがあるわけでもない。それなのに、この湯船を眺めているだけで、なぜだか胸がいっぱいになるのだから、不思議なものだ。
スイは、まだ湯の上でくるくる回っている。エンは焚き口で得意げに火を守り、いつのまにか縁にはコロがちょこんとのぼって、湯気に眠そうな目を細めていた。
「あとは……入るだけ、か」
明日の朝、この湯に、初めて肩まで浸かる。そう思っただけで、胸が、少年みたいに高鳴った。
俺はもう一度、湯けむりの向こうの山をゆっくりと眺めて、白い息をひとつ、吐いた。




