第11話
このところ、直売所の野菜が、並べるそばから消えていく。
朝に置いた分が、昼過ぎにはもう空になっている。料金箱の対価も、それに合わせて律儀に増えていく。顔も名前も知らない常連が、どうやら着実に増えているらしい。
ありがたい話ではあるが、これだと供給が追いつかない。トマトとナスとキュウリだけでは、さすがに献立に飽きられる気がする。
「よし、畑を広げるか」
思い立ったら、腰が軽いのが今の俺のいいところだ。会社にいた頃なら、まず稟議書のことを考えて憂鬱になっていた。
麓のホームセンターまで下り、種と苗をどっさり買い込んだ。小松菜にほうれん草、二十日大根に人参、それに香りの立つハーブを何種類か。せっかく畝を増やすなら、種類は多いほうが眺めても楽しい。
要件定義は「食卓が賑やかになること」。それだけ決めれば、あとは手が勝手に動く。
◇◇◇
翌朝、日が高くなる前の涼しいうちから畑に出た。
鍬を土に入れると、湿った土のむっとする匂いが立ちのぼる。雨の翌日の、少し発酵したような、生きものの気配のする匂いだ。都会のアスファルトの上では、一度も嗅いだことのない匂いだった。
まずは新しい区画の草を刈り、石を除け、鍬を振り下ろして土を起こしていく。ざく、ざく、と刃が根を断つ手応えが、腕から肩へ伝わってくる。
起こした土を、レーキで平らにならす。畝の幅は、屈まずに手が届く七十センチと決めた。人が並列で作業できる幅、と考えかけて、ひとりで笑う。畑に並列処理もないものだ。
葉物の畝は浅く、根菜の畝は高く盛る。根が下に伸びる分、土は深くやわらかいほうがいい。ハーブは水はけのいい隅に、少し土を上げて据えた。
額から落ちた汗が、目にしみる。手のひらのマメが、じんと熱を持つ。それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。
畝がひととおり立ったら、次は支柱と、水やりの動線づくりだ。
物置から拾ってきた竹を、鉈で適当な長さに割る。ぱきん、と乾いた音を立てて、青くささの残る竹が裂ける。この音が、なぜだか癖になる。
割った竹を畝の両脇に斜めに挿し、上で交差させて麻紐で縛る。三角に組めば、風が来ても倒れない。てっぺんを一本の横竹で繋いで、蔓物が這える棚にした。
水やりは、ずぼらに済ませたい。俺は井戸から引いたホースの通り道を、畝と畝のあいだにまっすぐ確保した。端から歩きながら撒けば、一往復で全部に水が行き渡る。動線を最短にしておけば、毎朝の手間が確実に減る。
「こういうのを楽にするのだけは、昔から得意なんだよな」
効率を突き詰める癖は、こういうときに役に立つ。前の仕事で唯一、山暮らしに持ち越せた財産かもしれない。
組み上がった畝と支柱を、一歩下がって眺める。まだ苗は小さいが、骨組みだけは立派なものだ。
我ながら、六十点は超えたと思う。
それから数日で、畑の景色は一変した。
蒔いた種はどれも判で押したように芽を出し、葉物はみるみる背を伸ばした。小松菜は艶やかに、ほうれん草は肉厚に、二十日大根は名前のとおりの速さで根を膨らませていく。
朝に見た双葉が、夕方には本葉を広げている。そんな日が、何日も続いた。
「土がいいのか、水がいいのか……とにかく、うちの畑は優秀だな」
プランターで枯らしてばかりだった都会の頃が、嘘のようだった。日当たりと、山の水と、この黒々とした土。条件が揃えば、植物というのは勝手に育つものらしい。
摘みたてのハーブを一枚、指でこすって鼻に近づける。爽やかで、少しつんとする青い香りが、鼻の奥まで抜けた。
「ただの薬味なんだけどなあ。……なんでこんなに、いい香りがするんだか」
伸びすぎた分を摘んで、いつものように直売所へ足す。青菜の束と、香草をひとまとめ。緑がぎっしり詰まった棚は、我ながら壮観だった。
畝が壁のように青々と茂ったのを見て、俺はひとり悦に入った。緑の壁だ。誰に自慢するでもないが、こういう手ごたえは、ただただ気分がいい。
◇◇◇
畑仕事を終えて母屋へ戻る途中、直売所のそばで、ふと足が止まった。
棚の脇に、誰かの影が一瞬、さっと動いた気がしたのだ。人の背丈ほどの、細い影。
「誰か来てるのか」
声をかけながら近づくと、そこには誰もいなかった。木漏れ日が揺れているだけで、足音も、人の気配も残っていない。
ただ、料金箱の対価だけが、さっき通ったときより、また少し増えている。
俺は缶を覗き込んで、首をひねった。並べた青菜も、いつのまにか半分ほど消えている。ついさっきまで、誰もいなかったはずなのに。
「気配だけはあるんだよな、うちの常連。忍者かな」
冗談めかして呟いてはみたが、悪い気はしなかった。姿は見せず、けれど確かに来て、律儀に対価を置いていく。
顔の見えないやりとりが、俺はいつのまにか、すっかり気に入っていた。
◇◇◇
誠がいなくなった畑の畝の上で、まるいものがころんと転がった。
両手に乗るくらいの、モフモフした苔玉。土と植物の精霊、コロだ。
「はたけ、こぉんなにひろがったの……!」
まんまるの目を、いっぱいに見開く。掘り起こされたばかりの新しい畝は、やわらかくて、いいにおいがぷんぷんする。コロはうれしくてたまらなくて、畝から畝へ、ころころと転がってまわった。
小さな根っこにそっと触れると、土がほくほくとあたたかくなる。青菜が、ぐうんと背を伸ばす。
「もっと、もっとおおきくなあれ。あるじ、よろこぶよぉ」
あるじは「土がいいのか、水がいいのか」なんて、ふしぎそうに首をかしげていた。ほんとうはぜんぶ、コロがせっせとお世話しているなんて、ちっとも気づいていないのだ。
でも、それでいいの。畑がひろがれば、コロのお仕事もふえる。あるじが緑の壁を見て、嬉しそうにしていた。それだけで、胸のあたりがぽかぽかするから。
「あした、なにを植えるのかなあ。……たのしみなの」




