第10話
朝から、雨だった。
軒を打つ音で目が覚めて、障子越しの光がいつもより鈍い。縁側に出ると、山はすっぽり灰色の霧に沈んで、畑も直売所も、しっとり濡れて煙っている。
こういう日は、外仕事は潔くあきらめる。土は重いし、濡れた斜面で鍬を振るうのは、ただ危ないだけだ。無理してやることもない。
とはいえ、じっと寝転んでいるのも性に合わない。外がだめなら、内がある。雨の日には、雨の日の仕事があるものだ。
まず取りかかったのは、台所の棚だった。前に直売所を建てたときの端材が、いい具合に残っている。
鋸を引くと、切り口からふわりと木の匂いが立つ。杉の、甘くて青いあの匂いだ。墨をつけ、寸法どおりに挽き、面を鉋で軽くならす。しゅる、しゅる、と薄い削り屑が巻いて落ちていく。
あとは棚柱に金具を打って、板を渡すだけ。ネジを締める最後のひと締めで、手のひらに硬い手応えが返ってくる。この感触が、たまらない。
「よし。まあ、六十点ってとこかな」
水平器を当てると、ほんの少しだけ傾いていた。だが、皿を載せて落ちなければ、それで十分だ。完璧を目指してやり直すほど、俺はもう若くない。
棚ができると、次は道具の手入れに移った。雨で湿気るこういう日こそ、刃物には油を差しておきたい。
鑿と鉋の刃を布で拭い、砥石を水に浸す。しゃり、しゃり、と刃を滑らせると、濁っていた鋼の面が、じわじわと鏡みたいに冴えてくる。
不思議なもので、雨の日は水仕事が妙に心地いい。井戸から汲んだ水は指を切るほど冷たいのに、いくら触れていても苦にならず、砥石の面がやけによく滑る。じっとり湿気ているはずの台所も、なぜか清々しかった。
「雨の日は、水がやわらかい気がするな。……気のせいか」
刃を研ぎ終える頃には、雨脚がいっそう強くなっていた。ちょうどいい、と俺は台所に立つ。採れすぎた大根とキノコを、干し野菜に仕込むことにした。
大根の皮をむくと、青くさい土の匂いに、ほんのり甘い香りが混じる。それを拍子木に刻み、笊に広げる。キノコは石づきを落として、手で裂くだけでいい。
本当は、からりと晴れた日に天日で干すのが一番だ。だが、雨の日は雨の日で、風の通る軒下に吊るしておけばいい。ゆっくり時間をかけて乾いていくのも、それはそれで悪くない。
水気の抜けた野菜は、うまみがぎゅっと縮んで、日持ちする。保存食ってのは、要するに時間を味方につける仕込みだよな、と笊を吊るしながら思う。
◇◇◇
ひと通りの仕事を片づけると、もう昼を過ぎていた。俺は番茶を淹れて、縁側に腰を下ろす。
湯呑みから立つ湯気の向こうで、雨が休みなく庭を叩いている。軒から落ちる雫が、地面に小さな水たまりを作って、そこへまた新しい雫が跳ねる。ただ、それだけの景色だ。
急かすものが、何もない。
会社にいた頃なら、雨の一日なんて、遅延と苛立ちの代名詞でしかなかった。電車は止まり、傘は役に立たず、それでも納期だけは一ミリも動いてくれなかった。
それが今は、この雨のおかげで、堂々と何もしないでいられる。
「……何もしなくていい時間ってのは、こんなに贅沢だったんだな」
湯呑みを両手で包むと、じんわり温かい。番茶の香ばしい湯気を吸い込むと、体の芯までほどけていく。雨音は、思っていたよりずっと、いい音だった。
◇◇◇
翌朝、雨は上がっていた。
昨日は一日降られて、直売所に野菜を出しそびれていた。今朝こそはと籠を提げて庭の隅へ下りると、料金箱の様子が、いつもと少し違っている。
見慣れたコインに加えて、小さく折り畳んだ紙切れが一枚、そっと差してあったのだ。
開いてみて、俺は首をかしげた。見たこともない文字が並んでいる。アルファベットでも、ハングルでも、アラビア文字でもない。くねくねと連なった、まるで模様のような字だ。
雨に濡れないよう、油紙のようなもので丁寧にくるんである。書いた誰かの律儀な気配だけは、はっきりと伝わってきた。
「読めない……けど、なんか、ありがたいな」
文面はさっぱりわからない。だが、この置き方の丁寧さからして、たぶん礼状か何かだろう。わざわざ手紙まで添えてくれるとは、うちの常連さんは、つくづく義理堅い。
俺は紙切れをそっと元の折り目にたたみ直し、小物入れにしまった。いつか読めるようになったら、なんて書いてあるのか、知りたいものだ。
まあ、それは、おいおいでいい。
◇◇◇
雨の日は、スイの舞台だった。
半透明のからだをぷるんと弾ませて、スイは台所の水がめの底から、ちゃぷりと顔を出す。窓を叩く雨音が、彼女にはご機嫌な調べに聞こえるのだ。空から降るこの水も、井戸を満たすあの水も、みんな仲間みたいなものだから。
あるじが砥石を濡らすたび、スイはそっと水の粒を澄ませてやった。冷たい井戸水がやわらかく滑ったのも、湿った台所がなぜか清々しかったのも、ぜんぶ彼女の仕込みだ。
「雨の日は、腕が鳴りますわ……!」
得意げに胸を張っても、あるじには届かない。それどころか「気のせいか」なんて首をかしげている。むう、とスイはちょっとだけ頬をふくらませた。
それでも、縁側で雨音に聞き入るあるじの横顔は、なんだかとても穏やかで。
あるじは雨の静けさを、スイは雨の水を。おなじ一日を、別々に、うんと楽しんでいる。
「……あの青いつぶつぶ、また入れてくださると、もっと張り切りますのに」
水面をきらりと揺らして、スイはぷかりと、満ち足りた息をついた。
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あとがき
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