第109話
湧き水が、澄んだ音を立てて湯船に落ちていく。空の石の器がじわじわと満ちて、水面が縁の内側をゆっくり這い上がっていく——はずだった。
ところが、水位はある高さでぴたりと止まった。かわりに、湯船の外側、積んだ石の隙間に、濡れた染みがじわりと広がっている。指で触れると、たしかに水が滲み出していた。
「あー。やっぱり、一発じゃ決まらないか」
俺は膝に手をついて、その染みをのぞき込んだ。がっかり、というほどでもない。むしろ、こうなるだろうと半分は思っていた。
石を積んで、隙間を詰めて、水を溜める。原理は単純でも、水は正直だ。少しでも逃げ道があれば、必ずそこから抜けていく。
「まあ、そうだよな。器ってのは、そういうもんだ」
水を止めるというのは、要するに、逃げ道を一個ずつ塞いでいく作業だ。これは、覚えのある感覚だった。
動かないプログラムを前に、原因を一つずつ切り分けて潰していく、あの地道な仕事。畑やDIYとは毛色が違うけれど、頭の使い方はそっくりだ。
「バグ取りと同じか。なら、やることは決まってる」
◇◇◇
まずは、漏れている場所の特定だ。水を張った状態で、外側の石をぐるりと見て回る。
濡れているのはどこか、乾いているのはどこか。染みの濃さから、水の抜けている量まで見当をつけていく。地道だが、当たりをつけずに闇雲に詰めても、たぶん一生終わらない。
と、水面がふいに、くるりと渦を巻いた。
「あるじ、ここですわ」
水盆から移ってきたスイが、湯船の一角でくるくると回っている。半透明のぷるぷるした体が、石の一点をぷるんと指し示していた。
「ここから、わたくしのお水が逃げていますの。もったいのうございますわ」
言われて手をあてると、なるほど、ほかより明らかに水の勢いがある。目だけで追っていたら、見つけるのに小一時間はかかったところだ。
「助かる。お前、水の通り道が全部見えてるのか。反則だろ、それ」
スイは得意げに、ひときわ大きく波打った。手柄を褒められて胸を張るところが、こいつのかわいいところだ。
場所さえ分かれば、あとは詰めるだけだ。モルタルを練って、隙間にぐいぐいと押し込んでいく。指の腹で撫でつけ、余分を掻き落とし、面をならす。ひと粒の隙も残さないよう、丁寧に。
ひとつ塞いで、また水を張る。今度はさっきより少し高いところまで水位が上がって——別の場所が、じわりと滲んだ。
「お、二匹目か。もぐら叩きだな、これは」
思わず苦笑する。ひとつ塞げば、水は次に弱いところを探して抜ける。当たり前だ。いちばん漏れやすい穴が消えれば、二番目が主役に躍り出る。
だからこれは、失敗じゃない。順番に、弱いところが表へ出てきてくれているだけだ。ひとつ潰すたびに、頭の中の「残り課題」から一行ずつ消えていく。この、確実に前へ進んでいる手応えが、俺はどうにも好きらしい。
スイが次の漏れ箇所へすいっと泳いでいき、俺はモルタル片手に、そのあとを追う。三つ目、四つ目と、隙間の主役は次々に入れ替わっていったが、その数はちゃんと減っていた。
◇◇◇
塞いでは張り、張っては探し、を何度も繰り返した。日が傾く頃には、外側の石は、どこもしっとりと乾いていた。
最後のひと隙間を詰め終えて、俺はもう一度、湯船いっぱいに水を張る。縁のぎりぎりまで満たして、じっと水面を見つめた。
減らない。しばらく待っても、水位はぴたりと動かないままだ。石の外側も、乾いたまま。
「……よし。止まった」
思わず、こぶしを軽く握っていた。一日がかりの、地味な地味な作業。派手さなんて何ひとつない。それでも、たしかに水を閉じ込めた器が、いま目の前にある。
素人が積んだ石の風呂だ。少しくらい漏れて当たり前だし、人様に自慢できる出来でもない。まあ、自分と居候たちが使うぶんには、上等すぎるくらいだろう。
水面には、夕焼けの朱色が映り込んでいる。その静かな色を眺めながら、俺は妙な充実感に浸っていた。
「よし、止まった。……こういう試行錯誤も、嫌いじゃないんだよな」
むしろ、と俺は付け足す。つまずいたぶんだけ、完成したときのご褒美が増える。すんなりできてしまったら、きっとこんなに愛着は湧かなかった。
乾いた石を手のひらで撫でて、俺は明日の工程を思い描いた。あとは、この器に、湯を沸かして張るだけだ。




