第108話
湯船の形が立ち上がれば、次にやることは決まっている。この空っぽの器に、湯を張ることだ。
だがその前に、山の湧き水を、ここまで引いてこなければならない。湧き水の出どころは、湯船から少し登った岩場の陰にある。冬のあいだも涸れなかった、細いけれど確かな流れだ。
ここから湯船まで、水が自分の足で歩いてくれるように、道をこしらえてやる。俺は竹を割って樋にし、石を並べて受けをつくった。
要は、水の通り道を勾配で繋いでいく作業だ。高いところから低いところへ、水は素直に落ちていく。その素直さを邪魔しないように、整えてやればいい。
「figの上では、一本の線だったけどな。実際にやると、地面ってどこも微妙に傾いてる」
水平器を当てながら、俺は苦笑いした。数センチの狂いで、水は流れたり澱んだりする。頭で描いた勾配と、目の前のでこぼこを、少しずつ擦り合わせていくしかない。
◇◇◇
そこで真価を発揮したのが、スイだった。
水盆から抜け出したスイが、樋の先を、するすると先導していく。半透明の体で流れに乗りながら、俺には見えない水の道筋を、ちゃんと知っているのだ。
「あるじ、こちらですわ。この岩の下を、お水が通りたがっていますの」
言われるまま樋の向きを直すと、水はふっと勢いを増して流れ出す。地面の下の水脈まで、こいつには手に取るように分かるらしい。
「助かるよ、ほんと。どこを掘ればいいか、一発で分かるんだから」
しかも、スイの仕事はそれだけじゃない。流れに寄り添うように進みながら、水を浄めていく。落ち葉の屑も、土の濁りも、こいつが通ったあとには、嘘みたいに澄んだ水だけが残っていた。
「スイがいなきゃ、水引きだけで何日かかったか。しかも、こんなに綺麗な水にはならなかっただろうな」
しみじみ言うと、スイは体をきらりと反らせて、得意満面になった。
「わたくしの手にかかれば、この山のお水は、どこよりも澄みますのよ。ふふん」
鼻高々のその様子が、なんとも可愛らしい。手柄をちゃんと自慢するところは、こいつの、昔から変わらないところだ。
まあ、風呂の水なんてのは、澄んでいるに越したことはない。湯上がりの気分がいい。せいぜい、その程度に思っていた。ただの、上等な湧き水。それ以上のものだなんて、考えもしなかった。
◇◇◇
樋を継ぎ、石を据え、勾配を測り直す。地道な作業を、半日ほど続けただろうか。
継ぎ目からこぼれる分は、石を噛ませて受け直す。傾きが足りなければ、下の受けを一段掘り下げる。一本の樋を繋ぐだけでも、直すところは次から次へと出てくる。
それでも、スイが先で水の機嫌を教えてくれるおかげで、迷いはなかった。詰まりそうな場所も、澱みそうな窪みも、あらかじめ避けて道を通せる。
やがて、湧き水から湯船まで、一本の道がまっすぐに繋がった。あとは、栓を抜くように、流れを解き放つだけだ。
俺は湧き水のところまで戻り、せき止めていた石を、そっとどけた。水が、動き出す。竹の樋を伝い、石の受けを渡り、勾配に導かれて、下へ、下へと降りていく。
その流れを追いかけるように、俺は湯船のところまで駆け下りた。間に合った。ちょうど、樋の先から、最初のひとしずくが落ちるところだった。
澄んだ湧き水が、こんこんと、湯船へ流れ込み始める。空っぽだった石の器の底に水が溜まり、光を弾いて、少しずつ、確かに満ちていく。
「……来た。水が、入ってきた」
思わず、声が漏れた。
一冬かけて図面を引いて、掘って、石を組んで、樋を渡して。頭の中にしかなかったものが、いま、目の前で水を湛えていく。その一部始終を、俺はただ、胸を熱くして見つめていた。
スイも湯船の縁で、満ちていく水を、我が子でも眺めるような顔をしている。
「ふふ。いい器ですこと。わたくしのお水が、こんなに映えますわ」
俺も同じ気持ちだった。石の窪みに張られていく水は、朝の光を透かして、ぞくりとするほど綺麗だ。これに湯を張って、肩まで浸かる日を思うと、それだけで顔がにやけてくる。
と、そのときだった。
水位を眺めていた俺の目が、湯船の縁の一点で止まる。組んだ石のわずかな隙間に、じわり、と濡れた染みが広がっていた。
最初は、跳ねた飛沫かと思った。だが、その染みは、見ているあいだにも、じわじわと下へ伸びていく。
「……あれ。ここ、濡れてないか?」
器に満ちていくはずの水が、どこかへ、こっそり逃げているらしい。人生初の露天風呂は、そう簡単には、満タンにさせてくれないようだった。




