第108話
早春の朝の光は、まだ薄い。梅の匂いを含んだ空気が、掘り返したばかりの土の上を流れていく。
昨日、鞍馬さんが組み上げてくれた石垣は、ひと晩たっても寸分も動いていなかった。俺は湯船の窪みに膝をついて、内側の石肌を手のひらでゆっくり撫でていく。ざらりと冷たく、ところどころ、指の腹に小さな隙間が引っかかった。
「よし。今日は、この器の中を仕上げるぞ」
石を積んだだけでは、まだ湯は溜まらない。水というやつは、人間の想像よりずっと律儀に、開いた隙間を探し当てて逃げていく。そこを一つずつ塞ぐのが、今日の仕事だ。
まずは掃除から。刷毛で目地の砂と苔を払い、絞った布で石肌を拭き上げる。下地が汚れていては、どんないい詰め物も食いつかない。段取りの八割は下ごしらえ——これは畑もDIYも、前の仕事も、たぶん同じだ。
◇◇◇
拭き上げた石が乾くのを待って、防水のモルタルを練る。
バケツに水と粉を合わせ、コテでねっとりするまで練り上げていく。ひんやりとした灰色の匂いが、鼻の奥に立ちのぼった。硬すぎず、緩すぎず。耳たぶくらいの固さがいい、と説明書にはあった。指でつまんで、こねて、加減を確かめる。
「なるほど、これくらいか。……料理と一緒だな、水の入れ加減ひとつで別物になる」
練ったモルタルを、石と石のあいだへ、コテの先でぐっと押し込んでいく。奥まで、空気を残さないように。手首の返しで隙間を埋め、余りをすっと引いてならす。掌に伝わってくる、詰まっていく手応えが心地いい。
考えてみれば、風呂ってのは要するに、でかい「器」だ。水を溜めて、温めて、抜く。原理は台所の五右衛門風呂となんら変わらない。……ただ、規模が桁違いなだけで。
だったら、詰めるべき条件も知れている。漏れないこと。湯がまんべんなく回ること。使ったあと、きれいに抜けること。頭の中で三つに割ってしまえば、あとは一つずつ潰していくだけだ。
俺は排水口になる底の一点へ向けて、ほんのわずかに勾配をつけた。水平に見えて、実は傾いている。湯を抜くとき、最後の一滴まで自然に流れていくように。この、目に見えないくらいの傾きが、あとで効いてくる。
◇◇◇
内側をひと通り塗り終えて、いよいよ縁石を据える。
湯面のちょうど高さに、平たい石をぐるりと巡らせていく作業だ。ここは肌が直に触れるところだから、いちばん気を遣う。据えては水平器を当て、モルタルを噛ませ、指で角を確かめる。ざらついた面は、そっと砥石で撫でて丸めてやる。
軒下の作業台から、モクが飛んできた。葉っぱの羽をたたんで縁石の上に降り立ち、渋い顔で据わり具合を検分しはじめる。
「フン。この面の取り方なら、肌当たりがいいぞ。角を殺しすぎると、逆に間が抜ける。……そこ、あと少しだけ落とせ」
「お、さすが職人。言われてみると、たしかに角が立ってるな」
言われるまま、砥石をもう二、三度。撫でた面を指の腹でなぞると、さっきまで引っかかっていた角が、すうっと丸くなっている。ここに肩を預けたときの感触まで、こいつは見ている。まったく、頼れる相棒だ。
一枚、また一枚と縁石が繋がって、輪になっていく。灰色だった石の窪みに、なめらかな縁が回り、湯をたたえる器の形が、だんだんと立ちあがってきた。
塗って、詰めて、ならして、据える。単純な工程の繰り返しなのに、飽きない。一手ごとに、頭の中で一冬かけて描いた図面が、目の前で本物になっていくのだ。この、じわじわ形になっていく感じは、何度味わっても、たまらない。
最後の一枚を据えて、モルタルを拭き取り、俺は腰を伸ばして立ち上がった。
一歩下がって、全体を見渡す。石を積んだだけの、ただの窪みだったものが、いつのまにか、たしかに「湯船」の顔をしている。縁があって、底があって、傾きがあって、湯の落ちる口の当たりまでついている。
「……形になった。あとは、湯を引くだけだ」
声に出したら、胸の奥がじわりと熱くなった。ここまで来れば、もう半分は勝ったようなものだ。あとは山の湧き水を、この器まで導いてやればいい。
まあ、こうして並べてみれば、やっていることは、ただのでかい風呂づくりだ。大げさに構えることもない。——なんて、このときの俺は、暢気に思っていた。
乾いていく縁石を朝日が照らして、灰色がほんのり明るんでいく。俺は道具を片づけながら、明日組む水路の勾配を、もう頭の中で引きはじめていた。




