第105話
早春の朝の空気は、まだ指先にひやりと冷たい。
だが、鍬を握って四半刻も土を起こせば、背中はじっとりと汗ばんでくる。俺は上着を脱いで縁側に放り、腕まくりをした。息が、白から湯気に変わっていく。
足もとには、地面に張った縄が湯船の輪郭を描いている。冬じゅう机の上でさんざん引き直した図面が、いま、土の上に実物大で寝そべっているわけだ。この縄の内側を掘る。ただそれだけのことが、妙に胸を高鳴らせる。
「よし。いよいよ、着工だ」
声に出してから、俺は鍬を振り下ろした。
早春の土は、思ったより手ごわい。表面こそ雪解けでゆるんでいるが、少し刃を入れると、まだ芯に冬の硬さが残っている。石を噛むたび、がつん、と嫌な手応えが腕まで跳ね返ってきた。
それでも、掘るほどに、雪の下で眠っていた湿った黒土の匂いが立ちのぼる。胸いっぱいに吸い込むだけで力が湧いてくるのだから、我ながら単純である。
◇◇◇
軒下の作業台では、モクが俺の道具をぶすっとした顔で検分していた。
「フン。この鍬、柄のすげ方が甘い。刃がぐらついてる。……貸してみろ」
「お、頼めるか」
葉っぱの羽を器用に動かして、モクは楔を打ち直し、柄をきゅっと締め直す。返してもらって振ってみると、なるほど、刃先が土に吸い込まれるように入っていく。さっきまでのぐらつきが、嘘みたいに消えていた。
「すごいな。同じ鍬とは思えない」
「道具ってのは、手入れが八割だ。舐めるなよ」
渋い声で言い置いて、モクはまた腕を組む。口は相変わらず辛口だが、こいつの直した道具は、いつも間違いがない。
足もとでは、コロがころころと土の上を転がっていた。まんまるの苔玉が這ったあとの土は、不思議と黒々と、ほろほろにほぐれていく。
「あるじ、ここのつち、かたいの。ぼくが、やわらかくするねぇ」
「助かるよ。お前が先に行ってくれると、鍬がずいぶん楽だ」
「えへへ。まかせるの」
コロがほぐした先は、力を込めなくても、すっと刃が沈む。掘り出した土を縁に寄せ、混じった石をより分けて、水はけのために脇へ積んでいく。掘る、除ける、固める。工程を頭の中で並べて、ひとつずつ潰していくこの感じが、たまらなく心地いい。
◇◇◇
昼が近づく頃には、湯船の窪みがだいぶ形になってきた。
汗が顎から滴り、腕は重い。それでも鍬を止める気になれない。一鍬ごとに、頭の中の図が、目の前の地面に立ちあがってくる。この、思い描いたものが物として現れる感覚——SE時代のリリース前に、ちょっと似ている。
ただ、あの頃は納期に追われて胃を痛めていた。こっちは、掘るほどに機嫌がよくなる。同じ「形になる高揚」でも、中身がまるで違う。
「素人が庭に穴を掘ってるだけなのに、なんでこんなに楽しいんだかな」
誰にともなく呟いて、俺は手の甲で額をぬぐった。
と、鍬の先が、これまでとは違う、鈍く重い音を立てた。
土をどけてみると、大きな岩の背が現れた。半分以上が地面に埋まっている、据わりのいい一枚岩だ。掘り進める予定の、ちょうど真ん中あたりに鎮座している。
「うわ、でかいな……。これ、どかすとなると、ひと仕事だぞ」
腕を組んで唸っていると、モクが作業台からのそりと降りてきて、岩の面をじっと見上げた。
「フン。こいつは、動かすより活かせ」
「活かす?」
「据わりを見ろ。何百年も、ここでこの向きに落ち着いてきた面構えだ。無理に剥がせば、まわりの地盤ごと緩む。……こういう石は、土に喧嘩を売るより、味方につけたほうが利口だぞ」
言われて、俺は改めて岩を眺めた。灰色の肌に、うっすら苔をまとった、堂々とした佇まい。なるほど、これを力任せに引っこ抜くのは、いかにも無粋な気がしてくる。
その瞬間、頭の中で図面の線が、するりと引き直された。
「……そうか。これ、どかすんじゃなくて、湯船の一部にすればいいのか」
思わず声が弾んだ。天然の岩が湯船の縁にどっしり据わっていたら、これ以上ないくらい贅沢な眺めになる。買ってきた石を並べるのとは、格が違う。
「湯に浸かって、この岩に背中をあずけるんだ。最高だろ。図面には無かったけど、こいつは拾いものだ」
「フン。物のよさが分かるようになってきたじゃないか」
珍しくモクが、ほんの少しだけ口の端をゆるめた気がした。
足もとでは、コロが岩に登って、まんまるの目をきらきらさせている。
「このいわ、あったかい子なの。あるじのおふろ、よろこんでるよぉ」
「そりゃいい。仲間が増えたな」
俺は岩の背をひとつ、ぽんと叩いた。ひんやりとして、それでいて日を吸ったのか、芯にほのかな温みがある。
図面どおりに進めるのも大事だが、現場で出てきたものを、その場で活かす。これができるのが、DIYのいちばん面白いところだ。掘りかけの窪みに、思いがけず居ついた一枚岩。まだ穴の段階なのに、もう完成した湯の形が、うっすら見えてきた気がする。
「よし、午後も掘るぞ。今日中に、基礎の底までいきたいな」
鍬を握り直すと、モクが道具の具合をもう一度みてやると言い、コロが先回りして土をほぐしにいく。ひとりなら心細い大工事も、こいつらがいれば、不思議と怖くない。
白い息と汗の湯気を立てながら、俺は早春の山で、また鍬を土に沈めた。




