第104話
早春の朝は、まだ息が白い。
俺は昨日ならしたばかりの地面にしゃがんで、竹の杭と縄で、湯船の輪郭をあたりに描いていた。冬じゅう練り上げたノートを片手に、ここが縁、ここが湯口、と印をつけていく。
場所そのものは、もう決まっている。鞍馬さんが「この向きだ」と言い切った、湧き水のそばの一等地だ。朝は芽吹きの山、夜は月がよく見える——あの人の見立てに、俺はぐうの音も出なかった。
問題は、ここから先。湯船の正確な位置と、深さと、湯面の高さだ。
俺はしゃがんだまま、地面に想像の湯を張ってみる。肩まで浸かったとき、目線がどこに来るか。縁の石が視界を切らないか。萌えはじめた若草の山が、ちょうど正面に収まってくれるか。
「……このへんの深さなら、座ったとき、目線が縁石より上に来るな。よし、いい眺めだ」
元SEのくせが抜けないのか、こういう条件は一つずつ潰さないと気が済まない。眺め、目線、湧き水の落ちる角度、湯の対流、排水の勾配。要件はいくらでも湧いてくる。
湯口を少し高くすれば、湧き水が細く落ちて、耳に心地いい水音が立つはずだ。低くすれば、静かに満ちる。そのへんの匙加減まで、頭の中でこねくり回してしまう。我ながら、ずいぶん凝り性だ。
一人で黙々と、図面と地面をにらめっこ。……のはずだった。
◇◇◇
最初に口を出してきたのは、湧き水の縁でぷかぷかしていたスイだ。
「あるじ、もっと深く! たっぷりのお湯がいいですわ! 肩まで、いいえ、首まで浸かれるくらいの!」
「深けりゃいいってもんじゃないだろ。立てなくなったら溺れるぞ」
「わたくしがついていますもの、心配ご無用ですわ!」
胸を張る……というか、ぷるんと得意げに弾むスイ。心強いのか危なっかしいのか、判断に迷うところだ。
次に、俺の張った縄の縁を、コロがとことこと辿りはじめた。まんまるの目で、ふちの土の具合を確かめている。
「あるじ、このふちにね、こけを はやしたいなの。しっとりして、きもちいいの」
「苔か。……いいな、それ。石の縁が青々してたら、風流だ」
思わず頷いてしまった。こいつの思いつきは、いつも暮らしの手ざわりを分かっている。
と、焚き口を作る予定の一角から、エンが尻尾の火をぱちぱち跳ねさせて割り込んできた。
「湯を沸かす場所は、オレの隣な! ここ! ここがいいぜ! 火の番はオレに任せとけって!」
「まだ湯船の位置も決まってないんだが……まあ、火元は近いほうが効率はいいか」
「だろ!? な!」
得意満面のエンの隣で、平石に陣取ったモクが、腕を組んで低く唸った。
「フン。縁の木組みは、俺に任せろ。……湯気で百年濡れる場所だ。生半可な継ぎ手じゃ、すぐ腐る」
「頼りにしてるよ、相棒」
結局こいつが、いちばん仕事の先を見ている。
◇◇◇
気づけば、地面にしゃがんだ俺を囲んで、四匹が思い思いに希望を並べていた。
深さはスイ、縁の苔はコロ、火元はエン、木組みはモク。あっちを立てればこっちが立たず、で収拾がつかない。
「一人で黙々と決めるつもりが、いつのまにか会議になってるな……でも、悪くない」
俺はノートを開き直して、四匹の言い分を書き足していった。深さは首まで、は却下して肩まで。縁に苔の帯。焚き口はここ。木組みはモクの見立てで。
要望を一つずつ図に落とし込むうち、頭の中でぼんやりしていた湯船が、みるみる輪郭を持ちはじめる。一人でノートとにらみ合っていたときには、絶対に出てこなかった形だ。
まとまった図面を眺めて、俺はしみじみとつぶやいた。
「一人だったら、場所決めだけで挫折してたな。みんながいてよかった」
助けてもらってばかりだ、と俺は思う。石は鞍馬さん、深さや苔はこいつら。俺はただ、みんなの知恵を一枚の図に清書しているだけ。
——そのじつ、四匹の居場所も、湯上がりの眺めも、ぜんぶ引き受けた"みんなの湯船"を、いつのまにか描き上げていることには、俺はまるで気づいていない。
スイが縄の内側をのぞきこんで、待ちきれない様子で弾んだ。
「あるじ、それで、いつ掘りはじめますの?」
「気が早いな。……まあ、図がこれだけ固まりゃ、あとは掘るだけだ。明日から、いよいよだな」
早春の風が、湧き水の匂いを運んでくる。
まだ土でしかないこの一角が、そう遠くないうちに湯気を上げるのだと思うと——俺は柄にもなく、少しだけ、わくわくしていた。




