第103話
その日、俺は朝から庭の隅で待っていた。鞍馬さんが石を運び込む、と前触れがあったからだ。
早春の空はよく晴れて、山肌にはもう雪の名残もない。溶けた雪の湿りを吸って、土がしっとりと黒い。地ならしを終えた一角に、これから風呂の心臓部が据わることになる。
鞍馬さんは、刻限きっかりにやって来た。相変わらず背が高く、堂々としている。
問題は、その後ろだ。
「運ばせたぞ。まあ、見るがいい」
鞍馬さんが顎をしゃくった先に、石が積み上がっていた。いつのまに、どこから運び込んだのか、俺が瞬きした隙にそこにあった、としか言いようがない量だ。
俺は思わず口を開けたまま、石の山の前まで歩いていった。
◇◇◇
近づいて、二度びっくりした。量だけじゃない。一つひとつが、とんでもない上物だったのだ。
苔むした据わりのいい庭石が、みっしりと肌理を詰めている。湯船の縁にあつらえたような平石は、面が水で磨いたように滑らかだ。飛び石に手頃な自然石まで、大きさも形も、まるで誰かが選りすぐったように揃っている。
俺は石屋の目なんか持っていない。それでも分かる。これは、そのへんの河原で拾えるような代物じゃない。
しゃがんで、庭石の一つに手を置いてみる。ひんやりと重く、掌に吸いつくような密度がある。金を積んだって、こんな石ばかりを、これだけの数、そう簡単には集められないはずだ。
「これ……普通じゃ手に入らないぞ」
思わず、そう漏れた。
どこの山から切り出したのか。どうやって、この道もろくにない中腹まで運び上げたのか。トラックが入れる幅じゃないし、そもそも運搬の音ひとつ、俺は聞いていない。
考えれば考えるほど、勘定が合わない。合わないのに、石は現に、目の前にどっさり積まれている。
俺はそっと、深追いをやめた。世の中には、玄人にしか通らない道理というものがあるのだろう。石屋には石屋の、伝手や段取りがあるに違いない。
「見事なものでしょう、と言いたいところだが」
鞍馬さんが、腕を組んで石の山を見下ろした。
「これで、ようやく土台よ。良い湯には、良い骨がいる。骨がぐらつけば、どんな湯も濁るからな」
尊大な物言いだが、言葉に嘘はない。俺は素直に頭を下げた。ここまでの石を、これだけ揃えてもらって、文句のつけようがない。
◇◇◇
ただ——礼を言いながら、俺の胸の内では、別の感情がむくむくと膨らんでいた。
積み上がった石の山は、俺の背丈よりも高い。これを一つずつ運び、組み、湯船の形に据えていく。掘って、詰めて、水を引いて、木を組んで。冬じゅうノートに描いた工程が、いま、現実の重さになって目の前にある。
図面の上では、線を引くだけだった。線は軽い。何度でも消せるし、何度でも描き直せる。
だが、本物の石は消せない。一つ動かすのに、たぶん俺一人じゃ息が上がる。それが、この量だ。
「……figの上では、簡単だったんだよな」
俺は積まれた石を見上げて、ひとりごちた。
「こうして本物を見ると……本当にできるのか、これ」
正直に言えば、ひるんだ。素人が一人、思いつきで露天風呂だなんて、身の程知らずだったんじゃないか。頭の隅で、そんな声がした。
その時だ。足元で、こっぽりと土の弾ける音がした。
見れば、苔玉のコロが、まんまるの目でこっちを見上げている。その隣では、平石の縁でスイがぷるんと身を弾ませ、水の道の見当をつけているらしい。積んだ石のてっぺんでは、モクが渋い顔で腕を組み、どの石から手をつけるかを値踏みしていた。焚き口の予定地では、エンが尻尾の火をゆらめかせて、今から張り切っている。
「フン。石の目利きだけは、まあ、認めてやってもいい」
モクが、鞍馬さんの石を見下ろして、ぼそりと言った。職人が職人を、しぶしぶ認めるような口ぶりだった。
その光景を眺めているうちに、胸の内のひるみが、すっと軽くなった。
そうだ。俺は一人じゃない。
石を組むのは鞍馬さん、木を刻むのはモク、水を澄ませるのはスイ、土を均すのはコロ、火を守るのはエン。そして俺は、その全部をつなぐ figを引いて、手を動かす。役割は、もう決まっている。
「いや、やるぞ」
俺は石の山に向き直って、掌でぱんと頬を張った。
「一人だったら、そりゃビビる。ビビって当然だ。でも、こいつらと鞍馬さんがいる。……いける」
言葉にすると、不思議と肚が据わった。膨らんでいた不安が、いつのまにか、やってやろうという昂ぶりに変わっている。
考えてみれば、俺はこの山に来てから、いつもそうだった。一人で来たつもりが、気づけばいつも、誰かに手を貸してもらっている。ありがたい話だ。まあ、俺は運がいいのだろう。
鞍馬さんが、俺の顔を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「その顔だ。石は逃げん。焦らず、一つずつ据えていけ」
尊大なくせに、妙に頼もしい。俺はもう一度、石の山を見上げた。
高い。重い。だが、もう怖くはなかった。この石が全部、湯を抱く器になる日を思うと、むしろ胸が躍る。
「よし。据えていこう」
早春の日差しの下、石は静かに、俺たちの手を待っていた。




