第102話
鞍馬さんが石を見繕いに来てくれたのは、雪解けの匂いが山を満たし始めた、よく晴れた朝のことだった。
冬のあいだ温めてきた露天風呂の構想が、いよいよ動き出す。今日はその記念すべき第一歩、場所選びだ。
軒先の雪はすっかり雫に変わり、山肌には土と苔の色が戻り始めている。約束の刻限きっかりに、背の高い人影が、ぬかるみかけた坂道を悠々と登ってきた。
「ふむ。春の山も、なかなか気が澄んでおる」
玄関先に立つなり、鞍馬さんは胸いっぱいに空気を吸い込んで、満足げにそう言った。相変わらず、立ち姿がいちいち芝居がかっている。
俺はさっそく、裏手の湧き水のそばへ案内した。冬にここで「極上の湯が出る」と請け合ってくれた、当の本人だ。
鞍馬さんは岩場に立つと、腕を組み、ぐるりとあたりを見渡し始めた。
水の湧く向き、岩の段の傾き、日の差し込む角度。その視線が一つずつ、俺には見えない筋道を拾っていくのが分かる。
しばらく黙って歩き回ったあと、鞍馬さんは一点で足を止め、地面をとん、と草履で叩いた。
「湯船は、ここだ」
迷いのない声だった。
「この向きなら、朝は芽吹きの山がまるごと目に入る。夜は、月がちょうどあの尾根から昇ってくる。……覚えておけ、結城。眺めは、湯の半分だぞ」
眺めは、湯の半分。妙に耳に残る言い回しだった。
言われて俺も、その場にしゃがんでみる。なるほど、たしかに視線の先が開けていて、若草色に萌えはじめた山肌が、ちょうど額縁に収まるように広がっていた。
日当たりもいい。朝の光がまっすぐ差し込んで、湯気がきれいに立つだろう。湧き水の落ち口も近く、湯を引く手間が少なくて済む。
条件を一つずつ数えあげて、俺は素直に感心した。自分ならまず、家から近いというだけの理由で、てきとうに決めていた気がする。
「よく、そこまで地面が読めますね」
思わずそう漏らすと、鞍馬さんはふっと片頬を上げた。
「山は、黙って多くを語る。聞く耳さえ持てば、な」
石屋さんというのは、地面と話でもできるんだろうか。
◇◇◇
場所が決まれば、次は地ならしだ。
二人で石を除け、じゃまな根を切り、でこぼこの土を平らに均していく。慣れない鍬仕事だが、鞍馬さんが除ける石の見当をつけてくれるので、驚くほど段取りがいい。
俺が鍬を入れると、土は思ったより素直にほぐれた。冬を越したばかりで固く締まっているはずなのに、刃先がすっと沈んでいく。
ふと足元を見ると、苔玉みたいな相棒——コロが、まんまるの目を輝かせて土を撫でていた。
「ここ、いいばしょなの。つちが、きもちいいって」
地面の機嫌まで分かるのか、と俺は笑った。お前がそう言うなら、間違いはなさそうだ。
鞍馬さんの見立ては、いちいち理にかなっていた。ここの石は残す、あの根は切っても水脈に障らない、この土は掘るより突き固めたほうがいい——理由を添えて指し示してくれるので、俺はただ手を動かすだけで、無駄な掘り返しが一つもない。段取りを最適化して手戻りを潰していく感覚は、皮肉なことに、昔さんざんやらされた仕事の割り出しとそっくりだった。ただ、返ってくるのが画面の中の数字ではなく、足の下の確かな地面だというだけで、こんなにも気分が違う。
二人と一匹で土をならすうち、ただの岩場だった一角が、少しずつ「湯船の場所」の顔になっていく。
仕上げに縄を張って、湯船の輪郭を地面に写しとる。頭の中で一冬こねくり回した図面が、初めて現実の大きさを持って、そこに立ちあがった。
「……ここに、本当に湯が張られるのか」
まだ土をならしただけの地面を眺めて、俺は妙にそわそわしてしまった。
◇◇◇
ひと区切りついて、鞍馬さんが額の汗を拭う。
俺がつい「本当に、あんな上等なものが作れますかね」と弱気を漏らすと、鞍馬さんは呆れたように鼻を鳴らした。
そして、大きな手で俺の肩を、ぽん、と叩く。
「案ずるな」
鷹揚な、それでいて不思議と芯のある声だった。
「儂の石で、都の湯屋も裸足で逃げ出す、極上のを作ってやる。任せておけ」
尊大で、芝居がかっていて——それでいて、驚くほど頼もしい。
この人がそう言うのなら、本当にできてしまう気がする。一人だったら、場所決めだけで日が暮れていたところだ。
春の光の下、地ならしを終えたばかりの土が、湯気を待つように、しっとりと湿っていた。




