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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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101/208

第101話

 軒先で、雪の雫がぽたり、ぽたりと落ちている。


 ひと冬ぶんの重たい雪が、ようやく緩みはじめた朝だ。屋根から滑り落ちる水の音が、しばらく忘れていた春の合図みたいに、庭のあちこちで小さく鳴っている。


 俺は縁側に出て、大きく伸びをした。冷たい空気の底に、かすかに土の匂いが混じっている。真っ白だった山肌に、いつのまにか、湿った土と苔の色が戻りはじめていた。


「……やっと、春だ」


 長い雪ごもりが、これでようやく明ける。凝り固まっていた肩の力が、ふっとほどけていく。


 そして——と、俺は胸の内でつづけた。いよいよ、あれを始める時が来た。


 縁側に腰を下ろし、膝の上に一冊のノートを広げる。表紙はもうくたびれて、角がまるく擦り切れている。この一冬、暇さえあれば描いては消し、消しては描き、を飽きもせず繰り返したしろものだ。


 開いたページには、露天風呂の設計図がびっしり詰まっていた。


 湯船のかたち。石の並べ方。湧き水をどこから引いて、使った湯をどこへ流すか。勾配の角度に、湯面の高さ。何度も引き直した線が、我ながら、なかなかよく描けている。


「figを引くだけで、一冬終わっちまったな」


 思わず苦笑が漏れた。けれど、後悔はまるでない。むしろ、この上なく楽しい冬だった。


 現役のころ、要件を洗い出して図面に落とす作業は、嫌いじゃなかった。頭の中のぼんやりした「こうしたい」が、線と数字で少しずつ形になっていく、あの感じ。まさかそれを、風呂づくりでそっくり味わえるとは思わなかった。


 湯の対流はどう回すか。冬に凍らせないための水抜きは、どう仕込むか。ページの端には、そんな細かい書き込みが、いくつも重なっている。考えはじめると止まらなくなって、気づけば外は白い雪、というのが、この冬の毎晩だった。


 ストーブの前で、湯気の立つほうじ茶を片手に、ひとり図面を引く夜。それはそれで、ずいぶん贅沢な時間だったと思う。


◇◇◇


 ノートを手に湧き水のそばへ回ると、誰よりも先に、そいつが待ちかまえていた。


 水場のふちで、半透明のスライムがぷるぷると跳ねている。水の精霊、スイだ。


「あるじ! いよいよですのね!?」


 いつになく声が弾んでいる。俺がうなずくより早く、スイは水面をきらきらと弾ませて、その場でくるくると回りはじめた。


「やっと、やっとですわ! わたくしの湯船が、増えますのね!」


「お前、それが言いたくて、朝からそわそわしてたのか」


「だって、だって、こんなに嬉しいこと、ありませんもの!」


 水しぶきが朝日に散って、小さな虹が立つ。露天風呂と聞いて、いちばん喜んでいるのは、間違いなくこいつだった。


 まあ、そうだろうな、と俺は思う。水を浄めて、湯を冷めにくくして——風呂まわりは、いわばスイの独壇場だ。自分の受け持ちの水場がひとつ増えるのだから、そりゃあ張り切るわけである。


「頼りにしてるぞ、スイ。水のことは、お前がいちばん詳しいからな」


「お任せくださいまし! この山でいちばんのお湯に、してさしあげますわ!」


 胸を張るように、スイがぐっと伸び上がる。半透明の体が朝の光を吸って、きらりと澄んで光った。


 こいつがこう言うときは、たいてい本当にやってのける。夏に飲んだ、あの澄みきった麦茶のことを思えば、湯だってきっと、とんでもない仕上がりになるのだろう。今から、少しばかり楽しみだった。


◇◇◇


 俺は縁側にもどって、もう一度、設計図に目を落とす。


 山奥の古民家に、自分ひとりのための露天風呂。よくよく考えれば、とんでもない道楽だ。誰に見せるわけでもなし、好きなように、心ゆくまで作ればいい。


 ……なんて、のんきに構えていられるのも、今のうちかもしれないけれど。


 雪解けの雫が、また一つ、軒先で光って落ちた。俺はノートをぱたんと閉じ、立ち上がって、ぐっと拳を握る。


「よし。始めるか」


 声に出すと、腹の底に、じわりと火が入る。


「人生初の、露天風呂づくりだ」


 素人がたった一人で、大工事——と言いたいところだけど。今回ばかりは、そうじゃないんだよな。


 石のことなら、あの尊大な石屋。木のことなら、口は悪いが腕はたしかな相棒。水のことなら、目の前で張り切っている、この得意げな相棒。頼れる面々の顔を、順ぐりに思い浮かべる。


 一人で来たはずのこの山に、いつのまにか、ずいぶんと心強い顔ぶれが揃ったものだ。


 春の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、俺は一歩、庭へ踏み出した。


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