第101話
軒先で、雪の雫がぽたり、ぽたりと落ちている。
ひと冬ぶんの重たい雪が、ようやく緩みはじめた朝だ。屋根から滑り落ちる水の音が、しばらく忘れていた春の合図みたいに、庭のあちこちで小さく鳴っている。
俺は縁側に出て、大きく伸びをした。冷たい空気の底に、かすかに土の匂いが混じっている。真っ白だった山肌に、いつのまにか、湿った土と苔の色が戻りはじめていた。
「……やっと、春だ」
長い雪ごもりが、これでようやく明ける。凝り固まっていた肩の力が、ふっとほどけていく。
そして——と、俺は胸の内でつづけた。いよいよ、あれを始める時が来た。
縁側に腰を下ろし、膝の上に一冊のノートを広げる。表紙はもうくたびれて、角がまるく擦り切れている。この一冬、暇さえあれば描いては消し、消しては描き、を飽きもせず繰り返したしろものだ。
開いたページには、露天風呂の設計図がびっしり詰まっていた。
湯船のかたち。石の並べ方。湧き水をどこから引いて、使った湯をどこへ流すか。勾配の角度に、湯面の高さ。何度も引き直した線が、我ながら、なかなかよく描けている。
「figを引くだけで、一冬終わっちまったな」
思わず苦笑が漏れた。けれど、後悔はまるでない。むしろ、この上なく楽しい冬だった。
現役のころ、要件を洗い出して図面に落とす作業は、嫌いじゃなかった。頭の中のぼんやりした「こうしたい」が、線と数字で少しずつ形になっていく、あの感じ。まさかそれを、風呂づくりでそっくり味わえるとは思わなかった。
湯の対流はどう回すか。冬に凍らせないための水抜きは、どう仕込むか。ページの端には、そんな細かい書き込みが、いくつも重なっている。考えはじめると止まらなくなって、気づけば外は白い雪、というのが、この冬の毎晩だった。
ストーブの前で、湯気の立つほうじ茶を片手に、ひとり図面を引く夜。それはそれで、ずいぶん贅沢な時間だったと思う。
◇◇◇
ノートを手に湧き水のそばへ回ると、誰よりも先に、そいつが待ちかまえていた。
水場のふちで、半透明のスライムがぷるぷると跳ねている。水の精霊、スイだ。
「あるじ! いよいよですのね!?」
いつになく声が弾んでいる。俺がうなずくより早く、スイは水面をきらきらと弾ませて、その場でくるくると回りはじめた。
「やっと、やっとですわ! わたくしの湯船が、増えますのね!」
「お前、それが言いたくて、朝からそわそわしてたのか」
「だって、だって、こんなに嬉しいこと、ありませんもの!」
水しぶきが朝日に散って、小さな虹が立つ。露天風呂と聞いて、いちばん喜んでいるのは、間違いなくこいつだった。
まあ、そうだろうな、と俺は思う。水を浄めて、湯を冷めにくくして——風呂まわりは、いわばスイの独壇場だ。自分の受け持ちの水場がひとつ増えるのだから、そりゃあ張り切るわけである。
「頼りにしてるぞ、スイ。水のことは、お前がいちばん詳しいからな」
「お任せくださいまし! この山でいちばんのお湯に、してさしあげますわ!」
胸を張るように、スイがぐっと伸び上がる。半透明の体が朝の光を吸って、きらりと澄んで光った。
こいつがこう言うときは、たいてい本当にやってのける。夏に飲んだ、あの澄みきった麦茶のことを思えば、湯だってきっと、とんでもない仕上がりになるのだろう。今から、少しばかり楽しみだった。
◇◇◇
俺は縁側にもどって、もう一度、設計図に目を落とす。
山奥の古民家に、自分ひとりのための露天風呂。よくよく考えれば、とんでもない道楽だ。誰に見せるわけでもなし、好きなように、心ゆくまで作ればいい。
……なんて、のんきに構えていられるのも、今のうちかもしれないけれど。
雪解けの雫が、また一つ、軒先で光って落ちた。俺はノートをぱたんと閉じ、立ち上がって、ぐっと拳を握る。
「よし。始めるか」
声に出すと、腹の底に、じわりと火が入る。
「人生初の、露天風呂づくりだ」
素人がたった一人で、大工事——と言いたいところだけど。今回ばかりは、そうじゃないんだよな。
石のことなら、あの尊大な石屋。木のことなら、口は悪いが腕はたしかな相棒。水のことなら、目の前で張り切っている、この得意げな相棒。頼れる面々の顔を、順ぐりに思い浮かべる。
一人で来たはずのこの山に、いつのまにか、ずいぶんと心強い顔ぶれが揃ったものだ。
春の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、俺は一歩、庭へ踏み出した。




