第100話
しんしんと、という言葉を、俺はこの冬に初めて、体で覚えた。
夕暮れの縁側に腰を下ろして、俺は降りしきる雪を眺めている。音というものが、ひとつも立たない。雪は空の高いところから、ただまっすぐに、途切れることなく落ちてくる。
枝という枝が、白い綿帽子をかぶっている。庭の直売所も、軽トラの屋根も、みんな丸みを帯びた雪の塊になって、境目を失っていた。
世界から、角という角が消えている。
ストーブに薪をくべてきた手が、まだほんのり熱を持っている。その手で湯呑みを包んで、俺は白い息を吐いた。
「静かだなあ」
声が、雪に吸い込まれて消えていく。ここまで静かだと、自分の心臓の音まで聞こえてきそうだ。
都会にいた頃は、静けさというものが、少し怖かった。無音の部屋にいると、置いていかれるような、世界から自分だけ消されるような気がして、いつもテレビをつけていた。
それが今は、どうだ。この雪の底のような静けさが、ただ、心地いい。
思えば、長い冬だった。
初めてこの山に雪が降った朝のことを、俺はまだよく覚えている。障子を開けたら、見慣れた山が一面の銀世界に変わっていて、俺は寝間着のまま、しばらく縁側で立ち尽くした。
綺麗だ、とまず思った。写真とも、都会の雪とも、まるで違う。手つかずの雪原が、朝日にきらきらと光っていて、清らかで、少し、怖いくらいだった。
その次に頭をよぎったのが、生活できるのか、という現実的な不安だ。車は出せるのか。買い出しは。凍結は。雪国の暮らしなんて、俺には未知の領域だったから。
でも、越してみれば、なんとかなった。
保温材を巻いて、雪囲いを立てて、屋根の雪を下ろして。要は水と屋根と足元、この三つを押さえればいいと分かってしまえば、あとは一つずつ潰していくだけの、いつものDIYだった。
雪かきは、聞いていた通りの重労働だった。けれど、やった分だけ道ができるのが、俺はどうも嫌いになれない。汗をかいて振り返ると、まっさらな雪原に、俺の通った道が一本、きれいに伸びている。
「やった分だけ、形が残る。……こういうの、性に合ってるんだよなあ」
保存食を、たっぷり仕込んでおいたのも効いた。味噌に、漬物に、干し野菜に、燻製。麓へ降りにくい日が続いても、俺の台所は、ちっとも困らなかった。
この秋、汗をかいて冬支度をしていた自分に、俺は心のなかで小さく親指を立てる。ナイス判断だった、と。
雪に閉じ込められた、はずだった。
麓との行き来が途絶えて、世界に一人取り残されたような静寂のなかで、俺は最初、少し身構えていた。去年の冬を思い出したからだ。
都会のワンルームで、誰とも喋らず、丸まって越した、あの寒い冬。もしあの頃の俺を、この雪山にぽつんと放り込んだら、たぶん、参っていた。
でも、今は違った。
「あるじー! ストーブ、もっと燃やそーぜ!」
薪ストーブの前で、エンが尻尾の火をぱちぱち跳ねさせる。手のひら大の火のとかげが、炎のなかで機嫌よく転がっている。
「もう十分あったかいだろ。お前、暑くないのか」
「火に暑いも寒いもねーぜ!」
水盆のふちでは、スイがぷかぷか浮いていた。半透明のスライムが、雪明かりを映して、涼しげに揺れている。
「冬の水は、きりっとして美味しいですわ。あるじ、お茶をお淹れなさいまし。今日は格別の一杯になりますわよ」
その傍らで、コロがまんまるに丸まって、うとうとしている。両手大の苔玉が、俺の膝の上で、冬眠する小動物みたいに、すうすう寝息を立てていた。
「やまが、ねむってるから……ぼくも、ねむいの……」
軒下の作業台では、モクが腕を組んで座っている。葉っぱの羽を持つムササビが、雪囲いの出来をまだ検分しているらしい。
「フン。この組み方なら、あとどれだけ雪が積もろうと、びくともせん」
膝にコロ、盆にスイ、ストーブにエン、作業台にモク。
雪が山を閉ざしているのに、家のなかは、ちっとも寂しくなかった。むしろ、暖かくて、賑やかで、笑ってばかりの冬だった。
独りになりたくて、逃げてきたはずなのにな。
賑やかといえば、鉄本さんが訪ねてきた夜のことも、忘れられない。
雪が小止みになった日、あの人は雪道を踏み分けて、豪快に笑いながら現れた。生きてたか、雪に埋もれてへんかったか、なんて言いながら。
据えた薪ストーブの調子を確かめて、満足げに唸って。それから、鍋を囲んで、山ほど飲んで、山ほど食べて。エンが酒を狙っては、あしらわれて。
夜通し、家じゅうが笑い声で満ちていた。
帰り際、あの人が家を見回して、ぽつりと漏らした言葉が、耳に残っている。いい山だな、居心地がいい、長居したくなる、と。
鉄を打つ、あんな豪快な人が、この山を居心地がいいと言ってくれる。それが、なんだか、じんわり嬉しかった。
森野さんに、鉄本さんに。逃げ込んだ先で、俺はどうしてか、いい縁ばかりを拾っている。
そして、この冬いちばんの縁が、あの石屋の主人だ。
鞍馬さん。背が高くて、鼻筋の通った、やたらと尊大で芝居がかった物言いをする、変わった人。けれど石を見る目と扱う腕は本物で、山のことも、水のことも、驚くほど豊かに語ってくれた。
その鞍馬さんが、俺の山の湧き水と岩場を検分して、腕を組んで、こう言ったのだ。
——ここは、いい湯が出るぞ。極上のな。露天風呂を作らんのか、と。
あの一言が、俺のなかで、静かに火花を散らした。
俺は湯呑みを置いて、傍らのノートを膝に引き寄せた。
この雪ごもりの日々、俺はずっと、これを描いていた。露天風呂の、設計図だ。
どの岩場に湯船を据えて、どんな形に彫って、湧き水をどう引いて、湯をどう沸かして。雪見と目隠しをどう両立させるか。排水の勾配は、石の配置は。
ページをめくると、俺の下手なりの図面が、何枚も何枚も、びっしり描き込まれている。
仕事でさんざん引いた設計図とは、まるで違う手触りだった。あの頃は、締め切りと、誰かの都合と、要件定義に追われて引いていた。
でも、これは、俺が、俺のために引く設計図だ。
「自分の欲しいもののために線を引くのが、こんなに楽しいなんてな。……知らなかった」
湧き水は上物だと、鞍馬さんは太鼓判を押してくれた。石を据えるのも、木を組むのも、湯を浄めて沸かすのも、土台を固めるのも、この山には、任せられる相手がちゃんとそろっている。
一人じゃ、到底無理な代物だ。でも、みんなとなら、作れる。
そう考えたとき、俺はふと、おかしなことに気づいてしまった。
独りが良くて、独りになりたくて、俺はこの山に来たはずだった。それなのに、いつのまにか、みんなで何かを作ることを、当たり前みたいに考えている。
「不思議なもんだな」
膝の上で、コロが寝がえりをうって、俺の腹に額をすりよせた。
その小さなあたたかさを手のひらで受けとめながら、俺は、雪に閉じ込められたこの冬を、もう一度、ゆっくり振り返る。
初めての雪の、清らかさと、不安。こもって過ごす団欒の、贅沢。鉄本さんの来た、賑やかな夜。鞍馬さんとの出会い。そして、この胸に灯った、露天風呂の夢。
外は、雪の底の底みたいに、静まりかえっている。世界じゅうで、俺一人が起きているみたいな夜だ。
なのに、俺の心のなかは、少しも静かじゃなかった。
春になったらあれをやろう、これを試そう。湯船の形は、目隠しの高さは。頭のなかは、雪解けの緑を映した、完成予想図でいっぱいで、忙しくて、あたたかい。
「雪に閉じ込められた冬なのに、こんなに心が忙しいなんて。……いや」
俺は、白い息を吐いて、少し笑った。
「こんなに楽しい冬は、生まれて初めてだ」
雪は、まだ、しんしんと降り続いている。
俺は膝のノートを閉じて、書き上げたばかりの設計図を、そっと胸の前で握りしめた。紙の冷たさの向こうに、なぜだか、湯のあたたかさが透けて見える気がした。
いつのまにか、コロが目を覚ましていた。スイが盆から顔を出し、エンがストーブの前で伸び上がり、モクが腕をほどく。四つの気配が、そろって、俺の隣に寄り添ってくる。まるで、同じ夢を覗きこむみたいに。
俺は縁側から、暮れきった雪の庭を見つめた。
あの雪の下に、岩場がある。湧き水がある。春になれば、雪が解けて、青い緑が顔を出す。その景色を眺めながら、湯に浸かる自分を、俺ははっきりと思い描くことができた。
しんしんと降る雪の音を聞きながら、俺は、静かに、けれど固く、決めた。
「春になったら——作ろう」
握りしめた設計図に、ぐっと、力がこもる。
「この山の湧き水で、雪解けの緑を眺めながら入れる、俺の、最高の風呂を」
風の絶えた夜に、雪だけが、白く降りていく。
その静けさの底で、俺の胸のなかにはもう、春の湯気が、ゆらゆらと立ちのぼりはじめていた。
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あとがき
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