5
次に目が覚めた時、周りにはたくさんの大人がいた。
何事かと一瞬驚いたが、リンダとルーカスの姿を見つけて少し落ち着くことができた。
白衣を着た男性はお医者様だろうか?
部屋の扉の前で腕を組んでこちらをじっと見つめる男性は誰だろうか?
そんなことを考えながらきょろきょろと辺りを見渡していると、扉の前に立つ男性が口を開いた。
「それで?大丈夫なのか?」
その少し硬い声に心臓がギュッと縮こまるのを感じた。
「非常に言いにくいのですが、栄養失調でしょう。加えて、長旅の疲れと環境の変化により抵抗力が落ちてしまっていると思われます。昨夜の食事量を考えれば、胃腸への負担も大きかったと言わざるを得ません。食事は消化のいいものから徐々に再開し、数週間…いや数か月かけて体力の回復を待つ必要があるかと存じます。そして、熱が下がるまでは安静にしてください。」
不安でいっぱいの私の耳にお医者様の淡々とした言葉が入ってきた。
「栄養失調だと…?貴族の令嬢が?まあよい。医師の指示通り過ごさせてやれ。」
怖い顔でこちらを一瞬見た扉の前の男性はそう言うと去って行ってしまった。
「まぁ旦那様ったら!不安な奥様に配慮の欠片もない!」
「まぁまぁ、リンダ落ち着きなさい。旦那様はちゃんと心配なさっておいでだよ。」
男性が去った後、リンダとルーカスの会話が聞こえてきた。
旦那様って、公爵様のこと?
片翼しかないようだったが、今までに目にしたどの翼よりも大きく立派なものだった。
そういえば、片翼の…とレジーナが言っていたような気が…
縁談の話があった日のことを思い出した。
なぜすぐに気が付かなかったのだろう。
ご迷惑をかけた上に公爵様だとわからなかった…
なんて失礼なことをしてしまったのだろうか。
「公爵様に謝罪を…」
そう言うと、上体を無理やり起こそうとした。
そんな私をリンダが優しく寝台に戻す。
「奥様、お医者様の言う通り安静にしてください。」
「でも、怒っていらっしゃるのではないでしょうか。すぐにでも謝罪に行かないと…」
安静にするよりも大切なことではないだろうかと、私はリンダに反論した。
「旦那様への謝罪は必要ありません。まずは奥様の体調回復を最優先にするようにと言うはずでございます。」
いつの間にかそばに来ていたルーカスが心配そうにこちらを見つめていた。
二人からそう言われてしまった私はそれ以上反論することができなかった。
―――――
あれから数日が経ち、少しの間なら庭園を散策できるまで回復していた。
だが、まだまだ健康体には程遠いとお医者様から釘を刺されている。
そんなある日のこと、珍しくルーカスが客間を訪れた。
「奥様、旦那様がお呼びでございます。」
いよいよか…
ここへ来てから公爵様とまともに会話したことがない。
公爵邸へ到着後すぐに熱を出してしまったからだ。
公爵様は挨拶など後でよいとおっしゃっているらしく、面会の許可はなかなか下りなかった。
「奥様、お着替えをいたしましょう。」
傍に控えてくれていたリンダに促されて立ち上がった。
「では、私は旦那様の書斎でお待ちしております。」
そう言ってルーカスは部屋を去った。
私はリンダが選んだ若草色のドレスに着替えた。
実は妻となる人物の為にと、公爵邸の客間には何着ものドレスが用意されていた。
リンダは既製品であることを気にしていたが、私には十分すぎるくらいだ。
それにみすぼらしい翼の私が着ることになって、公爵様もさぞがっかりしたことだろう。
ドレスに合わせて髪も結いなおしてもらう。
リンダの作業はどれも丁寧で心地がいい。
私なんかのためにここまでしてくれる人は、母を除いてリンダが初めてだ。
支度を整えると、公爵様の待つ書斎へ向かった。
書斎の扉の前に着いた私は緊張で手にジワリと汗がにじむのを感じた。
これ以上失礼なことはできない。
伯爵家のような扱いをされることはないと思うが、公爵様の不興はできるだけ買いたくなかった。
傍についていたリンダが書斎の扉をノックし、入室の許可を得た。
ルーカスが書斎の扉を中から開く。
二人とも緊張する私に大丈夫だというかのように優しく微笑みかけてくれた。
それだけでほんの少し肩の力が抜けるのを感じる。
「公爵様、お待たせして申し訳ございません。また、ご挨拶が遅れましたことも重ねてお詫びいたします。」
部屋に一歩踏み出し、深々と頭を下げて謝罪の言葉を伝えた。
「顔を上げなさい。挨拶はこちらが断りを入れていたのだし、謝るようなことは何もしていないのだから。」
公爵様からそう声を掛けられ、私は恐るおそる顔を上げた。
口調も顔も怖いが、言っていることは理不尽ではない。
私は左手を右手でギュッと握りしめ、次の言葉を待つ。
「そちらに座りなさい。婚姻契約を交わす。」
公爵様が書斎に置かれたテーブルセットの椅子を指さし、自身も着席なさった。
「かしこまりました。」
「婚姻契約の前にいくつか条件を付けさせてもらう。」
公爵様の目の前に座り、居住いを正す。
条件は、
健康を取り戻すまでは妻としての務めは求めないこと、
その後は後継者問題の解決のために互いに協力すること、
それ以外の時間については互いに干渉しないこと、
という、いたってまともなものであった。
どんな条件を出されるのか身構えていたが安心した。
特に最後の互いに干渉しないという条件はとても気楽でいい。
それらの条件を承諾すると、ルーカスが書類を差し出してきた。
「こちらが婚姻契約書です。ご署名を頂けますでしょうか?」
ここに自分の名前を書けば婚姻は成立する…
引き返すつもりは端から無いが、緊張でペンを持つ手が震える。
いつもよりゆっくり丁寧に自分の名前を書いた。
続いて公爵様が書類に手早く名前を書いた。
これで私は公爵夫人になった。
案外あっさりしたものだ。
「これで正式に夫婦となられました。お慶び申し上げます。」
公爵様から婚姻契約書を受け取ったルーカスが喜びの言葉を述べた。
「体調はどうだ?無理はしていないか?」
「は、はい。ゆっくりと過ごさせていただいております。最近は庭園を散策できるほどです。」
婚姻契約を終えたらすぐに退出させられると思っていたので、困惑してしまう。
「食事はきちんと食べられているだろうか?」
「はい。毎日きちんと食べております。ご配慮に感謝いたします。」
「そうか。しっかり休むように。」
そう言うと公爵様は席を立った。
これは退出の合図に違いない。
私は席を立ち、扉へと向かう。
「公爵様、それではこれで失礼いたします。」
「…公爵様と呼ぶのはやめなさい。夫婦になったのだから、ダグラスと呼ぶように。」
扉の前で深々と頭を下げた私に、公爵様から厳しい声が飛んでくる。
「申し訳ありません。以後気を付けます。」
深々と頭を下げたまま答えた私は、ようやく書斎を辞した。
客間へ戻り、先ほどの公爵様との会話を思い返す。
――ダグラス様。
まだ口に出して呼ぶ勇気はないけれど、公爵様ではなく名前で呼ぶよう言われた。
まだ怖い人だと思う…でもあの日から一度も食事を抜かれていない。
誰も私を殴らないし、明日に怯えながら眠る必要もない。
ここなら少しだけ幸せになれるかもしれない。
そう思いながら客間の窓を開けて空を見上げた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
ここで第一部完とさせていただきます。
明日から第二部を毎日投稿していきます。




