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縁談の話があってから三日後。
迎えの馬車は午前中に来ると聞いている。
いつものように朝日とともに起きて支度を始めた。
自室の壁には新品のデイドレスが掛けられていた。
最低限の体面を保つためだそうだ。
だが、この部屋にはあまりにも不釣り合いに見える。
井戸の水で顔を洗い、着替えを済ませる。
デイドレスは少しぶかぶかだが、不格好というほどでもなかった。
髪は母に教えてもらった髪型に結い上げた。
与えられたトランクは小さなものが1つだけ。
トランクのなかはスカスカで、私の持ち物は母のハンカチ1枚だけだった。
もうそろそろ門へ行かなくては。
支度を終え、外に出た私は離れの方を振り返った。
いい思い出は一つもなかった。
でも、屋根裏部屋には随分と助けられた。
もうここには帰ってきたくないけれど…
そして、いつも飛ぶ練習をしていた木立に足を向ける。
最後まで飛ぶことはできなかった。
でも、心を静かに慰めてくれる場所だった。
生い茂る木々を見上げながら少し感傷に浸る。
ふと、馬車の音がかすかに聞こえてきた。
公爵家の馬車がもうすぐ到着するのかもしれない。
私は門前へと急いだ。
門へ到着した私の視線の先に見えたのは豪華な馬車。
きっとあれが迎えの馬車だ。
ギュッとトランクの持ち手を握りしめる。
そんな時、不意に後ろから声を掛けられた。
「こちら奥様からです。」
振り返った先には、手紙を差し出すメイドの女性。
伯爵夫人が…なぜ?
疑問に思いながらもその手紙を受け取った。
「そちらは馬車の中で読むようにとのことです。」
手短にそう言って、メイドは屋敷へ帰っていく。
取り残された私は手紙を素早くトランクへ仕舞うと、公爵家の馬車へと視線を戻した。
あぁ…もうすぐこの家から解放されるのね。
待ち望んでいた解放に安堵する気持ちと、これから始まる生活への不安。
二つの感情が胸の内をぐるぐる巡った。
どれくらいそうしていただろうか。
気づけば先ほどの馬車が目の前で停車していた。
「ラナ・コルビダエ伯爵令嬢でございますか?」
「はい。ラナ・コルビダエでございます。」
「アクイラ公爵家より、お迎えに上がりました。」
御者の男性がそう告げた後、馬車の中から落ち着いた雰囲気の侍女が降りてきた。
「長い道中となりますので、私がお世話をさせていただきます。どうぞこちらへ。」
侍女は私の手からトランクを受け取ろうとしながら、馬車へ案内してくれた。
「荷物は自分で持ちたいのです。」
私がやんわりと断ると、侍女はすぐに手を引いた。
「承知いたしました。」
侍女は私に続いて馬車へと乗り込んでくる。
私は目の前に座る侍女をちらりと見やった。
こんなに狭い空間に他人と二人きりというのはかなり緊張する。
「コルビダエ伯爵令嬢、荷物はほかにございますか?」
その時、外にいた御者から声がかけられた。
「いえ、こちらだけです。」
私は小さなトランクを御者に見せる。
「――さようでございますか。」
私の答えに御者は一瞬、訝しげな表情になったがすぐに元の表情に戻る。
そういえば…御者も侍女も私の翼を見て顔色一つ変えなかった。
公爵家の使用人は特別な訓練でも受けているのだろうか?
「出発いたします。」
考え込む私に外から出発を告げる声がする。
「はい、お願いいたします。」
私はそう返事をして、座席に深く腰掛けた。
出発後、早速受け取った手紙を確認する。
そこにはいつものような嫌味と共に、
「もう帰ってくることは許しません。そして、社交界への参加を禁じます。」
と、書いてあった。
手紙をそっと閉じて、トランクのなかに押し込む。
わざわざ手紙で念押しされなくとも、そんなことは分かっている。
私の視線は自然と足元に落ちていた。
「ラナ様、顔色が悪く見えますが…何かございましたか?」
「いえ、大丈夫です。」
心配するように侍女に顔を覗き込まれ、慌てて顔を上げた。
出発してから、数時間は経っただろうか…
道中、辛く感じることもあったがその都度、侍女が御者に声を掛けて休憩を挟んでくれた。
何も言っていないのに察してくれるので、とても有り難かった。
馬車の窓からちらりと外を見上げると、もう太陽が西に傾きかけていた。
空には鳥人族が飛んでいる姿も見える。
私も…
そう思いかけたとき、馬車の揺れが小さくなったのを感じた。
「公爵領に入りました。あと、二時間ほどで公爵邸に到着予定ですので、今しばらくお待ちください。」
御者からの声に、あぁ公爵領に入ったから道が綺麗になったのかと納得した。
窓の外には広大な大地が広がっており、畑には青々とした作物が風に揺れていた。
農民たちは皆幸せそうに笑い合い、子供たちが駆け回る様子も見られた。
しばらくするとまた窓の外の風景が変わる。
窓の外には母と住んでいた街とも伯爵領で見た街とも違う、整然と整備された活気あふれる街並みが広がっていた。
馬車がすれ違えるほどの大通りに、数々の露店が並ぶ。
公爵様は領民を大切にする方なのかもしれない。
そう思うと、公爵家での生活への恐怖心がほんの少しだけ和らいだ。
それからまたしばらくして、馬車が大きな屋敷の前に止まった。
「到着いたしました。」
御者の声に応え、侍女の手を借りながら馬車を降りる。
伯爵邸よりもずっと立派なお屋敷を私は見上げた。
ここが、これから暮らす場所なのね。
またボロ小屋を割り当てられるのかしら。
食事だけは抜かないでほしいな。
私はそう思いながら一歩を踏み出す。
屋敷の外には優しそうな笑みを浮かべた初老の男性が立っていた。
出迎えだろうか?
侍女は私が馬車を降りたことを確かめると、初老の男性へ一礼してその場を離れた。
「遠路はるばるようこそお越しくださいました。私はこの屋敷で執事長を任されております、ルーカスと申します。コルビダエ伯爵令嬢、本日は客間をご用意しております。どうぞお寛ぎください。」
私が近づくとルーカスは深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。」
そんなルーカスの丁寧な対応に、私は驚きのあまり言葉が詰まってしまった。
公爵家に仕えるほど立派な人物なのだから、きっと身分も高いのだろう。
この貴族社会の中で、私の翼を見ても嫌悪感を示さない人がいることに衝撃を受けた。
「お荷物をお持ちしますね。」
「いえ、これだけですので自分で持ちます。」
「そうですか。失礼いたしました。」
私の荷物を持とうとしてくれたルーカスには申し訳ないが、母のハンカチが入ったこのトランクだけは自分で持ちたかった。
「それでは案内いたします。」
ルーカスはそう言うと、私の足並みに合わせてゆっくりと部屋へ案内してくれた。
案内された部屋は見たこともないほど広く、高価な家具や調度品が置かれていた。
ベッドやソファー、テーブルまである。
何かの間違いでは?
私は部屋の入口で立ち尽くし、目を白黒させた。
「申し訳ありません。本来であれば奥様用の部屋へご案内すべきなのですが、奥様の好みをお聞きしてから壁紙など張り替える予定でして…。しばらくの間はこの客間で我慢していただけないでしょうか?」
立ち尽くす私に何を思ったのか、ルーカスから見当違いの謝罪をされる。
「い、いえ、そうではないのです。こんな素敵な部屋を私なんかが使ってもよいものかと…」
そう言いながら、私はそっと目を伏せた。
「まぁまぁ奥様、私なんか、なんて言うものじゃありませんよ。」
突然聞こえた声に驚いて、視線を上げる。
部屋に待機していたのだろうか、部屋の奥から恰幅の良い女性がこちらに向かって歩いてくる。
「ルーカス!あんた奥様を不安にさせるんじゃありませんよ!」
女性はルーカスに近づくと、そう言って彼の肩を叩いた。
奥様とは私のことだろうか?
立ちすくむ私に気づいたその女性は私の方へ向き直り優雅にお辞儀をした。
「奥様、ようこそおいでくださいました。先ほどは驚かせてしまい申し訳ありません。私、この屋敷の侍女頭のリンダでございます。これから、専属の侍女とメイドが見つかるまでの間、奥様の世話をさせていただきます。」
リンダはそう言ったあと、戸惑う私をソファーへ座らせてくれた。
「さて、奥様。本日は長旅でお疲れでしょう。旦那様への挨拶は明日でよいとのことですから、お部屋に夕食をお持ちしますね。」
ほんとに公爵様にご挨拶しなくてもいいのかしら?
それに奥様って気が早すぎるような…
そんな考えが一瞬頭を過ったが、すぐに私は夕食のことで頭がいっぱいになった。
道中で食べたふわふわのパンと温かいスープ、そして肉汁がこぼれ落ちるほどジューシーな肉料理が思い出される。
あんなに美味しいものを食べたのは、母の作った料理以来だった。
それがまた味わえるのかと思うと胸が高鳴る。
最後までお読みいただきありがとうございます。




