2
今朝も食事を抜かれなかった…
なぜだろう?
自室の窓辺で外に咲く花を眺めながらそんなことを考えていた。
その時、不意に聞き慣れない足音がかすかに聞こえた。
この足音…伯爵夫人でもレジーナでもない。
食事の時間帯以外でこの離れに来るのは、あの二人だけだ。
嫌な予感がして、足音が聞こえる方をじっと見つめた。
執事長…?
目線の先にいたのは思いもよらない人物だった。
害されることはなさそうだが…いったい何の用事だろうか?
本邸から歩いてこちらにやってくる執事長の姿をじっくりと観察した。
コンコンッ――
自室の扉がノックされた。
私はどう返事していいのかわからず息をのむ。
次の瞬間、返事を待たずに自室の扉が開かれた。
「いらっしゃったのですか。旦那様がお呼びです。すぐに書斎へ来なさい。」
淡々と告げると、執事長は踵を返して歩き出す。
「え…?」
私は突然のことに固まってしまう。
伯爵と話したのはここへ連れてこられたあの日だけだった。
今更何の用が…?
警戒心がどんどんと高まっていくのを感じた。
数メートル先で執事長が足を止め、こちらを振り返った。
そして呆れたようにため息をついたあと、
「早くついてきなさい。」
と言って再び背を向け、歩き始めた。
行きたくない。
でも、拒否することは許されない。
私は慌てて執事長の後に続く。
本邸に到着するといつも以上にどんよりとした空気が充満しているのを感じた。
おそらく伯爵夫人の機嫌が最悪なのだろう。
使用人たちは皆、息をひそめて仕事をこなしているようだった。
私は書斎の前までたどり着く。
扉の向こう側からレジーナの声が漏れ聞こえてきた。
「いやよ!私じゃなくてもいいじゃない!」
そう叫んだあと、大きな声を上げて泣き始めたようだ。
これはなかなか面倒くさそうだ…
逃げたくなったが、執事長の視線がそれを許してくれない。
執事長が書斎の扉をノックする。
「伯爵様。ラナ様が参りました。」
そう短く告げると、扉を開けて私を部屋の中へと押し込んだ。
部屋の中へ一歩入ると、伯爵へ向かって深く頭を下げる。
「来たか。お前は今年でいくつになるんだ。」
「十六でございます。」
伯爵の突然の質問に私は何かがおかしいと思った。
視界の端ではレジーナが伯爵夫人に泣きついている様子が見える。
「そうか――我が家の令嬢にアクイラ公爵家から縁談の話が来ている。公爵家は伯爵家の令嬢であればどちらでも構わないと言っている。」
「そうでございますか。」
私は伯爵の言葉に返事をする。
「嫌よ!片翼しかない男と結婚したら笑いものになるわ!」
対照的にレジーナは、声を荒げて反論している。
私はそっと視線を上げた。
レジーナを鬱陶しげに見つめる伯爵が、綺麗な青白い羽根を優雅に揺らしている。
「私はどちらが嫁いでも構わないと思っている。だが、これが嫁ぐことになれば貧相な翼の娘を差し出したとして公爵の不興を買うかもしれんな。」
そんな伯爵の言葉に、伯爵夫人が反応する。
「そうですよ!我が家の体面に関わりますわ!やはり、ここはレジーナが…」
「あんな醜い公爵に嫁ぐなんて絶対いやよ!あの子でいいじゃない!向こうはどちらでもいいと言っているのでしょう?!」
レジーナを嫁がせようと話す伯爵夫人と伯爵に向かって、彼女は必死に食らいつく。
「お父様もお母様も私よりあの子の方が可愛いというの!?公爵に嫁ぐくらいなら舌を噛んで死んでやるわ!」
もはや脅しに近いレジーナのヒステリーに伯爵は大きなため息をついて眉間に指をあてた。
勝手にしてくれ。
私はそう思いながら伯爵家の話し合いが終わるのを待ち続けた。
「レジーナ…そんなに嫌なの?この国唯一の公爵夫人になれるのよ。」
レジーナを宥めるような伯爵夫人の声が聞こえる。
「レジーナわがままを言うのはやめなさい。だが…ここがこれの使い時かもしれん…」
伯爵の疲れたような声が部屋に響いたあと、僅かに沈黙が流れた。
「公爵からは持参金も花嫁道具も何もいらないと、破格の条件を提示されている。社交界へは出さないでほしい。そう、こちらから要求すれば多少は配慮してくれるかもしれん。それなら我が家の体面も保てる。」
「それなら…!」
伯爵が続けた言葉に、レジーナの期待のこもった声があがる。
「でも、あなた…」
伯爵夫人はまだ納得できていないようだった。
「お前が公爵家へ嫁げ。これは決定事項だ。」
そんな二人の言葉を遮り、伯爵は私へ向かってそう告げた。
その言葉に歓声を上げるレジーナ。
伯爵夫人の方からは扇子をパシッと叩きつける音が聞こえた。
「かしこまりました。」
この場で私に許されたのは、了承の言葉だけ。
「出立は3日後。それまで、これの食事を抜くことを禁ずる。出立前には湯あみをすることを許可しよう。わかったな。」
ぎりぎりと歯ぎしりの音が聞こえる。
伯爵夫人はこの決定が相当気に入らないようだ。
「では、お前は出ていけ。」
伯爵から退室するよう言われる。
この後は伯爵家の三人で話し合うのだろう。
伯爵の言葉に部屋の隅に控えていた執事長が書斎の扉を開く。
私はこれ以上伯爵夫人を刺激しないように、静かに退出した。
書斎を出ると、目の前でばたんと扉が閉まる。
私は小さく息を吐いて、足早に自室へと戻った。
ごろんとベッドに寝ころび、これからのことを考える。
今日からご飯は抜かれないらしい。
湯あみも許可が出たということは身なりもそれなりに整えて送り出すつもりだろう。
ご飯が抜かれないのは嬉しい。
けれど、こんな翼ではアクイラ公爵家でも同じような扱いを受けるかもしれない。
それでも、きっと大丈夫。
これまでも死なずにここまでこられた。
唯一の自分の持ち物である、母のハンカチをポケットから大事に取り出す。
そのハンカチを胸に抱くと、なんだか母のぬくもりを感じられたような気がした。
最後までお読みいただきありがとうございます。




