レイヤー65 空福論
腹が減ることは不幸ではない
腹が満たせないことは不幸ではない
ただ苦労もせず満たされることは幸福ではない
苦労せずに満たされては幸福をさほど感じない
禁断の食物
この供給源は
思っていたより近かった。
それは
畑ではない
工房でもない
市場と生産地
その中間地点
卸売を担う
商人ギルド
研究員が帳簿を机へ置く
「……出鱈目で滅茶苦茶だ」
収穫量。
販売量。
在庫。
利益。
どれも合わない。
数字だけが
増え続けている
洋蔵は静かに言う。
「複製していますね」
一拍。
「市場そのものを」
倉庫の奥から淡い光が漏れる
巨大な錬成陣
積み上げられた
野菜
肉
穀物
次々と複製される
魔力だけを消費して
等価交換もなく
研究員が呟く
「これでは…」
「生産者は潰れる」
洋蔵は頷く
「価値が壊れます」
食料は増える
だが
価値は減る
働く理由
育てる理由
売る理由
すべて失われる
価値の循環は
無限供給によって
食い尽くされていた。
やがて
奥から一人の男が現れる。
商人ギルドマスター。
同時に…
禁忌を冒した錬金術師である。
男は穏やかに笑う。
「誰も飢えない世界だぞ?」
「素晴らしいだろう」
研究員が睨む。
「この栄養のない食料が?」
男は黙る。
洋蔵が静かに問う。
「なぜ…こんなことを?」
長い沈黙。
男は小さく笑った。
「私はね…救いたかったんだよ」
一拍。
「飢えて…死にゆく人々を…」
「誰も…見たくなかった」
洋蔵は何も言わない。
「私は…救世主に…なりたかった」
男の声は喜びに震えていた。
「食べ物さえあれば」
「この苦しみは終わると」
「信じていた」
沈黙。
研究員が低く言う。
「その結果」
周囲を見渡す。
農地は荒れ。
市場は崩れ。
人々は魔力を蝕まれ。
飢えは姿を変えただけだった。
洋蔵が口を開く。
「あなたは」
一拍。
「空腹を満たしました」
さらに一拍。
「ですが」
「幸福を空にしました」
男は力なく笑う。
「…あぁ…そうか」
洋蔵は錬成陣を見つめる。
「救いとは」
「循環の上に成り立ちます」
「無限では」
「文明というものは続きません」
術式が穏やかに停止する。
巨大な錬成陣が崩れ落ちる。
市場には静けさが戻る。
円が更新される。
供給。
循環。
価値。
禁忌。
暴食。
終焉。
研究員が最後に尋ねる。
「最強の魔法は?」
洋蔵は静かに答える。
「人は足りないものを求める」
一拍。
「支え合うための魔法がある」
生きるために食べるのか
食べるために生きるのか




