52 法の外側
(・・・・・・・・・ばーか)
タリエシンの叫び声を背にしたまま、俺は薄く笑みを浮かべた。
あの絵は、アリスちゃんが描いたものだ。
二人の命を奪ったフィリップには、死刑判決が下った。
それは、法としては正しい。
だが、タリエシンが言葉で人を操り、殺人を引き起こさせたのだ。
それは事実なのに、それでも裁くことはできなかった。
あいつを唆し、二人の命を奪わせ、人生を狂わせた張本人が何事もなかったかのように生きている。
たとえ今、新たに法を定めたとしても、過去へ遡っては罪に問うことはできない。
感情によって法を歪めれば、秩序は瞬く間に崩壊する。
わかっていても、胸に残るのは鈍い感情だった。
あまりの理不尽。
正義が実現できないことへの無力感。
そんな悔しさを滲ませた時、アリスちゃんは、ぽつりと呟いたのだ。
『悪意には、悪意で返したらどうでしょう』
『えっ?』
『信じない人には効きませんけど。人は思い込むと、案外簡単に信じてしまいますから』
そう言った彼女に、表情はなかった。
あのとき彼女が何を考えていたのか、正直わからない。
正義感なのか。
それとも利用され、壊れていったフィリップのことを思ったのか。
あるいは稼ぎのほとんどを田舎の家族に送っていたと知った、スカーレットのためなのか。
俺たちのしたことは、法に照らせば許されるものではないかもしれない。
でも、せめてタリエシンに堕ちるきっかけを与えたかった。
(・・・・・・フィリップは、もう何も感じていないだろうけど)
自分の罪の重さに押し潰されたのか。
それとも、刑の執行の恐怖から逃げたのか。
死刑判決のあと、あいつは壊れた。
幼子のように、ただひたすらに絵だけを描き続ける存在になった。
やがて恩赦が下り、終身刑へと減刑された。
だが、現実には戻ってこなかった。
彼の描く絵は救貧院で販売し、収益は全てスカーレットの遺族へと渡されることになった。
そんなもので慰めになるとは思えないが、何もないよりはましだ。
そう思い自分を納得させようとするが、胸の重みは消えない。
結局のところ、法は秩序を守らせるためのものであって、人を救うものではない。
(・・・・・・・・・・・・風?)
唇を噛みしめていると、ふと、風が吹いた。
視線を上げれば、そこには赤い薔薇が咲いていた。
深く、鮮やかな深紅。
まるで、ベルベッドのように光を吸い込んでいる。
「スカーレット」
思わずその名を呼ぶ。
彼女の好きだった花。
華やかで美しく、どこか彼女によく似ていた。
(・・・・・・ごめんよ)
フィリップは、自らの欲望のためだけに彼女を殺した。
新聞には「高級娼婦」という肩書だけが並び、まるで記号のように扱われていた。
けれど、どんな生き方であれ、命を奪われていい理由にはならない。
本来なら、その命に報いるのは俺の役目だった。
法の番人として罪を裁き、責任を明らかにするはずだった。
(・・・・・・何が「法の番人」だ!)
法に従った結果、タリエシンは罪に問われず自由に生きている。
奪われた命が報われることはない。
自分の無力さを嚙み殺すように、唇を噛み締める。
(・・・・・・・・・誰だ?)
長いスカートの裾を揺らしながら、軽やかな足音が近づいてきた。
重たい思考から引き上げられるように顔を上げると、日傘を差したアリスちゃんだった。
淡い影の中に立つその姿は、どこか現実感が薄い。
「ルーク様。タリエシンに絵は渡せましたか?」
「ああ、渡せたよ」
「そうですか」
「多分、効いたんじゃないかな。・・・まあ、こんなことではスカーレットは浮かばれないだろうけど」
自嘲気味に笑う。
法を守ることの大切さを理解していながら、騙し討ちのような復讐をした俺は最低だ。
「今は届かなくても、積み重ねたものはきっと次へ繋がりますよ」
「・・・え?」
「ルーク様が変えてくれるのでしょう?」
アリスちゃんは不思議そうに首を傾げるが、俺は戸惑うばかりだ。
彼女は、何を言ってるのだろう。
「それが、ルーク様の理想なんでしょう?」
俺の理想。
法の力で理不尽を減らし、人を守り、救うこと。
青臭くて、気恥ずかしくて、誰にも言えない俺の理想。
「アリスちゃん・・・」
「行きましょうか」
俺に何も言わせず、アリスちゃんは歩き出した。
それが彼女の優しさなのか、単に踏み込む気がないだけなのかはわからない。
けれど今は、その距離感がありがたかった。
ふと、別の声が記憶の底から浮かぶ。
『いい子じゃない。大事にしなさいよ』
揶揄うような、柔らかい声音。
(・・・・・・・スカーレット)
風がまた吹き、励ますように俺の背中を押す。
並んで歩き出せば、俺の影は日傘の影にそっと重なった。
お読みいただきありがとうございます。
作中で触れた「遡って罪に問えない」というのは「法の不遡及」という考え方です。
新しく作られた法律を、それ以前の出来事まで適用して処罰することはできない、というものです。
次話はアリスの義兄チャールズ視点となります。




