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恋を描けない伯爵令嬢 ーその絵は嘘をつかない  作者: 夏つばき


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50 続 真実の行き着く先


「・・・・・・・・あなた『パリスの審判』に出てくる三女神は、誰がお好き?」


唐突な問いに、女は美しい眉をわずかに顰めた。

どうせ選ぶ女神は決まっているだろうが、それでも聞きたかった。


「断然、知恵の女神『アテナ』ですね」

「そう」


意外にも、美の女神アフロディーテではなかった。

知恵の女神アテナを選ぶなら、話をしてやってもいい。

小さく頷いて、椅子を勧める。


「・・・よかったら、おかけになって」

「ありがとうございます」


軽く会釈した拍子に、女の美しい髪がさらりと揺れる。

そのことが、ひどく胸を抉った。


「私はゼウスの妻である『ヘラ』が好きよ」

「珍しいですね」

「そうかしら?」


自分が選ばれて当然のようなこの女には、わからないのだろう。

いや。自分の色香が失われたら、きっとわかるに違いない。


「結婚を司る女神よ。女性の味方じゃない」

「ですが、嫉妬深くて、すぐに復讐に走る女神でもあります」


なぜヘラは、これほど嫌われるのだろう。

怒りを露わにすることは、それほどまでに醜いのか。


「それは・・・夫が浮気するからよ。どうして裏切られた側が責められなければならないの?責められるべきは、原因を作った側よ」


(・・・美しいあなたには、わからないでしょうね)

私が、どれほど苦しんだか。

どれほど心を削られたか。


「夫は、愛人を持つような人ではなかったわ。でもね、心の中には、いつも『あの女』がいた」


胸の奥がひりつく。

視線が、自然と盆の上に並べられた化粧品へと落ちる。

もし私がもっと美しかったなら、あの人は私を愛してくれたのだろうか。


「・・・・・・偽札作りを始めたのは、夫なのよ」

「そうなのですか?」

「ええ。私は、何も知らなかった」


ゆっくりと記憶を辿る。


まだ若かったあの頃。

サマセット家は、貿易の投資に失敗したとの噂が流れていた。

夫が好きだった私は、父に頼み込み、多額の持参金まで用意してもらって結婚した。


「でも、あるとき主人の様子がおかしいことに気づいたのよ。最初はね、浮気をしていると思ったの。・・・だから、後をつけたのよ」


そのときの光景が、鮮明に蘇る。


暗い作業場。

見知らぬ男たち。

そして、大量の5ベル紙幣。


「まさか偽札を作っていたとは思わなかったわ。けれど、本当に驚いたのはそこではないの」

「何にそんなに驚いたのですか?」

「そこに・・・いたのよ」


一生見ることのない顔だと思っていた。

いや、顔を見るまで存在すら思い出しもしなかった。


「マヤ様と駆け落ちした、あの画家が」


「・・・アリス様のお父様ですね」

「ええ、そうよ」


私も一度、描いてもらったことがある。

彼の絵の中の私は、上品でありながら、どこか凛々しさを感じさせる女性として描かれていた。

その出来栄えを父は気に入らなかったようだが、私は今でも大切に手元へ置いてある。


「夫はね」


ゆっくりと口角を上げる。

泣くことは、私のプライドが許さない。


「私と結婚してからも、ずっとマヤ様を愛していたの」


色白で、華奢で、艶やかな黒髪。

そんな女を見かけるたび、主人は駆け寄って顔を確認していた。


「ずっと、その姿を追いかけていたわ」


気丈に振る舞おうとしたのに、それでも声が震えた。

妻として、女として、これ以上プライドが傷つけられることがあるだろうか。


「だから、私が捜したの」


偽札作りの指揮を執っていたロドリックに頼んだのだ。

画家の家と、その家族について調べてほしいと。

マヤがどこにいるのか。

どんな暮らしをしているのか、知りたくて仕方がなかった。


「寂れた村でのみすぼらしい暮らしだったわ。マヤ様は、幸せそうには見えなかった」


唇が、ゆっくりと歪むのを感じた。

あのときほど、胸がすく思いをしたことはなかった。


「では、どうして・・・」

「最初はね、何もするつもりなんてなかったの。でもね、夫が画家の妻がマヤ様だと気づいたのよ」


初雪が降った日、夫が興奮して帰ってきたのを覚えている。

そわそわと落ち着きなく食事をしていた。

何かいいことでもあったのかと聞けば、頬を染めながら何もないと言い切った。


「それから夫は、マヤ様に会うための準備を始めたの」

「準備?」

「贈り物よ」


その日から、夫の行動はあからさまだった。

本人は隠しているつもりだったかもしれないが、丸わかりだった。


まるで初恋に目覚めた思春期の少年だった。

少しでも自分をよく見せようとしたのか、自分の新しい服を仕立てた。

髪型を変え、髭を整え、香水にまでこだわり始めた。


「暖かいマフラーや手袋、私のサイズではない外套を注文していたわ。それどころか、高価なアクセサリーやぬいぐるみまで用意していた」


「それは・・・」

「誰のためかなんて、考えるまでもないわよね」


夫の行動に呆れたのか、さすがにこの女も笑みを消した。


「それでね、クリスマスに一人で旅行に行くと言いだしたの」


「クリスマスに・・・」

「もちろん、マヤ様に会うためにね」


家族や親しい友人と過ごすクリスマス。

夫は、その機会に乗じてマヤに会うため画家の家を訪れるつもりだった。


「言ったのよ。私も一緒に旅行に行きたいと。それなのに、夫は商談も兼ねているからと断ったわ」


「仕事だったのでは・・・」

「そんなことあるわけないでしょう?家族で過ごす日よ」


夫は、私にはわからないとでも思ったのだろうか。

それとも私が知っていると分かったうえで、そう言ったのだろうか。


「だから、マヤ様も殺したのですか?」

「そう。ロドリックに命じたのよ。夜に忍び込んで、強盗に見せかけて殺すようにって」


非難じみた目を向けられたが、気にはしない。

私の心だって、殺されたようなものだ。


「でも、一度に三人も殺すのは難しいでしょう?」


「・・・どうしたのですか?」

「簡単なことよ」


どうして誰も気づかないのだろう。

力がなくても、頭を使えば簡単に人は殺せる。


「ローダナム入りの高価なワインを持たせたの」


「・・・・・・」

「酒好きだったからね。渡せば、その日のうちに飲むと思ったのよ。・・・眠っていれば、あとは楽でしょう?」


ロドリックが間違いなく殺せるように。

そう思って、ローダナムを入れた。


「ロドリックが行く前に、死んでいたのは予想外だったわ。よっぽど飲んだのかしらね。でも、おかげで彼は、何もせずに済んだというわけ」


「ご主人は・・・」

「ちょうどクリスマス前に、悪い風邪が流行っていたの」


もう一度窓の外に目を遣る。

ベッドに横たわりながら夫はよく外を見ていたが、何を思っていたのだろう。


「それに罹ってしまって。・・・結局、マヤ様の家には行けなかったのよ」


毎日少しずつ、口に入れるものにヒ素を混ぜた。

紅茶に、酒に、ケーキに、パイに。

夫は、時折り胃の不快感を訴えた。


殺すつもりはなかった。

ただ、クリスマスに私のそばにいてほしかっただけ。


でも、体力が落ちていたのか、風邪をひいたと思ったら、あっという間に死の床についた。


「その風邪が原因で夫は亡くなったの。偽札作りは国にも目をつけられたし、一旦おしまいにしたわ」


偽札作りに関わっていた者たちは画家も含めて何人もいたが、ロドリックと共謀して全員殺しておいた。

無味無臭のヒ素。

これさえあれば、無敵だ。

優雅な貴婦人から振る舞われるお菓子に毒が入ってるなど、誰も疑わない。


「どうして偽札作りを再開したのですか?」

「資金が乏しくなったからよ」


ロドリックは殺しをネタに、頻繁に私をゆすってきた。

偽札作りで財産を築いたが、それにも限度というものがある。


ロドリックを殺すことも考えたが、金で何でも言うことをきく便利な男だった。

それに、また偽札づくりをするときに役に立つだろうと生かしておいたのだ。

一から作り上げるのは大変だが、経験者がいれば格段に違う。


「だからアリス様を攫って描かせようとしたのですね」

「そうよ。でも、最初から狙ったわけじゃないわ。『王女メディア』の看板絵とポスター。あなたは見たかしら?」

「ええ、見ました」


「見事だったでしょう?あの絵を描けるなら、偽札だって描けると思ったのよ。でも、一枚だけ見て技量を判断するのは危険じゃない?」


「だから、試したのですか?」

「ええ、アポロンを描かせたの」


「・・・それで、合格だったと」

「そうよ。血は争えないものよね。まさか画家『エリス』がアリス様だとは、微塵も思っていなかったわ」


納品日。

友人たちに紛れて絵を見るふりをしながら、どんな人物がやってくるかと待ち構えていた。


『約束の絵を持ってきました』


持ってきたのは、アリスだった。

あの瞬間こそ、巡り合わせを感じたことはなかった。

殺し損ねたマヤの子であり、私からジュリアンを奪おうとする女。


「不思議なものね。『パリスの審判』では、三女神が争うけど、争いの種を蒔いたのは不和の女神『エリス』よ。『最も美しい女神へ』と書かれた黄金の林檎を投げ込んだせいで、トロイア戦争は始まったのよ」


意味が分からないのか、女は眉を顰めている。


「美しさは、争いを生むのよ」

「ですが、アリス様は、あなたに何もしていませんよ」


「・・・ええ、そうね」


ジュリアンがアリスを連れてきたとき、心臓が凍るかと思った。

マヤと同じ、抜けるような色白の肌に豊かな黒髪。

華奢な身体に、美しく大きな瞳。

まるで童話の白雪姫のように美しい彼女に、嫉妬の炎が燃え上がった。


「・・・・・・耐えられないわ」

「え?」

「母も、娘も。どうしてああも簡単に人の心を奪うのかしら」


私がどれだけ求めても、手に入らなかったのに。

今回のことがなくとも、私はきっと彼女がくるたびに、毒を仕込んだ菓子を笑顔で差し出していただろう。


「・・・ねぇ、もういいかしら?」

「ええ。話を聞かせていただき、ありがとうございました」


盆をこちらへ寄せると、女は静かに立ち上がる。

最初の印象と違い、その姿は凛々しい戦いの女神のようにも見えた。


「・・・あなた、お名前は?」

「エレノアです」


「そう。綺麗な名前ね。羨ましいわ」

「メアリーも、優しい響きで素敵ですよ」

「地味で平凡よ。ありふれているわ」

「誘拐に殺人、偽札作り。平凡な女性がすることではないと思いますけどね」


「・・・そうね」


夫に愛され、彼から選ばれることだけを考えて生きてきた。

だけど、思いのほか自分で全部選んできたのかもしれない。


(・・・・・・まだ、手はあるかもしれない)

ジュリアンは、経済界に顔が利く。

法曹界に人脈だってあるだろう。

手を尽くして、ここから救い出してくれるかもしれない。


「ねぇ、面会は認められているのよね?」

「ええ」

「じゃあ、ジュリアンに会いに来てほしいと伝えてくれる?」


エレノアは、ほんのわずかに首を傾げる。


「お伝えはしますが・・・来てくださるかは、わかりませんよ」

「どうして?」


その問いに、ほんの少しだけ間があった。


「ジュリアン様は、現在寝込んでいらっしゃいます」


心臓が、大きく跳ねる。

小さい頃から可愛がってきた、たった一人の身内なのだ。


「一体どうしたっていうの?そんなにジュリアンの症状は重いの?」


「・・・ご自分が、よくご存じなのでは?」

「え?」

「あなたの作ったお菓子を召し上がったあと、体調を崩されたそうです」


(まさかジュリアンが食べたの!?)

アリスに渡すように言ったのに。

疑われないように、致死量は入れていない。


だが、夫はそれで命を落とした。


「現在は小康状態です」

「・・・・・・そう」


ほっと胸をなで下ろす。

愛するあの子になにかあっては大変だ。


「でも、同じ症状が二度も続けば、気づきますよね」


「・・・・・・・・・二度?」

「ご自宅にアリス様と伺った際、彼女に出されたクッキーを食べたのは、ジュリアン様です」


(・・・・・・どうして?)

ジュリアンには、安全なクッキーを渡していたはずだ。

なぜ、アリスの皿に置いたクッキーを食べたのか。

私が席を外している間に、何があったのだろう。


「もちろん証拠はありません。ですから、罪には問いません」


「・・・・・・・・・」

「ですが、その沈黙が何より雄弁ですね」


軽蔑の色を隠そうともせずに言い捨てると、彼女は音もなく部屋を出ていった。


ーー扉が閉まる音すら、聞こえなかった。

ただただ、ジュリアンがアリスに向けていた熱っぽい視線だけが脳裏に浮かんでいた。



◇◇◇


ーーあれから、どのくらい時間が経ったのだろう。

時を刻む時計の音だけが、やけに大きく響く。


罪を認めた私は、薄暗い牢へと移された。

鉄格子の嵌まった窓が、ここから出られないのだと残酷に突きつけてくる。


自分の油分が抜けて、ぱさぱさになった髪に手をやる。

化粧品はおろか、香油も石鹸も使い切った。


心を豊かにするものがないというのは、こんなにも心を荒ませるものなのだろうか。

上品な貴婦人だったはずなのに、きっと今の私はひどく醜い。


(・・・・・・どうしてあの子は綺麗だったのかしら)

ロドリックには、アリスを過酷な環境に置くようにと言いつけておいた。

痛めつけて、従順にさせるため。

ーーそして、私の鬱憤を晴らすため。


疑われないよう、旅行と称してポーレート伯爵夫人を誘ってノースヘイブンへ行った。

三日目の夜に、そっとアリスの様子を見に行った。

あの娘は疲れ果てていたのか、私がベッドに近づいてもぴくりとも動かなかった。


粗末な食事に、風呂にも入れない生活。

精神的にも追い詰められていたであろうあの娘は、やつれていた。

目の下の濃い隈、乾いてひび割れた唇、汗で貼り付いた前髪。

それなのに、不思議と輝いて見えた。


(・・・何が、違うのかしらね)

ジュリアンから見捨てられた私。あの子に選ばれたアリス。

二十年以上一緒に過ごした私よりも、あの娘の美しさを選んだというのか。

実の母のように可愛がり、あれだけ愛情を注いだというのに。


選ばれる者と選ばれない者の差は、どこにあるのだろう。

それが生まれ持った美しさというのなら、私は神を恨む。


コツ、コツ、とわずかな足音が聞こえる。

期待して振り返るが、看守が見回りに来ただけだった。


「ねぇ、誰か私を訪ねてきてない?」


「いや」

「・・・そう、わかったわ」


知らず知らずのうちに、ため息がこぼれた。


選ばれるのを待つだけだった人生。

期待しては裏切られる日々。

最後の最後までそうなのだろうか。


「・・・・・・・ジュリアン、あなたは誰を選ぶの?」


震える声で問いかけるが、当然返事はない。


コツ、コツ、とまた足音が響く。

今度こそと振り向くが、いたのはいつもの看守だ。


「ねぇ、私に・・・」

「諦めろ。お前には、誰も会いに来ない」


「・・・・・・そう。誰も来ないのね」


怒りも悲しみも最初はあったはずなのに、もう、何も浮かんでこない。

ただ、空っぽだ。

思い返せば、誰かの心が一度だって私のものになったことはない。


「ふふっ」


ゆっくりと目を閉じる。

涙が左目から一筋だけ零れ、冷たい床に染みを作った。


「結局、一度も選ばれなかったのね」


その事実だけが、胸に重く沈み込んでいく。

もう、いくら看守が見回りにこようと、顔を上げることはない。

そのまま、いつもと同じように夜を迎えると思っていた。


ーーガチャリ。


不意に乾いた音が空気を裂いた。

扉を開いた先にいた看守が、無機質な声で告げる。


「時間だ」


思わず目を閉じ、大きく息を吐く。

何の時間かは、聞くまでもなかった。


「行くぞ」


その場から動かない私を、怯えて動けないとでも思ったのだろうか。

看守は近づき、こちらへ手を伸ばしてきた。

その手を振り払い、ゆっくりと立ち上がる。


足元がわずかに揺れた。

それでも倒れることなく、真っ直ぐに看守を見据えた。


腹の奥から、陽炎のように誇りが湧き上がってくるのがわかった。


「・・・・・・一人で大丈夫よ」


自分でも驚くほど、静かな声だった。

誰にも選ばれなかったけれど、この道を選んだのは私だ。


顔を上げ、毅然と見えるよう背筋を伸ばす。

誰に後ろ指を指されようと、私は私の信念の赴くままに突き進んだのだ。

ーーそこに、後悔はない。


扉の向こうへ、一歩踏み出した。



お読みいただきありがとうございます。


18世紀のヨーロッパでは、ヒ素は比較的入手しやすい毒物だったそうです。

当時はまだ毒物規制も激しくなく、法医学が未発達だったため、病死扱いされることも多かったとか。

特に亜ヒ酸(白色ヒ素)は無味無臭に近く、まさに「理想の毒」と呼ばれていたそうです。


次話はタリエシン視点です。

タリエシンは「27 続フィリップさんの告白」「30 フィリップの思い」に登場しています。

お時間あるときにでもご覧いただけたら嬉しいです。

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