46 炎の中で交わした約束
ドンッ。
ルーク様と視線を交わした瞬間、天井の上から何かが倒れる音が響いた。
思わず見上げれば、灰色の煙が、階段の上から這うようにゆっくりと流れ落ちてくる。
灰色のそれは階段の上からゆるやかに溢れ、まるで生き物のように形を変えながら降りてきた。
「・・・もしかして、火事?」
マイクが火をつけたのだろうか。
それともロドリックが地下に来る前に火を放ったのか。
いや、犯人を考えている場合ではない。
「ルーク様、ここにいてください」
ルーク様を階段の端に座らせ、急いで駆け上がる。
上がるほどに視界が白く濁り、同時に焦げた木と布の匂いが鼻を突いた。
一階へ続く扉を開けたその瞬間、熱気が頬を打つ。
信じられないことに、一階は火の海だった。
慌てて扉を閉め、ルーク様の元へ駆け戻る。
私の顔を見て、一瞬でルーク様は事態を悟ったらしい。
困ったように微笑んだ。
「アリスちゃん、他に出口があるか知ってる?」
「出口、ですか?」
あるにはある。
だが、使えるかどうかはわからない。
それでも、ここにいるよりはまだ望みがある。
「私のいた部屋に、地窓があります」
「地窓?」
「鉄格子は嵌っていますが、揺すれば外すくらいには細工してあります。それに、塩と酢で腐食を進めておきました」
そう言ってポケットから彫刻刀を見せると、ルーク様は小さく笑った。
「さすがアリスちゃんだね。そっちのほうが現実的かな」
こんな状況でも、ルーク様は笑っている。
その顔を見ていると、不思議と何とかなるような気がしてしまう。
私たちは煙に急き立てられるように、部屋へと戻った。
「ルーク様は、座っていてください」
「いや、俺がするよ」
「けが人は黙ってください!」
「そんな・・・」
「いいから!!!」
言いかけたルーク様を気迫で制し、無理やり座らせる。
支えたときにドレスへ滲んだ血は、まだ生温かい。
ルーク様に無理をさせるわけにはいかない。
「アリスちゃん」
「煙を吸わないよう、姿勢を低くしてくださいね」
「いや、そんなことじゃなくて君が」
「いいから!ルーク様は、黙って見ててください!」
もう一度ドレスを裂き、強引にルーク様の口元へ布を押し当てる。
何か言いたげに目を見開くルーク様を無視して、思いきり燭台を鉄格子へ叩きつけた。
ガンッ!
重みのある一撃に、鈍い手応えが返ってきた。
もう一度燭台を鉄格子に叩きつける。
鈍い衝撃音が、狭い空間に反響した。
枠に走らせておいた腐食が、わずかに軋みを返す。
もう音を気にする必要もない。
ただひたすらに打ちつける。
ガンッ!ガンッ!ガンッ!
「アリスちゃん。俺がするから、ちょっとどいて」
「傷が開きます!ルーク様は、座っていてください」
力を込めて打ちつける。
金属が嫌な音を立てて歪み、格子の一部がぐらりと揺れた。
「・・・いけます」
さらにもう一撃。
軋みが限界を超え、枠から金具が外れる音がした。
冷たい鉄が、ゆっくりと崩れるように傾いていく。
ルーク様が、感心したように口笛を吹く。
「アリスちゃんは、すごいね」
「まだだめです。これではルーク様が通れません」
重い燭台を振り続けたせいで、息が上がってしまう。
ルーク様は、そんな私を見ながら軽く笑う。
「俺はいいよ。とりあえず、アリスちゃんが逃げて」
驚いて振り向けば、ルーク様はいつものように微笑んでいる。
この微笑みはーー絶対、私だけを逃すための嘘だ。
「嫌に決まってます!脱出する時は、二人ですからね!」
地窓に向き直り、もう一度燭台を振り上げる。
ガンッ!
強く打ちつける反動なのか、手がじんじんする。
でも、そんなこと気にしている場合ではない。
熱気がこの部屋を包み始めている。
「いや、逃げてよ」
「絶対に嫌です!」
「俺なら大丈夫だから」
「けが人は、黙っていてください!!」
腹から血を流し、一人で立つのもやっとの人間が何を言うのだ。
「自分で何とかできるから、先に行って。みんな君のことを心配して待ってるから」
「行きません!」
「このままだと、アリスちゃん家族のもとへ帰れないよ」
「ルーク様、うるさいです!」
「うるさいって・・・」
もうすぐで外せる。
集中が途切れるから、今は話しかけないでほしい。
「いいから、黙っててください!」
「でも・・・」
「私は『蟹座』ですからね!」
もう一度大きく振りかぶる。
「だから、見捨てるなんて絶対にしません!蟹座は大切な人を守るんです!そう教えたでしょう!?」
怒りをぶつけるように、燭台を叩きつけた。
「絶対に置いていきません。ルーク様は、私が助けます」
まだびくともしない鉄格子を睨みつける。
慣れない重さに肩が激しく上下し、呼吸が荒くなる。
「・・・アリスちゃんには、ははっ・・・本当まいるよね」
背後でルーク様が笑うが、すぐに小さく息をのむ気配がした。
痛みに耐えきれなかったのだろう。
慌てたように腹部を押さえる衣擦れの音が聞こえる。
おそらく、笑った拍子に傷へ力が入ったのだ。
けれど今は、それに構っている余裕などない。
いつの間にか薄い煙が足元からじわりと広がり、私たちを取り囲み始めていた。
まずはこの鉄格子を壊さなければ、私たちは終わりだ。
脇目も振らず、燭台を鉄格子に打ちつける。
ーーガンッ!ガンッ!
鈍い衝撃が手のひらから腕へ突き抜け、痺れが走る。
それでも止まれない。
ガン、ガン、と無我夢中で打ちつけ続ける。
「ねぇ」
低い位置から、掠れた声が聞こえた。
おそらくもうルーク様は立っていられないのだろう。
早く医師に診せなければ、本当に死んでしまう。
「このまま二人で脱出できたら、結婚しない?」
「ええ、いいですよ!」
振り向きもせず、即座に返す。
場を和ませるつもりなのかもしれないが、そんな冗談に付き合っている場合ではなかった。
もう「死」は、そこまで来ているのだ。
喉がひりつき、浅い呼吸が何度も途切れる。
いつの間にか、視界の端が白く霞み始めていた。
もう一度、思いきり打ちつける。
ーーガンッ!
だが、鉄格子はびくともしない。
残るは、最後の一本。
これさえ外れれば、助かるのに。
「・・・アリスちゃん。俺に、格好つけさせてよ」
肩に手を置かれ、我に返る。
思わず見上げると、ルーク様はいつものように笑っている。
けれど、その瞳の奥には、どこか張り詰めたような決意が宿っていた。
「え・・・?」
「ほら、アリスちゃん・・・こっちにおいで」
そっと腕を取られたかと思うと、次の瞬間には燭台を奪われていた。
「ルーク様」
「アリスちゃん、そこで見てて」
鉄格子の前に立ったルーク様は、一度ゆっくりと息を吐く。
「・・・よっと!」
ーーガンッ!
重い一撃が叩き込まれ、鉄格子がわずかに軋んだ。
ガンッ!ガンッ!ガンッ!
休みなく打ち続ける。
そのたびに、上着の下ーー腹部のあたりがじわりと濡れていくのがわかった。
青かった布は、すでにどす黒く変色している。
「ルーク様、もう・・・」
「アリスちゃんを待ってる人がいるからね」
ルーク様の息が荒い。
だが振り下ろされる一撃ごとに、わずかに軋みが深くなる。
「だから、頑張らないと」
「でも」
「それに、結婚するって約束したじゃないか」
唇を引き結んだルーク様が、燭台を思いきり叩きつける。
ーーバキッ。
鈍く、嫌な音が響いた。
次の瞬間、最後の一本が折れ、重々しい音が響いて床に転がった。
「・・・・・・・・やった!!!」
思わず声を上げ、その場で飛び上がってしまう。
息を弾ませながら、ルーク様が振り返った。
「早く!アリスちゃん」
「はい!」
地窓に手を伸ばし、指先で縁を掴む。
そのまま肩を押し込み、半ば無理やり体を滑り込ませた。
下から、ルーク様が支えるように背を押し上げる。
裾が引っかかり、ぴり、と小さく布が裂けた。
それでも振り返る余裕はない。
土を掻くようにして、地窓の外へと這い出た。
「ルーク様も!早く!!」
すぐに振り返ったが、返事がない。
「え、ルーク様!?」
慌てて地窓へ駆け寄り、中を覗き込む。
煙が濃くなり始めた地下室の中で、ルーク様は気を失ったロドリックを抱えようとしていた。
「何してるんですか!?そんな人を連れていたら、間に合いません!」
思わず叫ぶ。
だがルーク様は苦しそうに息をつきながら、それでも笑った。
「だってさ」
ロドリックの肩に腕を回し、支えるように引き寄せる。
「こいつを、法廷に立たせないと」
煙がさらに濃くなる。
白く濁った空気の中で、ルーク様の膝がわずかに揺れた。
「そんなの、もうどうでもいいです!ルーク様が死んじゃいます!」
ロドリックは小柄とは言え、ルーク様はすでに深手を負っている。
この男を助けるなんて、無理だ。
「だめだよ、連れていく」
「無茶です!お願いだから、ルーク様だけこっちに来てください!もう火はそこまで来てるんですよ!早く、早く上がってきてください!」
「そんなこと言わないでよ」
「ルーク様、無理です!もう時間がないんです!火が来てるんですよ!?もしルーク様にもしものことがあったら、エレノア様はどうするんですか!?お願いです!お願いですから、そんな男なんて・・・」
「アリスちゃん」
重みのある低い声で呼ばれて、思わず言葉が止まる。
ルーク様はゆっくりと顔を上げた。
その目に、いつもの軽さはなかった。
「証人が必要だよね?」
胸が詰まる。
確かにこの男が生きていれば、両親の死の真相も、偽札の黒幕も、すべて証明できる。
けれど、火の手が確実に迫っているのだ。
酢になりかけた樽に火が移り、くぐもった音とともにじわじわと燃え広がっていた。
甘さの抜けた酒が焦げ、酸の混じった刺激臭が喉を焼く。
「アリスちゃん。ほら、早く引っ張って」
気がつけば、ルーク様はすぐ真下まで来ていた。
急いでルーク様に手を伸ばせば、困ったように首を振った。
「アリスちゃん、ロドリックを先にして」
ルーク様の言葉に、唇をきつく噛みしめる。
ロドリックの腕を乱暴に掴み、必死に引く。
ーー憎い。
憎くて、憎くて、何度殺しても足りない男。
それでも、この男を引き上げなければルーク様は上がってこない。
「・・・っ!」
力を込めるが、びくともしない。
どうして意識のない人間の体は、こんなにも重いのだろう。
下からルーク様が押し上げてくれるが、それでもなかなか持ち上がらない。
腕が震え、指が滑る。
それでも離さない。
離したら、ルーク様が上がってこれない。
「・・・・・・お願い、上がって!」
叫びに近い声とともに、全身の力を振り絞る。
ーーずるり。
ようやく重たい体が窓の縁を越え、外へと引きずり出された。
「ルーク様!早く!!」
すぐに身を乗り出し、中を覗き込む。
焦げ臭さが一気に濃くなる。
火は勢いを増し、じりじりと距離を詰めてきていた。
煙が、視界を白く塗りつぶしていく。
ーーそのとき。
ミシッ!
ルーク様の背後で、何かが軋む音がした。
次の瞬間、木材が爆ぜ、熱気が容赦なく迫ってきた。
「ルーク様!」
必死に手を伸ばす。
ルーク様が窓枠に手をかける。
だが、腕に力が入らないのか体が持ち上がらない。
「頑張ってください!」
両腕でその腕を掴み、全力で引く。
その瞬間、ルーク様の端正な顔が痛みに歪んだ。
「っ・・・!」
ーーずるり。
力が抜けたように、その体が再び煙の中へと滑り落ちる。
それと同時に、轟音とともに天井の一部が崩れ落ちた。
炎が一気に地下室に流れ込み、貯蔵庫の空気が赤く染まっていく。
「アリスちゃん!そこにいたら危ない!離れて!」
「何言ってるんですか!絶対に連れて帰ります!」
「お願いだから、言うことをきいて!」
こんな状況でも、ルーク様は私の心配をしている。
その事実に、視界がじわりと涙で滲んだ。
「言うことをきくのは、ルーク様の方です!」
「ここにいたら危ないんだよ。頼むから、その男を連れて逃げて」
「嫌です!ルーク様が上がってこない限り、私は動きませんからね!」
ルーク様は撃たれた腹を庇うように前屈みの姿勢になり、苦しげに息を吐いた。
顔色は悪く、今にも意識を失いそうだ。
それでもなお、私を逃がそうとしている。
「・・・ねぇ、アリスちゃん。お願いだから」
「嫌だと言ってるでしょう!?どうしても私を動かしたいなら、ルーク様が上がってきてください!」
「そんな無理なこと言わないでくれよ」
「私に格好いいところを見せてくれるんでしょう!?」
「えっ・・・」
「見せてくださいよ!格好いいところを!」
ルーク様の目が、わずかに見開かれた。
「私たち、結婚するんじゃないですか!?私を未亡人にする気ですか!」
「いや・・・まだ結婚してないし」
掠れた声でそんなことを返してくる。
その軽口に、泣きそうになる。
「ルーク様がここで死んだら・・・私、一生、嫌いになります!!!」
何とかして、ルーク様に手を伸ばしてほしかった。
こんな言葉で奮い立たせられるかわからない。
それでも、諦めずにいてほしかった。
「・・・そうだよね」
ルーク様は、何かを飲み込むように小さく息を吐いた。
だが顔を上げたときには、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「俺、それは嫌かな」
「そうでしょう!」
「アリスちゃんに嫌われないように、頑張るしかないよね」
眉を顰めながら、ルーク様が手を伸ばしてきた。
差し出された手を、もう一度思いきり掴む。
重い。
肩が外れそうになる。
それでも、絶対に離さない。
必ず、生きて連れて帰る。
「・・・・・・っ!」
ルーク様が歯を食いしばり、力を込める。
その瞬間ーーぐっと体が持ち上がった。
「頑張って!」
全身の力を振り絞り、無理やり引き上げる。
壁に身体を擦りつけられたルーク様の顔が苦痛に歪んだが、気にしている余裕はなかった。
ーーどさり。
次の瞬間、ルーク様の体が地面へと転がり出た。
「よかった・・・」
「早く、この場を離れて!」
ルーク様に急かされ、ロドリックを引きずるようにして駆け出す。
足がもつれそうになったその瞬間、くぐもった破裂音が響いた。
地窓から、炎が噴き上がる。
溜まりに溜まった熱と煙が、一気に逃げ場を得たように吐き出される。
あまりの火の勢いに、その場にへたりこんでしまった。
見れば、屋敷全体が巨大な篝火のように燃え上がっていた。
お読みいただきありがとうございます。
火災では、焼死よりも煙や有毒ガスによる死亡の方が多いとされています。
本作では物語としての演出や展開を優先しているため、現実とは異なる描写も含まれています。
どうか温かい目で楽しんでいただけますと幸いです<(_ _)>




