42 選ぶ者は誰か
サマセット家の呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして扉が開き、伯爵夫人本人が姿を現した。
その後ろには、影のように初老のメイドが控えている。
「まあ、突然どうされたのですか?」
俺たちの顔を見るなり、柔らかな声でそう言う。
だが、その目は一瞬でこちらの様子を測るように細められた。
紺色のドレスをまとい、化粧も隙がない。
どこかへ出かけたのか、それとも出かける前だったのか。
アーサーと、ほんのわずかに視線を交わす。
「突然このように訪ねてしまい、申し訳ありません。実はお願いがあって参りました」
「ウィンダム公爵家のルーク様が、私にお願いだなんて。何かしら?」
伯爵夫人は首を傾げたまま、こちらの出方を待っている。
(・・・見た目どおりの人物と思わないほうがいいだろうな)
上品で気さくな貴婦人ーーそう評判の伯爵夫人だが、エレノアの話によれば、甥のジュリアンに近づく女性をさりげなく遠ざけるらしい。
とはいえ、ただ排除するのではなく、相応しい縁談をその家に持ち込むだけで、表だった害があるわけではない。
だがーージュリアン本人は、そのことを知らなかったのだろう。
そうでなければ、アリスちゃんをサマセット伯爵夫人に会わせるはずがない。
「実は、所蔵している絵を見せていただきたいのです」
「ええ、もちろん構いませんわ。さあ、どうぞ」
どの絵が見たいとも言っていないのに、伯爵夫人はさっさと前に立ち、廊下を歩き出す。
戸惑っていると、初老のメイドが目線で俺たちを促す。
俺はアーサーとちらりと目を合わせた。
ーーとりあえず、黙ってついていくしかなさそうだ。
「ルーク様も絵がお好きだとは、知りませんでしたわ」
「いえ、実はあまり詳しくないのです」
「ご謙遜を。でも、言わせていただけるのなら、絵は知識ではなく、心で感じることが一番ですわ」
そう言って伯爵夫人は首を傾げ、微笑みながらアーサーを見上げた。
「アーサー様もそうお思いでしょう?」
「ええ」
「心が何より重要ですわ。絵も人も、見えるものだけで価値を測るなんて、あまりに浅はかですもの」
「そうですね。見えないところにこそ、本当の美しさは宿るのかもしれません」
伯爵夫人はアーサーの答えに満足そうに頷くと、ホールの扉を開いた。
そして、満面の笑みを浮かべた。
その表情には、隠しきれない得意げな色が滲んでいた。
「うふふ。ルーベンスの『パリスの審判』です。素敵でしょう?」
彼女の家を訪れる者は、きっと皆この絵を見たがるのだろう。
俺たちの訪問を伯爵夫人が勘違いしたのも、無理はない。
目の前に広がる絵は、見事、としかいいようがなかった。
「ええ、本当に素敵ですね」
「見事な絵です」
「でしょう?ご存じのように『パリスの審判』は、誰が一番美しいかを選ぶ物語ですわ」
伯爵夫人は、絵の中の三人の女神へ静かに指先を向けた。
その仕草には、無駄のない洗練と確かな自信が滲んでいた。
「ヘラは神々の女王。アテナは知恵の女神。そしてアフロディーテは、愛と美の女神。あなた方は、誰を選ぶのかしら?」
(・・・・・・やれやれ、面倒な話題だな)
彼女は絵の中の女神を指しているようで、実際に探っているのは、俺たちの女性の好みだろう。
価値観を知りたいのは明らかだが、目の前の伯爵夫人とかけ離れた答えを出せば、角が立つ。
「それはまた、難しい問題ですね」
この場での正解は、美の女神以外だ。
伯爵夫人の容姿は普通で、いわゆる「絶世の美女」という類ではない。
先ほどの会話といい、わざわざこの話題を振るにあたり、何か思うところがあるのだろう。
「迷いますが・・・私は、知恵の女神を選びますね」
「まあ、そうですの?アフロディーテではなくて?」
伯爵夫人は、意外そうに眉を上げた。
俺は彼女の中で、見た目で女性を選ぶ軽薄な男に見えているのだろうか。
「ええ。美しさより、揺るがない強さを持つアテナがいいですね」
「では、アーサー様は?」
アーサーに顔を向けた伯爵夫人の目は、わずかに輝きを増している。
まるで、答えを見透かしているかのようにーーあるいは、それを楽しみにしているかのように。
「私も、決められませんね」
「あら、そうなのですか?」
「どの女神も美しく感じるので」
伯爵夫人は、くすりと笑った。
「まあ、アーサー様は欲張りですこと。では、三人とも選ぶのかしら?」
「いいえ。愛する女性は一人いれば十分です」
「一人と言いながら、選べないとはどういうことでしょう?」
「私の愛する人は、すべてを兼ね備えていますから」
その瞬間、伯爵夫人の鼻がわずかに鳴った。
真剣に答える必要などどこにもないのに、真面目で一途なアーサーには、この手のやり取りは分が悪い。
「まあ、なんて素敵なことでしょう!アーサー様が想う女性は、きっと素晴らしい方なのでしょうね」
「ええ、そうです」
わざとらしく褒める伯爵夫人に、照れもなく言い切るアーサー。
(・・・やってしまったな)
伯爵夫人は不快感を隠そうともせず、わずかに眉を顰めた。
たとえ無関係でも、遠回しに自己評価を探ろうとする相手の前で、別の女性を褒めるのは歓迎されない。
アーサーの答えは、完全に不正解だ。
伯爵夫人は、言葉の端に小さな棘を乗せた。
「殿方はいいですわね。いつも、選ぶ側で」
「そうでもありませんよ。最近では、女性が選ぶようですけどね」
「そうなのかしら。私の若い頃は、男性が選ぶものでしたわ」
あからさまに伯爵夫人の機嫌は悪い。
ここは、うまく持ち上げておくべきだろう。
「サマセット伯爵に選ばれたメアリー様は、さぞかし誇らしかったでしょうね」
「あら、そう思いますの?」
「ええ。選ぶ立場より、選ばれる側の方が価値がある。数多の中から選ばれるということは、それだけで特別であるということです」
「ふふっ。そうね」
過去には触れず、あえて「選ばれた側」として持ち上げる。
すると伯爵夫人の機嫌は、わずかに持ち直したようだった。
エレノアによると、サマセット伯爵は、婚約を破棄されたアリスちゃんの母親に終始未練があったらしい。
伯爵夫人は、多額の持参金をちらつかせ、伯爵に結婚を迫ったと言われている。
単なる噂かもしれない。
だが、今の様子を見る限りーーあながち外れてもいないだろう。
少なくとも、こうして駆け引きや遠回しに探りを入れてくる女性は、俺の好みではない。
アリスちゃんの、あの真っ直ぐな気性が恋しかった。
思ったことをそのまま口にして、好きなものには一直線で。
妙なところで頑固で、引くことも知らない。
手を焼くことも多いのに、どうしてか、アリスちゃんの言葉だけは疑う気になれなかった。
自分が人からどう思われているかなど気にも留めず、ただひたすらに前に進もうとする彼女に、会いたくてたまらなかった。
思わず下を向きかけた俺に、伯爵夫人は楽しげな微笑みを浮かべた。
「では、私はこの絵の中で、どの女神に当てはまるかしら?」
(・・・・・・ほらな。絶対この質問がくると思ったんだよ)
結局のところ、知りたいのはそこだ。
どんな言葉で飾られ、どう評価されるのか。
要するに、自分がどう見られているかを確かめたいだけだ。
だからといって求めているのは正直な感想ではなく、自分の求めている答えだけだ。
面倒だが、ここで機嫌を損ねられても困る。
仕方なく、少し考えるふりをして視線を絵へ戻した。
「そうですね。メアリー様はアフロディーテというより」
その瞬間、伯爵夫人がきゅっと唇を噛むのが見えた。
おそらく正解はヘラだが、ここはあえて外す。
彼女は見た目ほど単純ではない。
むしろ、見透かされたと感じた瞬間に、強く警戒するタイプだ。
「・・・むしろアテナのような方でしょう」
伯爵夫人は目を細め、こちらを見た。
回答を間違えたかと、内心ひやりとする。
「まあ、どうして?」
「知恵と気品をお持ちだ」
そう言った瞬間、伯爵夫人の表情がふっと緩んだ。
どうやら及第点はもらえたようだ。
「うふふ。ルーク様は、お上手ですこと」
伯爵夫人に軽く会釈し、もう一度絵へ視線を戻す。
「本当に見事な作品ですね」
「ええ、この家の自慢ですの」
「もしよろしければ、ほかの絵も拝見させていただけますか?」
「ほかの絵?」
伯爵夫人は不思議そうに首を傾げて、俺を見る。
「エリスという画家の絵をお持ちだと、トマスから伺いまして」
思ってもいない申し出だったのだろう。
伯爵夫人の笑顔が、ほんのわずかだけ固まった。
「・・・・・・エリス?」
「お持ちなのでしょう?」
「ええ、ありますよ。でも、どうしてですか?」
「実は妹が『王女メディア』の看板絵を見て、すっかりエリスという画家のファンになりましてね。是非その看板絵を見てほしいと言われていたのに、忙しくするうちに見忘れてしまったのです」
嘘も方便だ。
困ったように小さく息をつき、同じように首を傾けて伯爵夫人を見る。
ーーほんのわずかな仕草の模倣。
気づかれない程度に合わせ、親近感を抱かせるための演技だ。
相手は、自分の似たものに安心する。
だからこそ、ほんの少しだけ寄せる。
「あらまあ、そうなのですね。あの舞台は、もう終わってしまいましたものね」
「そうなんですよ。それでトマスに問い合わせたところ、手持ちはないと言われましてね。どうしたら見られるかと相談したら、メアリー様なら見せてもらえるのでは、と教えていただきまして」
「そうだったのですね」
伯爵夫人は、納得したように頷いた。
「妹と話を合わせるために、見せていただけたら嬉しいのですが・・・」
「そういうことなら、喜んでお見せしますわ」
「ありがとうございます。妹は、怒ると怖いものですから」
「ふふっ、公爵家のルーク様でも、妹さんには勝てないのですね」
「ええ、まったく」
伯爵夫人は俺を見つめながら、にっこりと笑った。
どうやら、俺への好感度は上がったらしい。
「すぐにお持ちいたしますね」
「奥様、私が・・・」
メイドが声をかけるが、伯爵夫人はゆっくりと首を振った。
「いいのよ。ホリーは、お茶を淹れてきて」
「・・・かしこまりました」
「では、お二人とも少しお待ちくださいね」
伯爵夫人はメイドを伴い、足早に部屋を出ていく。
遅れてついていくメイドの歩みはどこか頼りなく、片足をかすかに引きずっていた。
扉が閉まった瞬間、アーサーが不満げに声を漏らした。
「・・・・・・ルーク」
「いいじゃないか」
どうやら、エレノアの名を出したことが気に入らないらしい。
アーサーはじろりと俺を睨むが、素知らぬふりをする。
しばらくすると、廊下の向こうから足音が戻ってきた。
「お待たせしました」
伯爵夫人は、両手で一枚の額縁を抱えている。
アリスちゃんの絵だと思うと、こんなときなのに胸が高鳴ってしまう。
「これがエリスの絵ですわ」
そう言って、テーブルの上にそっと絵を立てかけた。
思わず息をのむ。
朝の光を纏って立つアポロン。
黄金の巻き毛。額には月桂冠。
手に竪琴を持ち、穏やかに微笑む神は、知性と清廉さを併せ持っていた。
顔立ちは違う。
だが、体つきは間違いなくアーサーだ。
美しく描かれたその姿に、アーサーは戸惑っているようだった。
「これは素晴らしいアポロンですね」
「そうでしょう?」
伯爵夫人は、誇らしげに胸を張った。
まるで自分の手柄のように。
「実は『王女メディア』の看板絵を見て、この方にアポロンを描いてもらいたいと思って注文したんですよ」
「さすが審美眼の高いメアリー様ですね。画家の実力を見抜かれたのですか」
褒めれば、伯爵夫人はますます嬉しそうに微笑む。
「うふふ、それほどでも。でも、これほど実力のある画家とは思っていなくて、私もびっくりしましたのよ」
「本当に、素晴らしい絵だ」
アーサーも、思わずと言った様子で呟いた。
「あら。アーサー様も、そう思いまして?」
「ええ。まさか、こんなふうに描かれているとは」
伯爵夫人は、くすりと笑う。
それから、アーサーの目をしっかりと見つめた。
「ふふっ。世の中には才能を持つ素晴らしい女性が、沢山いるのですよ」
(・・・・・・嫌味か)
遠回しに、アーサーの想い人を貶しているつもりなのだろう。
伯爵夫人の意図に気づいたのか、アーサーはわずかに眉を顰めた。
俺はそっと手でアーサーを制す。
今ここで反応する必要はない。
「この絵を描いたのは、女性なのですか?」
「そうなんですよ。最近の女性の活躍は、目覚ましいですわね。私の若い頃は、若い女性が絵を志すなんて、許されるものではなかったのですけれど」
伯爵夫人は絵を見つめながら、少し羨ましそうに言う。
俺は、何気ない調子で尋ねる。
「どうして、この画家が若い女性だとわかるのですか?」
「・・・・・・え?」
伯爵夫人は、少し驚いたように瞬きをした。
「エリスは謎の多い画家で、正体は教えられないとトマスから聞いたのですが」
「それはルーク様が男性だからですよ」
伯爵夫人は、手で口元を押さえながら笑った。
その視線には、わずかな侮りが混じっている。
「私は女性ですからね。教えても安心だと思ったのでしょう」
(・・・そんなわけがない)
人の口に戸は立てられない。
俺がアリスちゃんの正体を知っていると言ったときの、トマスのあの目。
身分差を思えば本来見せるはずのない、あからさまな不信。
たった一枚絵を買った程度で、そう簡単に明かすはずがない。
「アーサー」
「ああ、わかっている」
次の瞬間、アーサーが素早く動いた。
伯爵夫人のふくよかな腕をつかむ。
「きゃっ、何をなさるのですか!?」
「サマセット伯爵夫人、お話を聞かせてもらいます」
「な、何ですか?放してください!ルーク様、これはどういうことですか?」
俺は一歩、距離を詰める。
怒りを抑え、静かに言った。
「『エリス』であるアリス・ブラックウッドが攫われました」
その一言で、伯爵夫人の瞳が揺れた。
「貴女は、この事件に関与していますね?」
ゆっくりと、確かめるように言葉を落とす。
伯爵夫人の目を覗き込んだ途端、彼女は怯えたように視線を逸らした。
「知らないとは言わせません」
伯爵夫人は、何も言わない。
ただ視線を床へ落とし、唇を強く結んでいる。
その沈黙が、かえって答えのようだった。
「エリスの正体は秘密のはずだ。それをあなたは知っていた」
「いいえ、私は・・・」
「それに、あなたは今こう言った。『若い女性』だと」
自分の失言を悟ったのか、伯爵夫人の顔がみるみる青ざめていく。
「あなたは『エリス』に会ったんですよね?」
「いいえ、違います」
否定はするものの、その声に力はなかった。
それが本心なのか、それとも演技なのか。
どちらかと言えば、後者のように思えた。
「アリス・ブラックウッドは、今どこにいますか?」
伯爵夫人は、目を閉じた。
そして、小さく呟いた。
「私からお話しすることはありません」
それきり、彼女は口を閉ざした。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をしていただき、ありがとうございました。
ルークが用いたのは、ミラーリング効果と呼ばれるものです。
相手の仕草や話し方を真似ることで、親近感や安心感を生み出すとされています。
次話も、ルーク視点です。
メイドの名前を間違えておりましたので、2026年5月1日に修正しました。
正しくはホリーです。申し訳ありません。




