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恋を描けない伯爵令嬢 ーその絵は嘘をつかない  作者: 夏つばき


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39 監禁4日目、崩れる均衡

本作には一部、暴力的な描写が含まれています。

苦手な方は、当該箇所は読み飛ばしていただけますと幸いです。


足音が響き、ノックもせずにマイクが顔を出した。


「おい、朝食を持ってきたぞ」

「ありがとう」


のんびりとした動作で、マイクが朝食を机に置く。

今日も、いつもの黒パンだ。

もうここに来て4日になるというのに、黒パン以外は一度も出されていない。


「・・・んっ?なんかこの部屋、匂うな」


その一言に、かっと顔が熱くなる。


「ごめんなさい。お風呂に入ってないから・・・」

「あっ、いや。・・・ごめん」


鼻をひくつかせていたマイクが、気まずそうに視線を逸らした。


「いいえ・・・」


生きている以上、どうしても汚れる。

お風呂とまでは言わない。

せめて体を拭くためのお湯だけでも欲しいのだが、それすらロドリックは許してくれない。


「マイクさん。申し訳ないんだけど、お湯をいただけないかしら?」

「俺はそうしてやりたいんだけど、ロドリックがなぁ」


(・・・嫌がらせかしらね)

どうも扱いが悪いような気がする。

従順に振る舞っているつもりだけれど、見抜かれているのだろうか。


唇を噛み締めていると、マイクが焦ったように声をかけてくる。


「そんなに落ち込むなよ。そこまで臭くないからさ」

「匂いもだけど、気持ち悪くて・・・」


皮脂と汗で肌がぬめり、髪は重くべたついている。

頭皮もかゆくて、正直もう耐えられない。


「・・・そうだよな」


小さく呟いたあと、マイクは顔を上げた。


「準備してやるよ。ロドリックが戻ってくる前に済ませろよ」


さすがに同情してくれたのだろうか。

マイクは勢いよく扉を開け、そのまま飛び出していった。

一階へと駆けていく足音が響く。


(・・・・・・よかった)

ほっと胸を撫でおろす。


実は昨夜、思いついて貯蔵庫の奥のワイン樽の蓋をこじ開けてみたのだ。

中身は、既に酒と呼べない代物になっていた。

酸化して、ほとんど酢に変わっている。


近くに転がっていた木の柄杓を掴み、それで濁った液体を掬い、鉄格子の根元へ流し込んだ。


鉄格子の根元は、すでに振りかけておいた塩が溶け、黒ずんでいた。

そこへ何度も液体を注ぎ、時間を置いてはまた注ぐ。

単純な作業を繰り返していた。


ただ、やり過ぎたのかわずかに臭う。

匂いを誤魔化すため、今のうちに新聞紙を細くちぎり、塩と一緒にもう一度詰めておく。


見ると、鉄は赤く汗をかいたように滲み、指で触れればざらりとした粉がこぼれ落ちた。

元々腐食していたのだ。

こうなれば、もう時間の問題だ。

力を込めて揺すれば、冷たかったはずの鉄はどこか頼りなく、湿った感触に変わっていた。


(・・・・・・もうすぐ、外れるような気もするんだけど)

早く逃げないと、このままでは殺される。


ーー昨夜、誰かが部屋に入って来た。


鉄格子の細工をしている最中だった。

足音に気づいた瞬間、慌ててベッドへ飛び込み、寝たふりをした。

鍵を開ける音がぎぃっとして、扉がゆっくり開いた。


まぶたを閉じたまま、息を殺した。

足音が近づき、ベッドの脇で止まった。

毛布の下では、いざという時のために彫刻刀を握りしめていた。


蝋燭の明かりが近づきーーやがて止まった。

その明かりで、私が眠っているか確かめたのだろう。


しばらくして足音は遠ざかり、扉が閉まった。

鍵のかかる音が、やけに大きく響いた。


気がつけば、汗びっしょりになっていた。


あれは、何だったのだろう。

怖くて、ここから逃げ出したくて、明け方までひたすら鉄格子の細工を続けていた。



ーードスドスドスと、大きな足音が響いてくる。


(・・・・・・マイクが戻って来た?)

弾かれたように鉄格子の前から離れ、机の前に座る。

皿から塩だけがなくなっていると気づかれないよう、黒パンを引き出しに押し込んだ。


「お待たせ。持ってきたぞ」

「マイクさん、ありがとう!」


振り返ると、桶に湯気が立ちのぼっている。

それだけでも心が弾んだ。

しかも、マイクの手には清潔なタオルが二枚ある。


「いいよ、気にすんな。でも、早くしろよ」

「わかったわ」


マイクはお湯を入れた桶だけ渡すと、照れたように笑い、すぐに出て行った。

大きな足音が遠ざかっていく。

もしかしたら、気を利かしてくれたのかもしれない。


(・・・・・・今ここで逃げたら、音でばれるわよね)

そっと鉄格子に近づく。

もう一度揺らしてみるが、わずかに動くだけで外れはしない。

強く叩きつけでもしない限り、壊すのは難しそうだ。


(・・・それなら、体を拭くことが先ね)

いつロドリックが帰ってくるかわからない。

急いで布を濡らし、固く絞る。


顔と首筋をさっと拭う。

4日も湯に触れていない肌は、思った以上にざらついていた。

腕、背中と布を滑らせるたび、汗と汚れがうっすらと移る。


髪にも水を含ませ、指でかき分けながら拭き取る。

何度も繰り返すうちに、重く纏わりついていた感触が、わずかに軽くなった。


十分とは言えない。

それでも、何もしないよりはずっといい。


ほんの少しほっととする。

それと同時に足音が響き、控えめなノックの音が肩越しに響いた。


「おい、もういいか?そろそろロドリックが、帰ってくる時間なんだよ」

「ええ、大丈夫よ」


扉を開けて入って来たマイクは、よほどロドリックが怖いのか、証拠を隠すように桶を手にする。

逃げるために親しくしようとした相手だったが、この数日で気のいい青年だとわかっていた。


その背に感謝をこめて、改めて礼を言う。


「ありがとう、マイクさん」

「いいよ。・・・でも、まだ描けないのか?」


マイクの目は、命令ではなく気遣うような色を帯びていた。

騙しているのだと思うと、ほんの少し胸が痛む。


「これでも頑張ってるのよ」

「ロドリックが、遅いって言って機嫌悪いんだよな」


そうは言っても、早く仕上げるわけにはいかない。


「ここまではできてるんだけど・・・」


申し訳なさを覚えながら、途中まで描いた下絵を見せた。

ーー支配する者とされる者。

その関係のはずなのに、不思議と彼を受け入れ始めていた。


「すっげぇ!上手いじゃん!」


目を輝かせるマイクに、思わず微笑んでしまう。

その純粋な称賛は、素直に嬉しかった。


「でも、これではだめよ。見破られるわ」

「そうなのか?」


線が荒いのだ。

一度の模写で、描けはしない。


「ルーペで見れば、よくわかるわよ」

「『ルーペ』ってなんだよ?」

「拡大する道具。これよ」


棚に手を伸ばし、ルーペを取り出す。

汚れがついていたので、ハンカチでさっと拭いた。


ふと、それが見たことあるような気がして手を止めた。


ルーペの縁を指でなぞる。

冷たい銀の裏側に、小さな刻印。


L.H ーー父ローレンス・ヘイルの頭文字。


その瞬間、胸の奥で何かがざわめく。

父の手の跡が、ここに残っている。


丁寧に磨かれ、長年の使用で艶を帯びた銀の縁。

どうして、父の物がここにあるのか。


「おい、急にどうした?ぼんやりしてるぞ」


「え、えっと・・・・・・」

「そのルーペに、何かあるのか?」


上手く取り繕えない。

目が泳いだその瞬間、乱暴に扉が開いた。


「おいっ、お前、いい加減にしろよ!」


怒鳴り声とともに入ってきたのは、ロドリックだった。


「ロドリック、そんなに怒ってどうしたんだよ?」

「進捗が悪すぎるって、上に言われた。俺の管理責任だとよ」

「きちんと描いているわ」

「口だけだろ」


吐き捨てるように言い、ロドリックが睨みつけてくる。


従順なふりをし続けている。

だが、この男は私のことを最初から信用していないのだろう。


「前の奴はな、このくらいの時間があれば下絵まで仕上げていた」


やはり、ロドリックは今回が初めてではない。

以前にも偽札を作らせていたのだ。

そして、それをマイクに使わせたのも、この男だ。


「そんなこと言われても、私の技術じゃ・・・」


バシッ、と乾いた音が響いた。


思わぬ衝撃に、床へ転がり落ちる。

打たれた頬が、じんじんと熱を帯びていた。


「言い訳するんじゃねぇよ!」


「ロドリック、やり過ぎだ!」

「お前が甘いから、つけあがるんだ。もう少し早く描けるはずだ。こっちは、甘やかさずに早く仕上げろって言われてんだよ」


昨夜、私の顔を覗き込んだのは、ロドリックの「上」の人間だったのだろうか。

もしかしたら、外で何か動きがあったのかもしれない。


「座り込んでる暇があったら、さっさと描け!」

「痛っ」

「お、おい、やり過ぎだって・・・」


ロドリックは私の髪を乱暴に掴み、無理やり椅子に座らせた。

マイクはおろおろと止めようとするが、ロドリックは意に介さない。


自分が殴ったくせに、さらに怒鳴りつけてくる。

これだけ苛立っているのは、上からきつく叱責されたからだろう。


「アリスはさぼらず、毎日ちゃんとやってたさ」

「騙されるな。こいつは『天才ローレンス』の娘だとよ。描けないはずがねえんだよ」


ーー父の名前。

ロドリックの口から出たその一言に、胸がざわついた。


「お父様を知ってるの!?」


思わず叫ぶ。

ロドリックがゆっくりと薄い唇を歪め、こちらを見た。


「ああ、知ってるさ。国を揺るがした、あの5ベル紙幣を描いたのは、お前の親父だからな」


その瞬間、体中の血が沸騰した。

そんなこと。

そんなこと、あるわけがない。


「お父様が、偽札を描いたと言うの!?」

「ああ、そうさ。いいか?親父みたいに殺されたくなかったら、さっさと描くんだな」


ーーガン、と頭を殴られたような衝撃。

頬の痛みなど、もう感じない。


「どういうこと!?お父様を、殺したの!?」


「うっせぇよ!そんなこと気にしている暇があったら描け!」

「ねぇ、お父様たちを殺したのは、あなたなの!?」


気づいたときには、ロドリックに掴みかかっていた。


だが、次の瞬間、思い切り突き飛ばされる。


背中からベッドの端にぶつかり、頭が大きく揺れた。

眩暈がする。

ぶつけた拍子にどこか切れたのか、額から温かいものが流れ落ちる。


それでも、止まれない。

ふらつきながら立ち上がり、ロドリックに食ってかかる。


「あなたが殺したのね!」

「黙れっ!」

「人殺し!!!」


拳が飛んだ。

そのまま床に叩きつけられる。


衝撃で目も開けられない。

体が、動かない。


「おい、止めろよ、ロドリック!女の子にやり過ぎだって!」


マイクの慌てたような声が聞こえる。


「いいんだよ。こいつが逆らうからだ」

「描けなくなったらどうするんだ!」

「描かせるさ。言うことを聞かなければ、痛めつけて描かせるだけだ」


倒れた顔のすぐそばに、唾が吐かれた気配がした。

けれど、目は開けられない。

体も動かない。


「ほら!気絶してるじゃないか!」


「水をぶっかけりゃ、起きるだろう。なんだったら、もう一発叩いてもいい」

「いくらなんでも、酷すぎるだろう!」


足音が近づいてくる。

必死に瞼を押し上げると、視界の端にマイクの大きな背中が見えた。

体を張って庇ってくれているようだった。


「何言ってるんだよ。どうせ殺すんだ」


「・・・え?」

「当たり前だろう?こいつが俺たちのことを話せば、俺たちは縛り首だ」

「そ、そんな・・・」


マイクの声が震えている。

どうやら彼は、この仕事の本当の意味を知らなかったらしい。


「描かせて、殺す。それが俺たちの仕事だ」


冷たく言い放つロドリックに、マイクは呆然としたようだった。


「何だよ、その顔」

「だって、俺・・・こんな仕事だなんて思ってなかった」


(・・・・・・やっぱり)

きっと「儲かる仕事」とでも言われて、ついてきただけだろう。

でも、この様子だと、ロドリックはマイクも使い捨てにするつもりだ。


「今さら何言ってんだよ。儲け話なんて、そうそう転がっているわけねぇだろ」


「・・・・・・なあ、本当にこの子を殺すのか?」

「当たり前だ」


マイクは黙ったまま、動かない。


ーーマイクとロドリック。

体格差でいえば、マイクが圧倒的に有利だ。


しばらくそのまま睨み合いが続いたが、不意にロドリックがにやりと笑った。


「お前、この子のことが気に入っているんだな」


「い、いや、そんなことは・・・」

「わかったよ。こいつがちゃんと描けば、殺さないでいてやるよ」


(・・・・・・絶対に違うわよ)

そう言いたいのに、体が言うことをきかない。

口を開くことすらできなかった。


「それならいいだろう?」


猫なで声のロドリックに、マイクは返事をしない。

きっと彼も、ロドリックにその気がないことくらい、わかっているのだろう。


だが、沈黙を肯定と受け取ったのか、ロドリックは私を指さした。


「じゃぁな。そいつに描かせとけ」


足音が遠ざかり、無情にも扉が閉まる音がした。

その音と同時に、意識が途切れた。



お読みいただきありがとうございました。

18世紀の入浴事情については諸説ありますが、当時は今ほど気軽に湯に浸かる習慣はなかったとされています。地域や身分によって差はあるものの、庶民の多くは体を拭くなどして清潔を保っていたと言われています。


また、補足ですが、一階の空き瓶→酒は飲める→なのに樽は使われていない=飲めない→つまり酢、というのがアリスの思考です。

あとから「いやこれ、もっと早く気づけたよね!?」とセルフツッコミしていました(笑)


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