38 ルークの後悔
「・・・・・・アリスちゃん、どこにいるんだよ」
頭を抱えながら、思わず呟いた。
アリスちゃんがいなくなってから、もう三日。
だが、彼女はどこにもいない。
『ルーク様なんて、大嫌いです』
あの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
胸が抉られ、何も言えなかった。
すぐ追いかければよかったのに。
自分でも驚くほど心が固まり、足が動かなかったのだ。
『早くアリス様を、追いかけたほうがいいと思いますよ』
不意に声がして振り向くと、いつから見ていたのか、エレノアが眉を顰めて立っていた。
『時間が経つほど、拗れていきますからね』
妙に説得力のある声だった。
その言葉に背中を押されるように、慌てて彼女を追いかけた。
だが、彼女はどこにもいなかった。
通りを探し回り、橋まで来たが、彼女の姿は影も形もなかった。
雨が降り出しそうだし、もしかしたら馬車で帰ったのかもしれない。
そう思って諦めてかけ、引き返そうとしたーーその時だった。
『あ、あんた!あんた、アリスを追って来た偉い人だよな!?』
振り返ると、橋のたもとから誰かが走り寄ってくる。
目を凝らして、ようやくそれが音楽家のリアムだと気づいた。
俺を相手に余裕の態度で交渉を吹っかけてきたときとは違い、顔は青ざめている。
『アリスが攫われたんだよ!』
『・・・・・・・は?』
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
リアムは、ここで演奏していたらしい。
アリスちゃんの姿を見つけ、手を振ろうとしたその瞬間、馬車の扉が開き、中から伸びた手が彼女を引きずり込んだ。
『あっという間だったんだよ!ほんの一瞬で・・・!』
リアムは、悔しそうに拳を握った。
俺はすぐに警官へ知らせ、周辺の通りを封鎖させた。
現場に戻り、馬車が止まっていた位置を確認する。
石畳に残る車輪の跡から轍の方向を見極め、進路を絞ろうとした。
周辺の店や近くにいた人間にも声をかけ、馬車の色、紋章の有無、進んだ方向を確認していく。
だが、雨が降り出していた。
そのせいで痕跡は流され、リアム以外に有力な情報は得られなかった。
ーー何ひとつ手がかりは掴めなかった。
残ったものは、最初の証言だけだった。
「・・・なんで、あの時」
思わず歯を食いしばった。
「なんで、すぐに引き止めなかった」
せめて馬車に乗せて、家まで送るべきだった。
そうすれば、こんなことにならなかったのに。
何度自分を責めても遅い。
それでも、どれだけ後悔しても彼女は戻ってこない。
(・・・・・・俺が馬鹿だった)
アリスちゃんの見合い話を聞いた時、面白くないと思う自分に気づいた。
その時にはもう、たぶん彼女に恋をしていたのだ。
気を引きたくて、余計なことばかり言った。
少しでも振り向かせたくて夜会に連れ出し、その結果、危険な目に遭わせた。
ジュリアンと出掛けると聞けば嫉妬に駆られ、いてもたってもいられずノースヘイブンまで行ってしまった。
事件に巻き込まれた彼女は、自分の身も顧みず、鞄を奪い返そうとしていた。
二人の仲のいい姿を見て苛立ち、つい口を挟んだ。
助けた優位性もあり、また口が滑った。
『ジュリアンは、やめておいたほうがいいよ』
あんなことを言うべきではなかった。
明らかに、彼女は傷ついていた。
(・・・情けないよな)
忠告のふりをして、ジュリアンとの結婚を邪魔しようとしていた。
相手を貶めて、自分を見てもらおうなんてーーそんなの、ただの卑怯者だ。
まさか自分が、こんなに卑劣な人間だったなんて思いもしなかった。
傷ついたアリスちゃんに、どう謝ればいいかわからなかった。
真剣に頭を下げて拒絶されるのが怖くて、それすらできなかった。
結局いつもの軽い態度で誤魔化しただけで、別れ際まで彼女の表情は固いままだった。
ーーだから、彼女の絵を買った。
少しでも、許してほしくて。
彼女が喜ぶものといえば、それしか思いつかなかったからだ。
でも、それがかえって彼女を傷つけることになるなんて、思いもしなかった。
涙をためた彼女の前で、俺はただ立ち尽くしていた。
どうすればよかったのか、今でもわからない。
あの時、本当のことを言えばよかった。
アリスちゃんが好きで、ジュリアンに嫉妬していたと。
振り向かせたくて絵を買ったのだと、正直に言えばよかった。
(・・・・・・謝りたい)
いや、許されなくてもいい。
ただ、彼女が無事に帰ってきてくれれば、それだけでもういい。
彼女を探すために、持てるだけの権力はすべて使った。
警官を動員し、怪しげな人物は片っ端から職務質問させる。
王都中の廃屋、使われていない教会、倉庫ーーありとあらゆる場所を調べさせた。
だが、彼女はどこにもいなかった。
(・・・どこかにはいる。必ず、どこかには)
リアムは言っていた。
アリスちゃんを攫った馬車は、迷いなく彼女の元へ向かっていたと。
つまり、最初から明確に彼女を狙った犯行だ。
当初は、身代金目的かとも考えた。
だが、犯人からの接触はない。
残る線は、人身売買。
ただ、ここ数年、この町で若い女性の行方不明事件は起きていない。
それでもアリスちゃんの目を引く容姿を考えれば、可能性はある。
だが、もし組織的な犯行だとすればーー解決の糸口はあまりにも細い。
もう一度、頭を抱えた。
その時、ふっと扉が軋んだ。
「ルーク、大丈夫か」
顔を上げると、気遣うように眉を顰めたアーサーが、すぐそばに立っていた。
「・・・・・・ああ、アーサーか」
「寝ていないんだろう?少し休め」
「休めるわけないだろう。こうしている間も、彼女が酷い目に遭っているかもしれないのに」
ブラックウッド家の面々も、きっと一睡もしていないだろう。
彼らの憔悴しきった顔。
大金がかかるというのに、新聞に尋ね人の広告を出し、必死に行方を追っている。
「何か、手がかりはみつかったか?」
「ない」
首を振る。
捜索の指揮を執りながら、アリスちゃんと関係の深いブラックウッド家の情報を集めた。
並行して、彼女の足取りを追うため、立ち寄り先や知人のもとへ部下を走らせ、徹底的に聞き込みを行わせた。
だが、何も出てこない。
「正直、一番考えられるのは、事件に巻き込まれたってことだな。・・・だが、恨みも考えられる」
「善良の塊みたいなブラックウッド家に、引きこもりのアリスちゃんだからね」
「・・・まあ、それもそうか」
調べはした。
だが、ブラックウッド家に恨みを持つ者など皆無だった。
そして、アリスちゃんの交友関係は驚くほど狭かった。
「最近、彼女の周りで変わったことはなかったのか?」
「キャベンディッシュ家のジュリアンと付き合い始めたことくらいだな」
その名を口にした瞬間、胸が痛んだ。
「彼に話は聞いたのか?」
「ああ。キャベンディッシュ家に行って事情を聞いたが、攫われる原因になるような心当たりは何もないそうだ」
最初は体調不良を理由に、執事に取り次ぎを渋られた。
だが「アリスちゃんの件だ」と粘ると、ジュリアンは慌てたように玄関へ出てきた。
明らかに体調は悪そうだった。
それでも出てきたのは、やはり彼女のことを愛しているのだろう。
アリスちゃんが行方不明になったと聞き、真っ青になっていた。
体調が悪いにも関わらず、それでも捜しに出ようとして、執事に止められていた。
アーサーは顎に手を当て、考え込んでいる。
その横顔には、ここ数日の捜索で蓄積した疲労が滲んでいた。
「そうなると、やはり考えられるのは、事件に巻き込まれたということか」
「ああ」
「・・・いつから狙われていたんだろうな」
もしずっと狙っていたのだとしたら、彼女が一人になる瞬間はいくらでもあったはずだ。
アリスちゃんは貴族令嬢の割に、よく一人で出歩いていた。
エレノアと二人きりで散歩していたことだってある。
攫おうと思うなら、いつでもできただだろう。
「目をつけられたとしたら、やっぱりトマス画廊だよな」
「・・・え?」
「画廊にいた客が、訪れたアリス嬢のあとをつけて誘拐した、とか」
「確かに」
そこで初めて、自分でも驚くほど頭が回っていなかったことに気づいた。
部下に任せるのではなく、自分で聞きに行くべきだったのだ。
「・・・・・・話を聞きに行ってくる」
忸怩たる思いで立ち上がると、アーサーは静かに頷いた。
「私も行こう」
「手がかりは、ないかもしれないけどね」
「それでもいい。何度でも確認しよう」
アーサーは励ますように肩に手を置いた。
その温もりが、妙に胸に染みた。
部屋の扉を開けると、着飾ったエレノアが立っていた。
「どこかへ出かけるのか?」
「ええ。アメリア様のお茶会に行きますの」
「アリスちゃんの行方がわからない時に?」
思わず眉を顰める。
しかしエレノアは、まるで戦いに挑むような目をしてこちらを見返してきた。
「アリス様と関係の合った方たちの噂話を集めてまいりますわ」
「エレノア・・・」
「女性の情報収集能力は、侮れませんからね」
口元にかすかな笑みを浮かべたまま、静かに言い放った。
その堂々とした様子に、思わず息をのむ。
「・・・ああ、頼むよ」
「それよりお兄様。知る限りで、アリス様に興味を持っていた方はいらっしゃいませんの?」
ジュリアンの態度からいって、彼が誘拐に関わっているとは考えにくい。
リアムも彼女に関心を示していたが、今回の件を最初に報告してきたのは彼自身だ。
アリスちゃんと口論になりかけたガレットは死に、フィリップは収監されている。
「・・・・・・グリムショー子爵」
グリムショー子爵は、アリスちゃんに関心を抱いていた。
ただ、あの夜会以来接点はないはずだ。
「そうですか。あの方、あまり評判が良くありませんよね。念のため確認してきますわ」
「ああ、頼む」
「お兄様も情けない顔などしないで、しっかりしてくださいよ」
バシッ、と背中を叩かれる。
「痛っ・・・」
痛がる俺のことなど振り返りもせず、エレノアは靴音を響かせ、そのまま出て行った。
「かっこいいな」
アーサーは、その背中を眩しそうに目を細めて見つめている。
儚げに見えていた妹の、その強気な励ましにアーサーは幻滅するかと思った。
だが、どうやら違うらしい。
「さあ、俺たちも行こう」
「ああ」
俺を振り返ったアーサーは、エレノアと同じように背中を叩いた。
ただし、こちらは幾分優しかった。
◇◇◇
俺たちを乗せた馬車は、ほどなくしてトマス画廊の前に止まった。
店に入ると、奥のギャラリーに数人の客がいるだけで、ひどく静まり返っている。
トマスは沈んだ様子で、店の片隅で帳簿を広げていた。
「悪い。邪魔していいか?」
「これは・・・ルーク様。アーサー様まで」
俺たちがすぐ近くに来るまで気づかなかったのだろう。
トマスは慌てて帳簿を閉じて立ち上がり、すがるような目でこちらを見た。
「アリスは、見つかったのでしょうか?」
その願うような声が、胸に刺さる。
誰もがこれほど心配しているのに、手がかりはひとつもない。
無言で首を振ると、トマスは途端に視線を落とした。
「いなくなった日のことを、もう一度詳しく聞かせてくれ」
「・・・ここではなんですから、どうぞ応接室へ」
沈痛な面持ちで、奥の小さな応接スペースへと案内される。
トマスはソファに腰を下ろすと、震えを押さえ込むように両手を強く握りしめた。
「あの日、アリスは開店直後の時間に来たんですよ」
「絵の納品に来たんだろう?」
トマスは、わずかに俺を見上げた。
その視線には、はっきりとした不審が滲んでいる。
「・・・ルーク様は、アリスが画家ということをご存じだったのですね」
「ああ、そうだ」
「だから『エリス』の絵を買ったのですか?」
向けられる視線は、明らかに責めるものだった。
胸の奥が、重く沈む。
「ルークは、アリス嬢の友人だ。彼女から聞いていた」
「・・・そうでしたか。疑ってしまい、申し訳ありません」
小さく頭を下げるトマスの声音には、なお警戒が残っていた。
「無礼な者も多いものですから」
パトロンを名乗り、不当な要求を突きつける者もいるーーそういうことなのだろう。
彼女が自分の正体を伏せていた理由が、今さらながら理解できた。
『絵を買ってくれるお客様だと思えば、強いことは言えませんよ』
あのときのアリスちゃんの言葉が、胸に突き刺さる。
きっと彼女は、俺が金にものを言わせて、自由を奪おうとしているように見えたのだ。
トマスは、ゆっくりと口を開いた。
「注文主から、納品の時間を指定されていたんです。あの日の正午に届けてほしいと」
アリスちゃんが、必死にアーサーにモデルをと頼み込んで描いた絵だ。
どんな絵に仕上がったのだろう。
自分の絵に対する情熱を熱く語った彼女の姿が目に浮かび、胸が痛くなる。
「だから、開店と同時に持ってきてほしいと、アリスにお願いしていました」
「なるほど」
「ただ、アリスは少し遅れてきました」
「遅れてきた?」
そのわずかな遅れに、意味はあるのだろうか。
後から確認しなければならない。
「ええ。でも、ちょうどよかったんです。その日は客が多くて、私も対応に追われていましたから」
開店直後に客が多いーー思わず首を傾げる。
「画廊で、そんなことがあるのか?」
「はい。奥のギャラリーで、若手画家の展示をしていたんです」
だが、その割には今日はひどく静かだ。
俺の疑問を察したのか、トマスは付け加える。
「貴族の奥方様が、お友達を連れて見に来られていたんですよ」
「そういうことは、よくあるのか?」
「ええ、ありますよ。絵をご覧になって、そのあと食事に行かれることも多いです」
優雅なマダムの社交、というわけか。
「その日、何か変わったことはなかったか?」
望みが薄いのは承知の上で尋ねる。
だが、トマスはすぐには答えなかった。
何かを思い出すように、わずかな視線を落とす。
「・・・関係ないかもしれませんが、その日、妙な男が来ていました」
「妙な男?」
「ええ。絵を見ずに、アリスばかり見つめていたんですよ」
「なんだって!?」
思わず立ち上がる。
俺の剣幕に驚いたのか、トマスは慌てて言葉を継いだ。
「い、いや、そういうのは珍しくないんです。本人は気づいていませんが、あの通り、アリスは目を引きますからね」
ちらりと向けられた視線に、言外の意味を感じて気まずくなる。
「だが、彼は違ったと?」
「ええ。最初から、入口ばかり気にしていたんです。絵にはほとんど目もくれず・・・誰かを待っているような様子で」
「待っていた・・・」
胸の奥で、何かが引っかかる。
「だからでしょうか。妙な違和感があったんです」
「その男の特徴は?」
「大柄な男でした。他には・・・帽子を被っていて、顔までは」
トマスは眉を顰め、記憶を辿ろうとしているが、何も思い出せないようだ。
「構わない。後で部下を寄越す。思い出せることは、すべて教えてくれ」
「ええ。ですが、それ以上は本当に・・・」
トマスは困ったように眉を寄せた。
不審な人物だと思ったところで、細部まで覚えていることは稀だ。
人の記憶は、それほど確かなものではない。
「その視線に気づいて、すぐにアリスをこの応接室に通したので、詳しく見ていないんですよ」
鈍いアリスちゃんは、自分に向けられた視線の意味など気づいていなかったに違いない。
彼女は、どこか無防備だ。
「あとは絵を見せてもらって、契約したらすぐに帰りましたよ」
「その時、その男はまだ店にいたのか?」
「・・・いえ。多分もういなかったと思います」
関係あるかはわからない。
だが、その男は、今のところ唯一の手掛かりだ。
絵の得意な部下を呼び、似顔絵を作らせるしかない。
「ギャラリーに来ていた客の名前はわかるか?」
「名前の記入は任意ですので・・・芳名帳に名前のない方も多いのです」
「そうか。構わない、見せてくれ」
立ち上がりかけて、ふと思いとどまる。
「・・・絵の出来栄えは、どうだった?」
トマスは、少しだけ表情を和らげた。
「とてもいい出来でした。間違いなく、傑作です」
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
アリスちゃんが心血を注いで描いた一枚だ。
評価されたことが、何よりも嬉しかった。
「注文主の方も、感動されてその場で即決でした」
「そうか。・・・その注文した者の名前は?」
「メアリー様です。サマセット伯爵家のご婦人で」
思わぬ名前に、思考が止まる。
ーージュリアンの叔母。
アリスちゃんがルーベンスの絵を見せてもらうと言っていた相手だ。
「メアリー様は絵にお詳しくて、うちのお得意様でもあるんです」
そんな人物が感動したというのなら、どれほどの絵だったのか。
アリスちゃんが聞いたら、どんなに喜ぶことだろう。
彼女に伝えたくてたまらなかった。
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