35 偽り
(・・・・・・ここ、どこ?)
まぶたを開けようとするが、頭がぼんやりとしてうまく力が入らない。
必死に目をこじ開けると、冷えきった石の床が視界に飛び込んできた。
どうやら貯蔵庫らしい。
並ぶワイン樽、無造作に積まれたにチーズや小麦袋、吊るされた塩漬け肉がある。
鼻につく発酵と塩の匂いが、ここが地下であることを物語っている。
起き上がろうとして、両手が後ろで固く縛られていることに気づく。
さらに口には、布が押し込まれ、猿ぐつわまでされていた。
息が詰まりそうになるのをこらえながら、必死に体をよじる。
石床の冷たさに肌を擦りつけ、無様に転がるようにして、どうにか上体を起こした。
(・・・・・・・・・どういうこと?)
突然襲われ、馬車に引きずり込まれるなんて、原因がまったくわからない。
無差別に攫ったとは思えない。
あの手際の良さは、明らかに私を狙っていた。
けれど、うちは貴族といえ、それほど裕福ではない。
むしろ身代金目当てなら、もっと上ーーたとえば公爵家の令嬢、エレノア様を狙うはずだ。
(・・・・・・まさか、エレノア様と間違えた?)
胸がひやりと冷える。
確かに私は、エレノア様とよく連れ立って散歩をしていたし、公爵邸にも出入りしていた。
でも、髪の色も違うのに、間違うことなんてあるのだろうか。
(・・・いいえ。それよりも、これからどうすればいいの)
あまりにも一瞬の出来事だった。
人目に触れる暇もなく馬車に押し込まれたのだ。
目撃者がいるとは思えない。
助けが来る可能性は、ほとんどない。
ならば、自分で逃げるしかない。
必死に思考を巡らせていると、コツ、コツ、と石の床を打つ足音が、ゆっくり近づいてきた。
思わず身構え、扉を凝視する。
重たい扉が、ぎぃ・・・と軋んだ。
開いた隙間から差し込む光の中に、二つの影が立つ。
ひとりは、日焼けした大柄な男。
その隣には、小柄な中年男が控えていた。
中年男は袖を捲り上げていたが、露わになった腕は意外にも太く、よく鍛えられているのが見て取れた。
(・・・・・・・・・あの大柄な男、見たことがあるわ)
記憶がかすかに引っかかる。
ジュリアン様と食事をした店にいた男だ。
たしか会計のとき「5ベル紙幣が使えない」と騒いでいた。
大柄な男はゆっくりと私の前にしゃがみこむと、低く囁いた。
「今から猿ぐつわを外す。・・・だが、叫ぶなよ」
叫ばれて困るということは、近くに人がいるのだろうか。
男の顔は、どこか人が良さそうな穏やかさを帯びている。
けれどその手には、無造作にナイフが握られていた。
「叫んだら、この場で殺す」
脅しだとしても、試す気にはならない。
仕方なく、男に向かって頷いてみせる。
それを確認すると、男はゆっくり猿ぐつわを外す。
「体は大丈夫か?」
「・・・・・・・・ええ」
自分で縛り、口を塞いでおきながら妙なことを言う。
けれど、その声音にはわずかな気遣いが滲んでいた。
(・・・この男には、まだ人の心は残っているのかもね)
一方で、隣に立つ中年男は腕を組んだまま、ただ黙ってこちらを見下ろしている。
その感情の伴わない目に、ぞくりと背筋が冷える。
「・・・・・・・・・・ここは、どこですか?」
問いかけると、中年男はふっと口の端を上げた。
「あんた、なかなか気が強いみたいだな。・・・まあ、泣き喚かれるよりはマシだが」
そう言ってゆっくりと近づいてくる。
感心したように私の顔を覗き込まれた拍子に酒臭い息がかかり、思わず顔を背けた。
「・・・・・・私を攫った目的は、何ですか?」
「簡単な話だ。絵を描いてほしいんだよ」
頭が一瞬真っ白になる。
あまりにも場違いな言葉に、思わず眉を顰めた。
「・・・・・・絵を?」
「そう。アポロンを描けばいい。それだけだ」
中年男は、舌なめずりするように笑う。
「あんた、絵が上手いんだろ?」
(・・・・・・・・・どういうこと?)
アポロンの絵なら、この前たしかに描いた。
頼まれれば、もう一度描くこともできる。
けれど、それだけのために、人を攫うものだろうか。
「これと同じように描いてくれればいい」
「・・・・・・『これ』とは?」
男は懐から一枚の紙を取り出し、ひらひらと私の目の前にかざした。
それ見た瞬間、息が詰まる。
精巧に描かれたアポロンの肖像。
端正な顔立ちに、額には月桂冠。
左手には竪琴を持ち、右手は胸元に添えられている。
周囲を囲む装飾は、月桂樹とオリーブ。
上部には古典的な書体で発行名、下部には、手書きの署名欄と番号。
ーー細密で、複雑な図案。
「・・・・・・10ベル紙幣」
「ああ。あんたなら簡単だろう?」
中年男は、面白がるように目を細めた。
(・・・・・・・偽札作りに協力しろってこと!?)
まさかこれと同じように描かせて、印刷するつもりなのだろうか。
喉が、からからに乾いていく。
「私には無理です。そんな技術はありません」
「無理なはずはない」
「できません。あなたが思っているより、似せて描くというのは難しいんです」
本物に似せるだけでは足りない。
紙質、線の揺れ、筆致ーーすべてを再現しなければならない。
「そこを上手くやるのが、あんたの仕事だ」
「できないものは、できません」
きっぱり告げると、中年男の口元がわずかに歪んだ。
「こっちは、あんたの腕を知ってるんだよ」
ぞくり、と背筋が冷える。
私が絵を描くと知っている人間は、そう多くない。
身内であるブラックウッド家と画廊のトマスさん。
ルーク様とエレノア様、アーサー様・・・。
「・・・フィリップさんとリアムさん」
思わず口に出していた。
この中の誰かが、私のことをこの男たちに話したということだろうか。
「どうした?」
中年男が、愉快そうに覗き込んでくる。
その目は、明らかに人の心をかき乱すことを楽しんでいた。
「誰が教えたのか、考えてるのか?」
情報を漏らした人物が、恐らく黒幕なのだろう。
けれど、誰なのかまったく見当がつかない。
男はくつくつと喉の奥で笑った。
「可哀想にな。・・・恨むなら、あんたを紹介した『貴族様』を恨むんだな」
(・・・・・・貴族様?)
胸が強く脈打つ。
男はそれ以上何も言わず、顎で部屋の隅を示した。
「道具はそこだ。明日の朝までに仕上げろ」
(・・・・・・できるわけないじゃない)
あり得ない。
文字の配置や装飾を研究するだけでも、数日はかかる。
精密な模写なら、最低でも一週間は必要だ。
「・・・無理です」
「あんたの都合は聞いていない。マイク、こいつに描かせておけ」
それだけ言うと、中年男は踵を返し、さっさと扉へ向かった。
マイクと呼ばれた大柄な男も、その後を追おうとする。
「待って!」
「・・・あ?なんだ?」
思わず呼び止めると、男は不思議そうに振り返った。
どこか間の抜けた調子に、拍子抜けする。
「縄をほどいてくれないと、描けません」
「ああ、そうか。・・・悪い」
意外にも、素直に謝る。
マイクはしゃがみこみ、手際よく縄をほどいていく。
締めつけられていた手首に、じんと血が戻る感覚が広がった。
「よし、これでいいな」
縄を外し終えると、彼はゆっくりと立ち上がる。
「ちゃんと描いておけよ。ロドリックは・・・あれで怖いからな」
(・・・・・・ロドリック)
あの中年男の名前だろうか。
声音には、わずかな警戒が混じっていた。
(・・・利用するなら、この人ね)
マイクには田舎の人特有の、どこか素朴な空気がある。
少なくとも、完全に悪人というわけでもなさそうだ。
そう思い、何か言葉をかけようとしたが、彼はさっさと扉の向こうへ消えてしまった。
マイクの足音が完全に遠ざかったのを確認してから、私はゆっくりと息を吐いた。
(・・・さて、困ったわね)
嘆くのは、後でもできる。
とりあえず、今できることをしなければならない。
ため息をつきながら、部屋の中を見回す。
薄暗い空間。
燭台と蝋燭は用意されているが、肝心の火はない。
地窓から差し込む月明かりだけが、かろうじて室内を照らしていた。
「よくこれで、精密な偽札を描けって言えたわね」
呆れてしまい、思わず心の声が漏れる。
けれど、道具は揃っている。
壁際の棚には、未使用の紙や銅板、インクの瓶、筆。
さらにはイーゼルまで用意されていた。
そして、部屋の隅には簡素なベッド。
貯蔵庫を仕切り、最低限の生活空間に作り替えたのだろう。
(・・・・・・でも、トイレはないわね)
女性を長く閉じこめるつもりなら、ありえない欠陥だ。
風呂はともかく、こればかりは避けられない。
(・・・つまり、頻繁に出入りする必要はあるわよね)
そこに、隙が生まれる。
ゆっくりと視線を落とすと、黒い石の表面にかすかな光が滲んでいる。
(・・・・・・みんな、心配してるわよね)
期待通りの評価が得られなくて、落ち込んで帰ってこないーーそんなふうに思われているかもしれない。
義父も義母も、物音がするたびに玄関へ向かっているに違いない。
今ごろ義兄は、トマス画廊や知り合いの家を回って、私を捜しているはずだ。
心配性で優しい義家族の顔が浮かび、胸が締めつけられてくる。
(・・・早く帰らないと)
あんな連中に協力するなど、もってのほかだ。
偽造に手を貸せば、発覚した時点で極刑は免れない。
いや、その前に確実に殺される。
用が済めば口封じ。
だからこそ、ロドリックはあっさり顔を見せたのだ。
ーー逃げるしかない。
けれど、見張りは確実にいる。
武芸の心得もない私が、屈強な男を倒して逃げるなど不可能に近い。
ならば、見つからずに逃げるしかない。
視線を巡らせれば、壁の上部に通気用の地窓があった。
外の地面はかろうじて覗けるが、鉄格子がはめ込まれている。
(・・・あそこからは無理ね)
となれば、やはり出入り口から。
上の様子を探っておかなければならない。
そっと扉に近づき、ドアノブに手をかけるが、当然ながら開かなかった。
軽く息を吐き、今度は指で扉を叩いた。
ーーコンコン。
「どうした?」
間を置かず、外から声がする。
(・・・・・・反応が早い)
すぐに扉が開き、マイクが顔を出した。
鍵をかけた上に、見張りまでつけている。
あのロドリックという男は、見た目以上に用心深いらしい。
「すみません。お手洗いにいきたくて」
「ああ、そうか。ついて来いよ」
マイクは気にした様子もなく前に立ち、そのまま階段を上っていく。
私が反撃するなど、夢にも思っていないのだろう。
(まあ、この体格差では無理だけれど)
太い首、分厚い腕。
どう見ても力では敵わない。
一階に出た瞬間、思わず目を細めた。
(・・・・・・まるで貴族の邸宅みたい)
規模はそれほど大きくないが、廊下には上品な調度品が並んでいる。
裕福な貴族が持つ、郊外の別荘といった風情だ。
ただし、どこか荒れている。
掃除が行き届いていないのか、家具には薄く埃が積もっていた。
あの男たちが勝手に入り込み、使っているだけなのかもしれない。
平静を装いながら、視線だけ周囲をなぞる。
玄関、裏口、廊下の曲がり角。
忘れないよう、位置を頭に刻み込む。
ふと、開け放たれた扉の奥が目に入った。
そこには先ほどの中年男ーーロドリックがソファにふんぞり返っている。
足元には酒瓶が転がり、部屋は乱雑に散らかっていた。
「ほら、ここだ」
「ありがとう」
わずかな期待を込めて、中を見回す。
だが、窓はなかった。
逃げ道にはなりそうもない。
耳を澄ませても、外の気配は感じられなかった。
馬車の音も、人の話し声もない。
(・・・ここで叫んでも、誰にも届かないわね)
小さく息を吐き、扉を開ける。
廊下には、マイクが腕を組んで待っていた。
思わず唇を噛む。
油断してくれる相手ではないらしい。
「じゃあ、戻るぞ」
「・・・わかったわ」
マイクに連れられ、再び階段を降りる。
階段は私の閉じ込められている部屋の前を通り、さらに下へと続いていた。
(・・・地下はもう一層あるの?)
普通に考えれば、この下にあるのは倉庫か石炭庫だろう。
だが、もしかすると、地上よりも、そちらの方が人目は少ないのではないだろうか。
可能性が、わずかに胸をよぎる。
けれど、まずはこの部屋から出なければ話にならない。
「朝までに描いておけよ」
部屋に入るのを一瞬ためらうと、どんっと、背中を押される。
よろめきながら部屋に入った瞬間、カチリと鍵穴が回り、扉に鍵が掛けられたことがわかった。
まさしく万事休すである。
(・・・・・・・鉄格子をどうにかして壊せないかしら)
こうなれば、あの地窓から出るのが一番現実的かもしれない。
近づいて、そっと指で触れる。
冷たい鉄。
思っていたより細いーー気がする。
小柄な私なら、もし一本でも外せれば通れるかもしれない。
わずかな希望に胸が動く。
けれどその瞬間、強い眠気が不意に押し寄せてきた。
(・・・・・・・だめだ)
頭が、もう考えることを拒んでいる。
今日一日で起きたことが多すぎた。
思考が悲鳴を上げている。
よろよろと壁に手をつきながら、ベッドへ向かう。
部屋の隅に置かれたベッドは、うっすらと埃を被っていた。
それでも、冷たい石床よりはずっとマシだ。
一応毛布だけは、新しいものを用意してくれたらしい。
(・・・せめてもの配慮、ということかしら)
皮肉を思う余裕もなく、毛布に身をくるむ。
そのまま、意識はゆっくりと沈んでいった。
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