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恋を描けない伯爵令嬢 ーその絵は嘘をつかない  作者: 夏つばき


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35/51

35 偽り


(・・・・・・ここ、どこ?)


まぶたを開けようとするが、頭がぼんやりとしてうまく力が入らない。


必死に目をこじ開けると、冷えきった石の床が視界に飛び込んできた。

どうやら貯蔵庫らしい。

並ぶワイン樽、無造作に積まれたにチーズや小麦袋、吊るされた塩漬け肉がある。

鼻につく発酵と塩の匂いが、ここが地下であることを物語っている。


起き上がろうとして、両手が後ろで固く縛られていることに気づく。

さらに口には、布が押し込まれ、猿ぐつわまでされていた。


息が詰まりそうになるのをこらえながら、必死に体をよじる。

石床の冷たさに肌を擦りつけ、無様に転がるようにして、どうにか上体を起こした。


(・・・・・・・・・どういうこと?)

突然襲われ、馬車に引きずり込まれるなんて、原因がまったくわからない。

無差別に攫ったとは思えない。

あの手際の良さは、明らかに私を狙っていた。


けれど、うちは貴族といえ、それほど裕福ではない。

むしろ身代金目当てなら、もっと上ーーたとえば公爵家の令嬢、エレノア様を狙うはずだ。


(・・・・・・まさか、エレノア様と間違えた?)

胸がひやりと冷える。

確かに私は、エレノア様とよく連れ立って散歩をしていたし、公爵邸にも出入りしていた。

でも、髪の色も違うのに、間違うことなんてあるのだろうか。


(・・・いいえ。それよりも、これからどうすればいいの)

あまりにも一瞬の出来事だった。

人目に触れる暇もなく馬車に押し込まれたのだ。

目撃者がいるとは思えない。

助けが来る可能性は、ほとんどない。


ならば、自分で逃げるしかない。

必死に思考を巡らせていると、コツ、コツ、と石の床を打つ足音が、ゆっくり近づいてきた。


思わず身構え、扉を凝視する。


重たい扉が、ぎぃ・・・と軋んだ。


開いた隙間から差し込む光の中に、二つの影が立つ。

ひとりは、日焼けした大柄な男。

その隣には、小柄な中年男が控えていた。 

中年男は袖を捲り上げていたが、露わになった腕は意外にも太く、よく鍛えられているのが見て取れた。


(・・・・・・・・・あの大柄な男、見たことがあるわ)

記憶がかすかに引っかかる。

ジュリアン様と食事をした店にいた男だ。

たしか会計のとき「5ベル紙幣が使えない」と騒いでいた。


大柄な男はゆっくりと私の前にしゃがみこむと、低く囁いた。


「今から猿ぐつわを外す。・・・だが、叫ぶなよ」


叫ばれて困るということは、近くに人がいるのだろうか。

男の顔は、どこか人が良さそうな穏やかさを帯びている。

けれどその手には、無造作にナイフが握られていた。


「叫んだら、この場で殺す」


脅しだとしても、試す気にはならない。

仕方なく、男に向かって頷いてみせる。

それを確認すると、男はゆっくり猿ぐつわを外す。


「体は大丈夫か?」

「・・・・・・・・ええ」


自分で縛り、口を塞いでおきながら妙なことを言う。

けれど、その声音にはわずかな気遣いが滲んでいた。


(・・・この男には、まだ人の心は残っているのかもね)

一方で、隣に立つ中年男は腕を組んだまま、ただ黙ってこちらを見下ろしている。

その感情の伴わない目に、ぞくりと背筋が冷える。


「・・・・・・・・・・ここは、どこですか?」


問いかけると、中年男はふっと口の端を上げた。


「あんた、なかなか気が強いみたいだな。・・・まあ、泣き喚かれるよりはマシだが」


そう言ってゆっくりと近づいてくる。

感心したように私の顔を覗き込まれた拍子に酒臭い息がかかり、思わず顔を背けた。


「・・・・・・私を攫った目的は、何ですか?」

「簡単な話だ。絵を描いてほしいんだよ」


頭が一瞬真っ白になる。

あまりにも場違いな言葉に、思わず眉を顰めた。


「・・・・・・絵を?」

「そう。アポロンを描けばいい。それだけだ」


中年男は、舌なめずりするように笑う。


「あんた、絵が上手いんだろ?」


(・・・・・・・・・どういうこと?)

アポロンの絵なら、この前たしかに描いた。

頼まれれば、もう一度描くこともできる。

けれど、それだけのために、人を攫うものだろうか。


「これと同じように描いてくれればいい」

「・・・・・・『これ』とは?」


男は懐から一枚の紙を取り出し、ひらひらと私の目の前にかざした。

それ見た瞬間、息が詰まる。


精巧に描かれたアポロンの肖像。

端正な顔立ちに、額には月桂冠。

左手には竪琴を持ち、右手は胸元に添えられている。

周囲を囲む装飾は、月桂樹とオリーブ。

上部には古典的な書体で発行名、下部には、手書きの署名欄と番号。


ーー細密で、複雑な図案。


「・・・・・・10ベル紙幣」

「ああ。あんたなら簡単だろう?」


中年男は、面白がるように目を細めた。


(・・・・・・・偽札作りに協力しろってこと!?)

まさかこれと同じように描かせて、印刷するつもりなのだろうか。

喉が、からからに乾いていく。


「私には無理です。そんな技術はありません」

「無理なはずはない」

「できません。あなたが思っているより、似せて描くというのは難しいんです」


本物に似せるだけでは足りない。

紙質、線の揺れ、筆致ーーすべてを再現しなければならない。


「そこを上手くやるのが、あんたの仕事だ」

「できないものは、できません」


きっぱり告げると、中年男の口元がわずかに歪んだ。


「こっちは、あんたの腕を知ってるんだよ」


ぞくり、と背筋が冷える。

私が絵を描くと知っている人間は、そう多くない。


身内であるブラックウッド家と画廊のトマスさん。

ルーク様とエレノア様、アーサー様・・・。


「・・・フィリップさんとリアムさん」


思わず口に出していた。

この中の誰かが、私のことをこの男たちに話したということだろうか。


「どうした?」


中年男が、愉快そうに覗き込んでくる。

その目は、明らかに人の心をかき乱すことを楽しんでいた。


「誰が教えたのか、考えてるのか?」


情報を漏らした人物が、恐らく黒幕なのだろう。

けれど、誰なのかまったく見当がつかない。


男はくつくつと喉の奥で笑った。


「可哀想にな。・・・恨むなら、あんたを紹介した『貴族様』を恨むんだな」


(・・・・・・貴族様?)

胸が強く脈打つ。

男はそれ以上何も言わず、顎で部屋の隅を示した。


「道具はそこだ。明日の朝までに仕上げろ」


(・・・・・・できるわけないじゃない)

あり得ない。

文字の配置や装飾を研究するだけでも、数日はかかる。

精密な模写なら、最低でも一週間は必要だ。


「・・・無理です」

「あんたの都合は聞いていない。マイク、こいつに描かせておけ」


それだけ言うと、中年男は踵を返し、さっさと扉へ向かった。

マイクと呼ばれた大柄な男も、その後を追おうとする。


「待って!」

「・・・あ?なんだ?」


思わず呼び止めると、男は不思議そうに振り返った。

どこか間の抜けた調子に、拍子抜けする。


「縄をほどいてくれないと、描けません」

「ああ、そうか。・・・悪い」


意外にも、素直に謝る。

マイクはしゃがみこみ、手際よく縄をほどいていく。

締めつけられていた手首に、じんと血が戻る感覚が広がった。


「よし、これでいいな」


縄を外し終えると、彼はゆっくりと立ち上がる。


「ちゃんと描いておけよ。ロドリックは・・・あれで怖いからな」


(・・・・・・ロドリック)

あの中年男の名前だろうか。

声音には、わずかな警戒が混じっていた。


(・・・利用するなら、この人ね)

マイクには田舎の人特有の、どこか素朴な空気がある。

少なくとも、完全に悪人というわけでもなさそうだ。

そう思い、何か言葉をかけようとしたが、彼はさっさと扉の向こうへ消えてしまった。


マイクの足音が完全に遠ざかったのを確認してから、私はゆっくりと息を吐いた。


(・・・さて、困ったわね)

嘆くのは、後でもできる。

とりあえず、今できることをしなければならない。


ため息をつきながら、部屋の中を見回す。


薄暗い空間。

燭台と蝋燭は用意されているが、肝心の火はない。

地窓から差し込む月明かりだけが、かろうじて室内を照らしていた。


「よくこれで、精密な偽札を描けって言えたわね」


呆れてしまい、思わず心の声が漏れる。


けれど、道具は揃っている。

壁際の棚には、未使用の紙や銅板、インクの瓶、筆。

さらにはイーゼルまで用意されていた。


そして、部屋の隅には簡素なベッド。

貯蔵庫を仕切り、最低限の生活空間に作り替えたのだろう。


(・・・・・・でも、トイレはないわね)

女性を長く閉じこめるつもりなら、ありえない欠陥だ。

風呂はともかく、こればかりは避けられない。


(・・・つまり、頻繁に出入りする必要はあるわよね)

そこに、隙が生まれる。

ゆっくりと視線を落とすと、黒い石の表面にかすかな光が滲んでいる。


(・・・・・・みんな、心配してるわよね)

期待通りの評価が得られなくて、落ち込んで帰ってこないーーそんなふうに思われているかもしれない。

義父も義母も、物音がするたびに玄関へ向かっているに違いない。

今ごろ義兄は、トマス画廊や知り合いの家を回って、私を捜しているはずだ。


心配性で優しい義家族の顔が浮かび、胸が締めつけられてくる。


(・・・早く帰らないと)

あんな連中に協力するなど、もってのほかだ。

偽造に手を貸せば、発覚した時点で極刑は免れない。


いや、その前に確実に殺される。

用が済めば口封じ。

だからこそ、ロドリックはあっさり顔を見せたのだ。


ーー逃げるしかない。

けれど、見張りは確実にいる。

武芸の心得もない私が、屈強な男を倒して逃げるなど不可能に近い。


ならば、見つからずに逃げるしかない。

視線を巡らせれば、壁の上部に通気用の地窓があった。

外の地面はかろうじて覗けるが、鉄格子がはめ込まれている。


(・・・あそこからは無理ね)

となれば、やはり出入り口から。

上の様子を探っておかなければならない。


そっと扉に近づき、ドアノブに手をかけるが、当然ながら開かなかった。

軽く息を吐き、今度は指で扉を叩いた。


ーーコンコン。


「どうした?」


間を置かず、外から声がする。


(・・・・・・反応が早い)

すぐに扉が開き、マイクが顔を出した。

鍵をかけた上に、見張りまでつけている。

あのロドリックという男は、見た目以上に用心深いらしい。


「すみません。お手洗いにいきたくて」

「ああ、そうか。ついて来いよ」


マイクは気にした様子もなく前に立ち、そのまま階段を上っていく。

私が反撃するなど、夢にも思っていないのだろう。


(まあ、この体格差では無理だけれど)

太い首、分厚い腕。

どう見ても力では敵わない。


一階に出た瞬間、思わず目を細めた。


(・・・・・・まるで貴族の邸宅みたい)

規模はそれほど大きくないが、廊下には上品な調度品が並んでいる。

裕福な貴族が持つ、郊外の別荘といった風情だ。


ただし、どこか荒れている。

掃除が行き届いていないのか、家具には薄く埃が積もっていた。

あの男たちが勝手に入り込み、使っているだけなのかもしれない。


平静を装いながら、視線だけ周囲をなぞる。


玄関、裏口、廊下の曲がり角。

忘れないよう、位置を頭に刻み込む。


ふと、開け放たれた扉の奥が目に入った。

そこには先ほどの中年男ーーロドリックがソファにふんぞり返っている。

足元には酒瓶が転がり、部屋は乱雑に散らかっていた。


「ほら、ここだ」

「ありがとう」


わずかな期待を込めて、中を見回す。


だが、窓はなかった。

逃げ道にはなりそうもない。

耳を澄ませても、外の気配は感じられなかった。

馬車の音も、人の話し声もない。


(・・・ここで叫んでも、誰にも届かないわね)

小さく息を吐き、扉を開ける。

廊下には、マイクが腕を組んで待っていた。


思わず唇を噛む。

油断してくれる相手ではないらしい。


「じゃあ、戻るぞ」

「・・・わかったわ」


マイクに連れられ、再び階段を降りる。

階段は私の閉じ込められている部屋の前を通り、さらに下へと続いていた。


(・・・地下はもう一層あるの?)

普通に考えれば、この下にあるのは倉庫か石炭庫だろう。

だが、もしかすると、地上よりも、そちらの方が人目は少ないのではないだろうか。

可能性が、わずかに胸をよぎる。


けれど、まずはこの部屋から出なければ話にならない。


「朝までに描いておけよ」


部屋に入るのを一瞬ためらうと、どんっと、背中を押される。

よろめきながら部屋に入った瞬間、カチリと鍵穴が回り、扉に鍵が掛けられたことがわかった。

まさしく万事休すである。


(・・・・・・・鉄格子をどうにかして壊せないかしら)

こうなれば、あの地窓から出るのが一番現実的かもしれない。

近づいて、そっと指で触れる。


冷たい鉄。

思っていたより細いーー気がする。

小柄な私なら、もし一本でも外せれば通れるかもしれない。


わずかな希望に胸が動く。

けれどその瞬間、強い眠気が不意に押し寄せてきた。


(・・・・・・・だめだ)

頭が、もう考えることを拒んでいる。

今日一日で起きたことが多すぎた。

思考が悲鳴を上げている。


よろよろと壁に手をつきながら、ベッドへ向かう。


部屋の隅に置かれたベッドは、うっすらと埃を被っていた。

それでも、冷たい石床よりはずっとマシだ。


一応毛布だけは、新しいものを用意してくれたらしい。


(・・・せめてもの配慮、ということかしら)

皮肉を思う余裕もなく、毛布に身をくるむ。

そのまま、意識はゆっくりと沈んでいった。



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