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恋を描けない伯爵令嬢 ーその絵は嘘をつかない  作者: 夏つばき


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34 優しさの代償


ルーク様が絵を買ったと聞いてから、その後のことはほとんど覚えていない。

言葉は確かに耳に入ったはずなのに、意味だけがどこかへ滑り落ちてしまったようだった。


心配そうにこちらを覗き込むトマスさんの視線を感じながら、内心を悟られまいと必死に平静を装った。

だが、自分がどんな顔をしているかさえ、うまく掴めなかった。


今日持ち込んだ絵の契約を、どうやって済ませたのかも曖昧だった。

ペンを持った感触も、言葉を交わした記憶も、どこか他人事のように遠い。


契約を終えると、トマスさんは気遣うようにお茶を勧めてくれたが、それも断った。

喉が乾いているのかどうかさえ、わからなかったからだ。


気づけば私は、まっすぐウィンダム公爵家へと足を向けていた。

どこへ行くべきか考えた覚えはない。

ただ、そうしなければならない気がしただけだ。


さっきまで青かった空は、いつのまにか鈍い灰色に変わっており、このまま家に帰るべきだとは思いながらも、足は止まらなかった。




(・・・・・・・・・ルーク様は在宅かしら)

何度となく訪れた公爵邸を見上げる。

邸そのものが権威を形にしたかのような、豪奢な建物。

今さらのように、その異質さが腑に落ちた。

今まで気づきもしなかったことが、不思議なくらいに。


義兄は確かに、雲の上のような人だと言っていた。

それでも、あまりにも自然に迎え入れられてきたから、ロビンを誘うときと同じように、私は何の疑いもなくここを訪れていた。


けれど、本当は違う。

ふとした縁で足を踏み入れられただけで、本来なら立つことさえ許されない場所だったのだ。


それでも震える手で呼び鈴を鳴らし、執事に取り次ぎを頼む。


「いらっしゃい、アリスちゃん。突然どうしたの?」


玄関に現れたルーク様は、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべていた。

まるで昨日のことなど、最初から存在しなかったかのように。


その変わらなさが、ひどく残酷だった。

笑い返そうとして、うまくできない。

頬が引き攣るだけで、形にならなかった。


胸の奥で、何かが音もなく崩れていく。

信じていたものの輪郭が、一気に曖昧になる。


挨拶をする余裕もなかった。

ただ、こぼれるように問いかける。


「どうして、私の絵を買ってくださったのですか?」

「どうしてって・・・気に入ったからだよ」


ちょっと困ったように笑うルーク様。

そのいつもと変わらない態度が、かえって胸にひっかかった。

この人は、いつもこうやって笑って受け流す。


でも、その奥で、私はどう見られていたのだろう。


「・・・嘘ですよね」


ルーク様は、心外だというように少し眉を上げた。


「なんで、そう思うのさ」

「だって、ルーク様は絵に興味はありませんよね」

「うん。でもアリスちゃんと知り合って、興味を持ったんだよ。それで買った」


(・・・そんなわけないじゃない)

あまりにも、出来すぎている。

子どもでも気づくほど単純な理屈だった。


「昨日、私と喧嘩したからじゃないですか?」


言葉が、思っていたよりも冷たく落ちた。


「私の機嫌を取るために買ったんじゃないですか?」

「違うよ。そんなことないって」


慌てたように否定する声。

その調子に、悪気がないことはわかってしまう。


だからこそ、余計に苦しかった。

きっと絵を買えば、私が喜ぶとでも思ったのだろう。


優しさのつもりで。

何も知らないまま。


胸の奥に沈んだ重さは、少しも軽くならない。

むしろ、静かに広がっていくばかりだった。


「ねぇアリスちゃん、怒ってる?」

「いいえ」


自分でも驚くほど固い声だった。

絵を買ってくれた以上、ルーク様はお客様だ。

もう対等ではない。

そう思った瞬間から、感情を表に出すことは許されなくなった。


「いや、怒ってるよね?」

「怒っていません。買っていただいたのに、失礼なことを言ってしまい、申し訳ありませんでした」


口にするほどに、言葉が他人のもののように遠くなる。


「あ、あのさ」


ルーク様が、わずかに戸惑ったように視線を揺らす。


「もしかして俺が絵を買ったのが、そんなに嫌だった?」


(・・・嫌に決まってるじゃない!)

喉の奥までせり上がった言葉を、必死に押し込める。


以前は、心のどこかで買ってくれないかと願う浅ましい自分がいた。


買ってくれれば。

誰かに紹介してくれれば。

そうすれば、そこから私の絵が世に認められるきっかけになるのではと思ったこともあった。


でも、今は違う。

ルーク様は、友人だと思っていた。

少なくとも私は、そう信じていた。


対等で、遠慮なく言葉を交わせる相手だと、勝手にそう思い込んでいた。


たとえ好意からだったとしても。

金銭のやり取りが生まれた瞬間、それはもう別の関係だ。


顧客だ。


そうなってしまえば、もう今までのようにはいられない。

軽口も、わがままも、許されない。


常に笑顔で。

常に気を配り。

相手の機嫌を損ねないように振る舞う。


ルーク様にそんなつもりがなくても、こちらがそうせざるを得なくなる。


(・・・・・・どうして、絵を買ったのよ)

胸の奥に、じわりと悲しみと失望が広がっていった。

自分がお金で「扱われた」ような気がして、心のどこかが静かに冷えていった。


「・・・・・・パトロンには、逆らえないです」


ぽつりと漏れた自分の声が、やけに重く胸に沈んだ。


「えっ、何て言ったの?」

「いいえ、何でもありません」


グリムショー子爵に逆らえなかったフィリップさん。

あのとき、私は確かに彼と自分を重ねた。

お金に縛られ、自由を奪われる。

同情しながらも、ああはなりたくないと強く思った。


それを、ルーク様はわかっていてくれたのだと思っていた。

ーーだって、あの場にいたのに。

あの場で言葉を交わし、私の背中を押してくれたのだから。


「ねぇ、気分を害したのなら謝るよ」

「そんなことはありません。買っていただいて、ありがとうございました」


「・・・・・・アリスちゃん」

「それでは、失礼します」


踵を返し、公爵邸の玄関を飛び出そうとした瞬間、ぐいっと腕を掴まれた。


「放してください」

「いや、だって・・・」


目の前が滲んでくる。

もう、自分でもどうしていいかわからない。


「部屋で落ち着いて話そう」

「結構です」


情けなくて、惨めで、ここに立っていることすら耐えられなかった。


「ねぇ、誤解だよ」

「放してって、言ってるじゃないですか!」


言葉が鋭くなる。

止めようとしても、止まらない。


「そんなこと言われても・・・」


困ったように私を見るルーク様に、胸の奥がざわつく。


この人は分かっていない。

私が何に傷ついているのかも。

どうしてこんなに苦しいのかも。


きっと、想像すらできない。


友人だと思っていたのに。

身分も何も関係なく、ただ笑い合える相手だと、そう信じていたのに。


「・・・ルーク様なんて、大嫌いです」


思わず口から出たその言葉に、ルーク様の表情がはっきりと崩れた。

初めて見る傷ついたようなその表情に、思わず怯んでしまう。


「・・・・・・・・・ごめん」


かすれた声とともに、掴まれていた腕がゆっくりと離される。

その温もりが消えた瞬間、私は振り返ることもできず、そのまま駆け出した。

どこか遠くへ、逃げ出してしまいたかった。



(嫌い!嫌い!!嫌い!!!)

呪いのように、心の中で繰り返す。


ルーク様なんて嫌い。

あんなにそばにいて、たくさん言葉も交わしたはずなのに。

どうして私の気持ちが、少しも伝わらないのだろう。


確かに、昨日は喧嘩した。

いや、私の一方的な八つ当たりだった。

腹を立てて、意地になって、嫌な態度だって取った。

私が悪い。


それでも、お金で人の気持ちを繋ぎとめようとするなんて、卑怯だ。

そんなことをされたら、私はもう何も言えなくなる。

何を言っても、結局は「買われた側」になってしまう。


「あっ・・・」


足がもつれ、咄嗟に踏みとどまる。


どれだけ走ったのだろう。

息が上がり、視界が揺れる。

その視線の先に、義父が誂えてくれたドレスの裾が見えた。


(・・・・・・破いたら、大変だわ)

その一瞬で、現実に引き戻される。

私のために誂えてくれた、最高級のドレス。

袖を通すたびに、込められた愛情が胸に沁みる。

義父たちの優しさを、こんなところで台無しにしたくない。


ゆっくりと歩みを止め、呼吸を整える。

けれど、吸い込む空気は重く、胸の奥に沈んでいくばかりだった。


(・・・・・・でも、本当に嫌なのは、ルーク様じゃないわ)

自分の感情ひとつうまく扱えない、自分自身だ。


勝手に怒って。

勝手に傷ついて。

勝手に爆発して。


挙句の果てに、ルーク様まで傷つけて。


どうしようもなく自分勝手で。

どうしようもなく、幼くて。


(・・・・・・最低だわ)

昨日から、何かがおかしい。

私は一体、何がしたいのだろう。


ぽつり、と胸元に小さな雫が落ちた気がした。

頬を拭いながら上を見上げれば、空は鉛のように沈み、雲は今にも落ちてきそうなほど低く垂れていた。

昔はこんな空でも、ただ見上げるだけでよかった。


(・・・・・・私は、お母様とは違うと思っていたのに)

こんなにも感情的になるなんて。

父にすぐ感情をぶつける母を、どこか冷めた目で見ていたくせに、結局自分だって同じだった。


(・・・こんなことなら、家で絵だけ描いていればよかった)

最初は、打算だった。

義母たちを安心させるための、形だけの付き合い。

年頃の娘らしく、友人と楽しそうにしていれば、余計な心配をかけずに済む。

ただ、それだけのはずだったのに。


いつの間にか、それが楽しくなった。

ルーク様たちとの距離が近づくほどに、もっと、もっとと欲が出た。


その結果がこれだ。

思い通りにならないだけで、こんなにも醜くなって、感情をぶつけて傷つけた。

本当に最低だ。


(・・・・・・これから、どうしよう)

このまま家に帰る気にはなれない。

きっと義父たちは、私の帰りをそわそわと待っている。


こんな顔を見せたら、すぐに気づかれてしまう。

そして、きっと心配する。


往来で立ち尽くしていると、どこからともなくヴァイオリンの音が漂ってきた。

誰の姿も見えないが、細く、かすかに響いている。


(・・・・・・・・・もしかして、リアムさん?)

そういえば、昼は橋のたもとで弾いていると言っていた。


『芸術は、本来、人の心を豊かにするためにあるんだ』


ふと、リアムさんの言葉がよみがえる。

もし陽気な曲を奏でてもらえたら、この重たい気持ちも少しは軽くなるだろうか。

それとも、静かな曲のほうが、心は落ち着くだろうか。

どちらにせよ、今より悪くはならないだろう。


空はますます暗くなっていくが、まだ雨は落ちてこない。

一曲くらいなら、聴く時間もあるはずだ。


ーーまだ間に合うはず。

そう自分に言い聞かせて、橋のたもとへと足を向けた。


雨を避けるように、人々は足早に通り過ぎていく。

誰もが空を気にし、周囲を見る余裕もない。


(・・・・・・急がないと)

このままでは、演奏を終えてしまうかもしれない。

そう思ったそのとき、すぐ横に、一台の馬車が音もなく寄せられた。


(・・・もうっ、ちゃんと見てよ)

危ないと思い、私は慌てて道の端に身を寄せた。

小柄なせいか見落とされることも多く、こういうことは珍しくない。


乱暴な御者が悪いのだが、だからといって、痛い思いをするのはごめんだった。

そう思って避けたのに、馬車はさらにこちらへ寄ってくる。


「・・・・・・・・・え?」


違和感が、遅れて背筋をなぞった。


思わず身を引いた、その瞬間。

馬車の扉が、内側から勢いよく開いた。

中から伸びた大きな手が、無遠慮に私の腕を掴んだかと思うと、強引に引き寄せられる。


「・・・・・・・っ!」


何が起きたのか理解するより早く、口元に布が押し当てられた。


息が詰まる。

必死に踏ん張ろうとするが、足はもつれ、靴底が石畳を擦る嫌な音が響く。

抵抗の意志など意にも介さず、そのまま乱暴に馬車の中へ引きずり込まれる。


扉が閉じ、外の光が無造作に断ち切られた。


(・・・なに、これ!?)

声を上げようとするのに、喉はひゅっと鳴るだけで形にならない。

必死に首を振り、腕を振りほどこうとするのに、そのすべてが簡単に押さえ込まれる。

蹴り上げても、振り払おうとしても、何一つ届かない。


「おい、暴れるな!」


焦ったような男の声が、頭上から落ちてきた。


「やめっ・・・」


声にならない。

腕を絡め取られ、背後から押さえつけられる。

逃げ場がない。

それでも、残った力を振り絞ってもがく。


(誰か、助けて・・・!)

もがくうちに、押し当てられた布がわずかにずれた。

必死の思いで、声を絞り出す。


「・・・た、た、助けて!」

「おい、黙らせろ!」

「わかってるよ!」


次の瞬間、首の後ろに鋭い衝撃を受け、視界が揺れた。

耳鳴りが広がり、音が遠ざかっていく。


力が抜け、指先から順に感覚がほどけていくようだった。

誰かに支えられたまま、勝手に身体が傾いた。


「このまま静かにさせとけ」


(・・・・・・この声)

どこかで聞いたことがある。

けれど、思い出そうとする前に、意識が滑り落ちていく。


ぼやける視界の中に、なぜかルーク様の顔が浮かんだ。

そして、そのまま何もわからなくなった。



お読みいただきありがとうございます。

作中のリアムさんは「25 おしゃべりなヴァイオリン弾き」に登場しています。

お時間あるときに、よろしければご覧ください。


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