29 ルークの胸の軋み
ようやくエレノアからの説教から解放されたアリスちゃんは、ほっとしたようにクッキーをつまんでいる。
その横顔は、思いのほか穏やかだ。
さっきも普通に会話していたし、問題はないはずだ。
ーーそれでも、気になってしまう。
(・・・・・・大丈夫、だよな?)
つい、そっと様子をうかがえば、彼女の頬はまだ白いままで、血の気が戻っているようには見えなかった。
だが、それを除けば、いつものアリスちゃんのようにも見える。
(・・・・・・・・・アリスちゃんのことが、よくわからない)
殺人犯の家に上がり込むなんて、どうかしている。
執事から連絡を受けたときは、心臓が止まるかと思った。
フィリップが怪しいことは、すでに掴んでいた。
予言なんてあるわけがない。
一度目だけなら、偶然かもしれない。
二度続いても、こじつければそう片付けられるだろう。
だが、三度も起きたら、それはもう誰かの意図だ。
問題は、決定的な証拠がないことだった。
そのため、フィリップの身辺を秘かに探らせていた。
証拠を揃え、逃げ場を塞いでから捕えるつもりだったのだ。
そんな矢先に届いた、執事からの知らせ。
嫌な予感しかしなかった。
いや、予感などどいう生易しいものではない。
最悪の結末しか、思い浮かばなかった。
気づけば俺は、無我夢中でフィリップの住むロッジングハウスへと駆け出していた。
そして必死に、住人たちの呼び鈴を鳴らして回った。
幸いにもヴァイオリン弾きの男が出てきて、アリスちゃんがフィリップの部屋に入ったことを教えてくれた。
俺はすぐに屋根裏へ上がらせてくれと頼んだ。
だが、あの交渉上手の男は、俺の足元を見た。
『屋根裏に入らせてやってもいいが、代わりに仕事を紹介してくれ』
そんな条件を出してきたのだ。
こんなときに、と思ったが、断っている時間はない。
俺は二つ返事で引き受けた。
ついでに、警官を呼んでくるよう頼むことも忘れなかった。
だが、そのとき、すでに遅かったのかもしれない。
部屋の中から、鈍い物音が聞こえてきたのだから。
普段なら、絶対に足を踏み入れようとも思わない汚れた屋根裏を、必死の思いで這った。
埃も、虫の死骸も、顔に絡みつくクモの巣も気にならない。
屋根裏は、不気味なほど静かだった。
そのとき、か細い悲鳴が聞こえたのだ。
頭の中が一瞬で沸騰し、急いで部屋へ駆けつけると、フィリップが馬乗りになり、アリスちゃんの首を絞めていた。
あの瞬間、俺は我を忘れた。
何を考えたのか覚えていない。
気がついたときには、フィリップに体当たりしていた。
フィリップともみ合っている最中、彼女は辞書を振り上げて突進してきた。
そんなこと、予想もしていなかった。
思わず目を見張ったフィリップは、一瞬だけ動きが止まった。
その一瞬の隙を突いて、俺はフィリップを取り押さえた。
あのときの焦り。
全身を締めつけるような緊張。
そして、アリスちゃんが無事だと分かったときの安堵。
あれほど激しく感情が揺れたのは、生まれて初めてかもしれない。
無事だったからよかったものの、二度とあんな思いはごめんだ。
駆けつけた警官にフィリップを引き渡し、事情を説明した。
アリスちゃんに彼の家に行った経緯を聞きながら、俺は彼女を馬車で家まで送り届けようとした。
その帰り道。
馬車の揺れに身を任せていると、アリスちゃんがぽつりと言った。
『・・・・・・なんだか、眠いです』
『は?』
『昨日、寝ていなくて。申し訳ないんですけど、公爵邸で寝かせてもらってもいいですか』
『いや、君の家に着くまで待てないの!?』
『無理です』
きっぱりと言い切った次の瞬間、彼女はそのまま、こてりと眠りに落ちた。
『え、ちょっと待って。本気で?』
慌てて声をかけても、返って来るのは規則正しい寝息ばかり。
このままブラックウッド家に送り届けるべきかと思ったが『公爵邸で』と言っていたのを思い出し、結局そのままうちへ連れて帰ることにした。
アリスちゃんは、家族に心配をかけることを極端に恐れる。
ブラックウッド伯爵は、両親を早くに亡くし、たった一人の身内である妹マヤを大切にしていたと聞く。
そんな彼女が駆け落ちをし、あげく不幸な事故で命を落としたとあれば、その喪失感は計り知れない。
忘れ形見であるアリスちゃんを、過剰なほどに気にかけるのも無理はない。
あの状態で帰れば、ブラックウッド伯爵が心配すると思ったのだろう。
酒でも飲んだのか、それとも単に緊張が切れただけなのか。
理由はわからない。
ただぐっすりと眠っていることは確かだった。
それでも、アリスちゃんが目を覚ますまでは、気が気ではなかった。
何か妙な薬でも盛られたのではないかと、不安で仕方がなかった。
ーーもっとも、なぜか笑って目を覚ましたが。
(・・・家族に心配をかけるとわかっていながら、フィリップのところへ行ったんだよな)
彼女の心を占めるのは、絵と家族だけだ。
ブラックウッド伯爵に心配かけると分かっていながら、どうしてフィリップに自首を勧めに行ったのだろう。
彼女なりにフィリップに友情を感じていたのだろうか。
自首を勧めに行ったと言うアリスちゃんの、あの沈痛な表情。
あれが演技だとは思えなかった。
あれは、間違いなく本心だったはずだ。
だが、警官に連れて行かれるフィリップを見送るときの彼女は、まるで違っていた。
あらゆる感情をそぎ落としたような顔で、ただじっとフィリップを見つめていた。
何かを見極めようとするような、その目。
正直、少し怖かった、
彼女が何を考えているのか、どうしてもつかめない。
(・・・・・・画家、だからか?)
アリスちゃんは、スカーレットの亡骸を見つけたときも、驚くほど落ち着いていた。
取り乱すこともなく、まるで傍観者のように部屋の中を見回し、そしてスカーレットを観察するように見つめていた。
絵を描くため、細部を見逃さないようにする癖が、無意識に染みついているからだろうか。
俺がスカーレットを『温かい』と口にしたときも、アリスちゃんはフィリップの一挙手一投足を見逃すまいとするように、瞬きもせず見つめていた。
あのときすでに、彼女はフィリップを疑っていたのだろうか。
それとも、もっと別の何かを見ていたのか。
「お兄様、紅茶が冷めてしまいますよ」
「・・・あ、ああ。いただくよ」
エレノアから不意に声をかけられ、慌てて紅茶に口をつける。
ついアリスちゃんのことばかり考えてしまっていた。
「ルーク様、このクッキー、とても美味しいですよ」
「そう。よかったね。俺はいいから、アリスちゃんが食べて」
俺にクッキーを勧めてくるアリスちゃんが、笑っているのに、不思議と寂しそうに見えた。
ーー多分、彼女は無理して笑っている。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
(・・・・・・俺のせいだ)
そもそも、フィリップに彼女を引き合わせたのは俺だった。
自分の知らないところで人生の駒を進めていく彼女が、どこか面白くなくて。
つい気を引こうとして、評判のよくないグリムショー子爵の夜会に連れ出した。
俺からすれば、フィリップは身勝手な芸術家かぶれに過ぎない。
だが、アリスちゃんにとっては、同じ道を志す友人だったのかもしれない。
出会わなければ、彼女が傷つくことはなかった。
思わず唇を噛む。
そのとき、エレノアの驚いたような声に、はっと我に返った。
「まあ!あさっては、ノースヘイブンへ行かれるのですか?」
「ええ、ジュリアン様が誘ってくださったので」
その一言で、なぜか胸がぎゅっと軋んだ。
「ノースヘイブンなんて、行っても面白くないじゃないか」
ノースヘイブンは、王都近郊では定番の観光地だ。
入り江に囲まれた小さな港町で、白壁の家々と石畳の通りが続いている。
だが、どちらかといえば田舎者や恋愛初心者が初デートに選ぶような場所で、わざわざ訪れるようなところではない。
思わず口に出すと、エレノアがぴたりとこちらを見た。
「お兄様ったら、そんな言い方をして!ノースヘイブンは、海の幸が美味しいじゃないですか」
そんなことはわかっている。
それでも、なぜだか面白くなかった。
「ええ、食事を楽しみにしているんですよ。シーサイドタヴァンという美味しいお店があるそうです」
(・・・美味しい店くらい、俺が連れて行くよ)
思わず、胸の内で呟いた。
王室御用達の店だろうと、隠れ家的な名店だろうと、予約の取れない店ですらーー俺なら押さえられるのに。
「あら、そのお店の名前は聞いたことありませんわ」
「ジュリアン様のお勧めなんですよ。地元の人しか知らない小さなお店ですが、とても美味しいと評判なんですって」
「まあ!そんなお店をよくご存知でしたね」
「叔母様の別荘がノースヘイブンにあるそうで、子どもの頃は、よくそこで過ごしていたそうです」
「そうなのですね」
アリスちゃんがジュリアンの名を口にするたびに、胸の奥がわずかにざらつく。
それなのに、彼女は穏やかに微笑んでいる。
(・・・・・・あれ、アリスちゃんの顔が)
心配していたはずの彼女の頬に、うっすらと赤みが差していた。
温かい紅茶を飲んだからだろうか。
それとも、ジュリアンの話をしているからだろうか。
そう思った瞬間、理由のわからない苛立ちが胸をかすめる。
元気になったのなら、それでいいはずなのに。
(・・・・・・・・・どうしてだ)
彼女が誰の話で笑おうと、関係ないはずだ。
そう頭ではわかっているのに、視線が逸らせない。
楽しそうな言葉を重ねるたびに、胸の奥がじわりと締めつけられる。
(・・・・・・面白くない)
自分でも驚くほど、はっきりそう思った。
お読みいただきありがとうございます。
また、誤字のご指摘もありがとうございました。
作中では寝言で起きる描写を書きましたが、私自身もよく自分の寝言で目が覚めます。
わりと普通のことだと思っていたのですが、一般的にはどうなのでしょうね。




