26 フィリップさんの告白
軽く叩いただけだったが、扉はすぐに開いた。
「やっぱりアリスだ」
フィリップさんが、わずかに驚いた顔でこちらを見る。
けれど、驚いているのは私の方だった。
どうして私が来るとわかったのだろう。
「『やっぱり』って?」
「話し声が聞こえたんだよね。なんとなく君の声に似ている気がしたんだ」
(・・・そんなに聞こえているの?)
どうやらこのロッジングハウスは、壁が相当薄いらしい。
何もかも筒抜けなのかもしれない。
「差し入れを持ってきたんですよ」
そう言ってワインの小瓶を掲げると、フィリップさんの目が少し丸くなった。
「君は、本当にいい人だね」
「私たち、お友だちでしょう?」
「・・・ははっ、嬉しいな。ありがとう、アリス」
紙袋の中をちらりと覗き込み、フィリップさんが嬉しそうに笑う。
どうやら正解だったようだ。
中には、パンとチーズ。
気取らない、ありふれた手土産だが、その方がいい気がしたのだ。
「昨日から、まともなものを食べてなかったんだ」
「そうなんですか?」
「うん。絵を描いていると、時間の感覚がなくなるんだよ」
ワインの瓶を受け取りながら、彼はふと首を傾げた。
「でも、どうして来てくれたの?」
「昨日大変なことがありましたし・・・。眠れなかったかもしれないと思って」
フィリップさんは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「・・・アリスは優しいね」
そして、少しだけ悲しそうに呟いた。
「実は、全然眠れなかったんだ」
「そうでしょうね。ひどい顔色をしていますよ」
「・・・・・・そう?」
「隈も酷いし、一晩で頬もこけたように見えます」
「あんなスカーレット様を見たら、ね・・・」
視線を下に落とすフィリップさんの本音は、どこにあるのだろう。
死者を悼んでいるのか。
それとも、自分の絵が売れたことへの感情を、押し隠しているだけなのか。
俯くフィリップさんをつい見つめていると、彼は急に顔を上げた。
「あっ、ごめんごめん、せっかく来てくれたのに。よかったら、入って」
「いいんですか?」
「もちろん」
フィリップさんは扉を大きく開け、私を中へ招き入れた。
ーーけれど、思わず足が止まる。
油絵具の匂いは想像していた。
だが、それ以上に、強い酒の匂いが部屋にこもっていた。
驚きを顔には出さないよう気をつけながら、彼の後を追う。
角部屋だからだろうか。
室内は思ったより広く、二部屋に小さなキッチンまでついている。
しかし床には紙の束が散乱し、本や雑誌があふれ、収まりきらなかった分がそのまま積み上げられていた。
ーー正直、かなり散らかっている。
「よかったら、ここに座って」
「ありがとうございます」
勧められたキッチンの椅子に腰を下ろす。
ふと視線を上げた先に、フィリップさん自身が群衆の前で処刑されている絵があった。
思わず目を留めると、彼は弁解するように言った。
「自分の死を描いた絵だから売らなかった、ってわけじゃないよ」
「あ、いえ・・・」
「タルが、あっ、同居人なんだけどね。家賃代わりに、何点か渡したんだ。タルが選んだ絵のうちの一枚がこれさ」
どうやら、すべてを手放したわけではなかったらしい。
「他の死体の絵はあるのですか?」
「ああ、何枚かはあるはずだよ。・・・えっと、タルはどこに置いたのかな?」
そう言って部屋を見回し、そこで初めて気づいたように苦笑いした。
「・・・・・・ごめん、汚いよね」
「いいえ。それより、本がすごく多いですね」
棚は本で埋め尽くされ、収まりきらない分が床に積まれている。
その一部はすでに崩れかけていた。
「タルは作家なんだよ。それで本が多いのさ」
「へぇ、すごいですね」
「でも、残念ながら売れていないけどね。最近は新聞に記事を書いて、なんとか食いつないでいるみたいだ」
フィリップさんは、テーブルの上に出しっぱなしの手紙や片付けていない皿を端に寄せ、そこにワインと紙袋を置いた。
「アリスも飲む?」
「私はいいです。それより、フィリップさんの故郷を描いた風景画が見たいです」
「ああ、覚えていてくれたんだね。ちょっと待ってて」
弾む足取りで、フィリップさんは奥の部屋へ消えた。
その間にワインを注ぎ、チーズを切る。
持ってきたパンに添えると、簡素ながらも少しは見栄えがした。
戻って来たフィリップさんは、テーブルを見るなり声をあげる。
「わぁ。準備してくれたんだ。ありがとう」
「いいえ。よかったらどうぞ」
嬉しそうにパンとチーズを頬張る彼を横目に、絵を見る。
灰色の低い雲が垂れ込める空。
広大な牧草地には羊が点在し、霧に包まれた丘陵が連なっている。
ーーひんやりとした空気が、頬をなでた気がした。
乾いた草の匂いと、かすかに混じる煙の香り。
遠くで鳴く羊の声が、ゆるやかに響く。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ーー帰りたい、とまでは思わないのに。
瞬きを一つして、私はそっと息をついた。
「これはエルドランドの北部ですか?」
「そう、よくわかったね」
決して明るい絵ではない。
けれどその奥には、郷愁と故郷への深い愛が静かに滲んでいた。
「この冬の景色、懐かしいです」
「ああ、やっぱりアリスも北部出身なんだ」
思わず、フィリップさんの顔を見る。
「・・・・・・・・・やっぱり?」
「少しだけ、北部訛りがある」
「えっ?」
「僕も北部出身だからね。・・・まあ、ほとんどの人は気づかないと思うけど」
母は訛りを嫌っていた。
子どもの頃から使わないように言われていたはずだ。
それでも、耳に残ったものは消えなかったのだろうか。
これまで、誰にも指摘されたことはなかった。
フィリップさんは、ワインの入ったコップを大事そうに持ち、一口含んだ。
「・・・・・・スカーレット様も、北部出身だったんだ」
「そうなのですか?」
「うん。話し方ですぐわかった」
(・・・・・・彼女に訛りなんて、あったかしら?)
会話の最中には、気づくことはなかった。
けれど、あの白くきめ細やかな肌は、確かに北部の人間の特徴だ。
「絵を届けたときに、スカーレット様と少し話をしたんだよね」
「そうだったんですか」
「スカーレット様も王都に出てきたばかりの頃は、ずいぶん苦労したみたいでさ。だから僕に『頑張れ』って言ってくれたんだ」
辛い思いを飲み込むかのように、フィリップさんはワインをあおった。
「僕を励ましてくれたんだ」
「そうでしたか」
「きっと絵を買ってくれたのも、僕を応援しようとしてくれたんだと思う。・・・本当に、いい人だったよ」
彼の目に、じわりと涙が浮かぶ。
その様子を見て、思わず口をついて出た。
「・・・・・・・・・・・・じゃあ、どうして殺したのですか?」
「え?」
「スカーレット様を、殺したでしょう?」
まさか、そんな言葉を向けられるとは思わなかったのだろう。
フィリップさんは目を見開いた。
「どうして、僕がそんなことをするのさ」
「自分の芸術の一部としたかったのか。それとも、売名行為のためだったのか・・・私にはわかりません」
まっすぐフィリップさんを見る。
その表情の一つも、見逃したくなかった。
「むしろ、フィリップさんの気持ちが知りたいです」
「なっ、何を言っているんだ!僕がそんなことをするわけないだろう!」
フィリップさんは怒ったように立ち上がって叫んだ。
けれど、その目は、わずかに揺れていた。
その揺らぎが、かえって私の確信を強める。
何も言わず見つめていると、やがて彼は息を吐き、椅子に座り直した。
ワインを口に含み、それからゆっくり視線を私に戻した。
「・・・・・・・・・アリスは、面白いことを言うんだね」
先ほどまでの動揺が嘘のように、静かな声だった。
信じたい気持ちはある。
けれど、背筋に薄く冷たいものが走った。
「どうして、僕が犯人だと思ったの?」
ワインのコップを揺らしながら、じっとこちらを見ている。
いつもの彼とは違う。
そう感じながらも、もう後には引けなかった。
「あの状況では、フィリップさんの以外に、考えられないんです」
「どうして?」
「・・・・・・・・・フィリップさんが犯人だとしたら、全て辻褄が合うんです」
頭の中で何度も否定した。
それでも、結論は変わらなかった。
彼のために黙るべきか。
それとも、スカーレット様のために告げるべきか。
自分がどうしたいのかもわからないままーーそれでも、ここに来てしまった。
「あの日、フィリップさんは玄関にいました」
「ああ、そうさ。絵を回収しに行ったんだよ」
「スカーレット様の家は、一本道の奥です。でも、私たちは、その途中でフィリップさんを見ていません」
「それは当然さ。僕は玄関で、ずっと呼び鈴を鳴らしていたんだから」
それこそがおかしい。
出ないとわかっているのに、その場に居続ける意味がわからない。
「約束もなく訪ねて、応答がなければ普通はすぐに帰ります。それなのに、どうしてあの場にいたのですか?」
「窓が開いていたし、いると思ったんだよ」
「いいえ、それは通りません。・・・スカーレット様の植木鉢の花の色も、出窓に置かれていた花も『赤』でした」
娼婦の中には、客への合図として花を使う者がいる。
白なら営業中、赤なら休み。
スカーレット様の髪には、いつも花が飾られていた。
「『椿姫』の物語は、有名ですし」
あの習慣は、有名な物語になぞらえたものだ。
男性ならーー知っていることだと思う。
花の色が赤なら、会えないと考えるのが普通だ。
「つまり、あの状況で留まっているのは不自然なんです」
フィリップさんはの顔から、笑みが消えた。
ほんの一瞬、底の見えない冷たさを感じ、身震いする。
けれど次の瞬間、彼は大きく笑った。
「はははっ、アリスは本当に面白いことを言うね。でも、ごめんね。僕は教養がないから、そんなことは知らなかったんだよ」
「・・・・・・でも」
「きっと犯人は、窓から逃げたんだよ」
「それは無理です。スカーレット様の家は、通りの一番奥でした。通りへ出るには、庭か玄関を通らざるを得ません」
フィリップさんの目を見る。
逸らすかと思ったその視線は、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「つまり、犯人が逃げたなら、フィリップさんと鉢合わせしてもおかしくなかったんです」
「だから何だって言うんだよ」
「スカーレット様は、殺されてからそんなに時間が経っていないように見えました。それなのに、フィリップさんは犯人を見ていない」
フィリップさんは自分がもう少し早く来ていればと、そう嘆いていた。
翌日の新聞にも、目撃者はいないとあった。
「見なかっただけで、犯人扱いするなんておかしいよ」
「それだけじゃありません。スカーレット様が殺されたと知ったとき、フィリップさんは呆然としていましたよね」
あの日、フィリップさんは亡くなったスカーレット様を目の前にして、呆然と座りこんだ。
「でも、ルーク様が『体が温かい』と言った瞬間、フィリップさんは跳ね起きて、スカーレット様のそばに駆け寄りました」
私はフィリップさんを見つめた。
わずかにフィリップさんの顔が強張っている。
「『まだ生きてるの!?』って」
殺されたと思って呆然としていた人の動きとしては、あまりにも速すぎた。
そしてその動きに目を留めたのは、私だけではなかったと思う。
「殺されたと思っていた人間の口から出るには、不自然すぎる言葉です」
「そんなことは・・・」
「『死んだはずなのに』と、私には聞こえました」
フィリップさんの表情が、完全に固まった。
「きっと最初から『スカーレット様の死』を前提に動いていたんですよね」
「・・・・・・・・・」
「そのために呼んだんじゃないですか?・・・お友だちの『タリエシン』さんを」
「なんでその名前を・・・」
「テーブルの上に郵便物がありました。珍しい名前ですよね」
変わった名前だと思った。
だから、余計に記憶に残った。
「ケルト神話に出てくる詩人の名。予言の力を持つ人物。・・・そして、あの事件を扱った新聞記事にも、その名前が署名されていました」
あのときの違和感が、はっきりと形になる。
「・・・不自然なんです」
「何がだよ」
「事件が起きて、すぐに記者が来るなんて。まるで、分かっていたかのようでした」
「違う!」
フィリップさんが声を荒げ、テーブルを叩いた。
その衝撃で、皿がカタカタと音を立てる。
「タルは・・・取材に来ただけだ」
「では、どうして翌日の新聞に載せられたんですか?警官に事情を聞かれて、私たちが帰った頃には、もう夕方でしたよね」
「急いで描いたんだよ!」
「そんなはずがありません。・・・絵は、そんなふうに描けるものではないですよね」
胸の奥で、何かが軋む。
自分も絵を描くからわかる。
「下絵を起こして、構図を整えて、それから銅板に彫る。印刷まで含めれば、到底間に合いませんよね。翌日に載せるなんて、無理です。でも、とても短時間で描いたとは思えないほど、精密な絵でした」
フィリップさんは、ただコップをの中のワインを見つめている。
こちらを見ようともしない。
「・・・・・・モーティマー子爵が殺されたとき、僕はグリムショー子爵の夜会にいた」
「ええ、そうです」
フィリップさんは、強い口調で言った。
「あれは連続殺人だろう。だから、僕には関係ない」
「モーティマー子爵が殺されたのは、偶然だと思います。子爵が亡くなったとき・・・翌日の新聞に記事は載っていませんでした」
事件が気になり、家に保管してあった古新聞を取り出して記事を探したのだ。
そんなに早く用意できるものではないのだと、あのとき知った。
「それに、モーティマー子爵のときは傍らに絵はありませんでした」
たまたま遺体を見つけたのが絵を知るポーレート伯爵だったから、話題になったのだ。
そうでなければ、ただの強盗殺人事件として扱われただけだ。
「でも、次の被害者、ガレット様を殺したのはフィリップさんですよね」
「なんで、僕が・・・!」
「それはわかりません」
動機なんてわからない。
わからないけれど、可能性が高いのはフィリップさんなのだ。
「さらに絵を売るためだったかもしれないし、オーロラ様のことだったのかもしれません。・・・あるいは、ガレット様がフィリップさんの絵を否定したからかも」
オーロラ様から好意を寄せられていたフィリップさん。
そしてそのことで彼を妬み、絵を辛辣に批評していたガレット様。
芸術家にとって、作品を貶められるほど、耐えがたいことはない。
「なっ・・・!そんなことで、人は殺さない」
「そうかもしれません。でも、少なくともフィリップさんには『可能性』がありました」
フィリップさんの拳が、震えている。
「・・・・・・私が、ガレット様の遺体を見つけたんです」
「え?」
「見つけたのは、夕方でした」
あの日、夕焼けを見ていて、偶然死体に気づいたのだ。
「それなのに、翌日の新聞には挿絵付きで記事が載っていました」
「だから、なんで僕が犯人になるのさ?」
「だって、あの絵を描いたのはフィリップさんでしょう?」
「・・・ああ、そうだ」
「ガレット様が殺された日、フィリップさんは、ジュリアン様と一緒にいた私に声をかけましたよね。・・・でも、あのときのフィリップさんは、ひどく酔っていました」
あれだけ酔っていて、絵が描けるとは思えない。
あの精密さ。あの完成度。
絶対に無理だ。
「スカーレット様のときと同じで、あらかじめ描いていたんですよね」
「そんなことは・・・!」
「ガレット様の懐中時計は、五時で止まっていました。つまり、殺されたのは朝の五時。・・・フィリップさんは、彼を殺して、絵を描いてからお酒を飲んだのではないですか?」
フィリップさんは、先ほど私の声が聞こえたと言っていた。
隣の住人がうるさくて起きたというのは、帰宅したフィリップさんの足音ではなかったのだろうか。
「そんなことはないさ!」
「本当にそうですか?では、このことを警官に伝えてもいいですか?」
「いや、それは・・・!」
フィリップさんは唇を震わせながら、私を見た。
けれど、私は目を逸らさない。
逸らしたら、もうこの話はできないような気がした。
不意にフィリップさんは、テーブルへ視線を移した。
それから彼は、コップにワインをなみなみと注ぎ、そして一気にあおった。
喉が鳴る音だけが、やけに大きく響く。
それから、どのくらい時間が経ったのだろう。
やがて、フィリップさんはぽつりと口を開いた。
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