25 おしゃべりなヴァイオリン弾き
ウィンダム公爵邸へ行ったが、二人とも留守だった。
まず、そのことにほっとする。
執事に言付けだけを託し、食料品を買ってからフィリップさんの家へ向かった。
引き返す理由を探しながら、それでも足を止めることはできなかった。
(・・・・・・ここでいいのかしらね)
フィリップさんが住んでいるのは、古い石造りのロッジングハウスだった。
思っていたよりも、ずいぶん古ぼけている。
部屋番号を聞きそびれていたことに気づき、どうしたものかと戸惑っていると、背の高い男性が一室から出てきた。
髪を後ろで結び、手にはヴァイオリンケースを持っている。
痩せてはいるが、無駄のない引き締まった体つきだ。
整った顔立ちに、どこか人を惑わせるような気配がある。
ーー冥界に降りたオルフェウスといったところだろうか。
「誰か探してるの?」
低く落ち着いた声で、男性が尋ねてくる。
視線が、私の持つ食料品の袋へと一瞬落ちた。
思わず、それをぎゅっと抱き寄せる。
「フィリップさんを訪ねてきたのですが、部屋がわからなくて・・・」
「へぇ!フィリップのファンなの?」
「いいえ、友人です」
男性は私の体を頭の先から足元までゆっくり眺め、何か納得したように小さく鼻を鳴らした。
「あいつの友人にしては上品だけど・・・君、絵描きなんだね」
「え、ええ。そうです」
(・・・顔に絵の具などつけていないはずだけど)
どうして私が絵描きだとわかったのだろう。
まさか、自分では気づいていないだけで、どこかに絵の具がついていたのだろうか。
思わず不安になってしまう。
男性はくすりと笑い、私の手を指さした。
「指先だよ。爪の隙間に青が残ってる。絵描きの絵の具ってのは、なかなか落ちないものだよね」
(・・・・・・手は洗ったはずなのに!?)
反射的に自分の指先を見てしまった。
確かに爪の端に、ごくわずかに青が残っていた。
「売れているの?」
「いいえ。残念ながら、まったく」
「それは辛いね」
男性は手にしたヴァイオリンケースに視線を落とした。
ほんの少し同情しかけたが、男性はすぐに顔を上げた。
その口元は、かすかに歪んでいた。
「でも、いつ売れるかは誰にもわからないしね」
「そうですね」
「フィリップがいい例だよね。人もよく訪ねて来ているよ」
その言葉に、わずかな引っかかりを覚える。
「どんな方が訪ねて来ていたのですか?」
「客だよ。あの殺人事件のおかげで名が売れたからさ。おかげで今まで描いた絵も、ずいぶん売れたみたいだ。新しい注文もきたみたいだし」
「ああ、そうみたいですね」
「・・・なんだ、君にも自慢していたんだね。あいつ、さぞ上機嫌だっただろう?」
(・・・・・・フィリップさんは、あなたを「いい奴」だと褒めていたのに)
だが目の前の男は、仲間の成功を祝うどころか、どこか非難がましい口ぶりだ。
それは成功が妬ましいからなのか。
それとも、人の死で売れることへの嫌悪か。
私の沈黙など意に介さない様子で、男は壁に背を預け、大きく息を吐いた。
「また売れるだろうね。昨日も、フィリップが描いた絵を真似た殺しがあったんだろう?」
「・・・・・・そうみたいですね」
「フィリップもタルも喜んでいたよ。『これでまた売れる』ってね」
「えっ、フィリップさんも・・・?」
「ああ、そうだよ」
胸の奥がすっと冷える。
スカーレット様の死を、彼は本当に悼んでいたのではなかったのか。
それともーー作品が売れる喜びの方が、重いのだろうか。
男は、つまらなそうに肩をすくめた。
「君が悩むことはないさ。悲劇は売れるんだよ。芸術も、本も・・・人間も」
(・・・・・本当にそうよね)
その題材が、悲惨なものほど売れているような気がする。
でもそれは、他人事だから楽しめるのだ。
「現実と一緒にしてはいけませんよね。本人はもとより、亡くなった方にも家族や友人がいます」
「俺もそう思うよ。人の不幸で商売なんかするべきじゃないんだよ。・・・まあ、それを求める側も同じくらい、性質が悪いけどな」
「ええ、そう思います」
「それより、音楽を聴いた方がいい。少なくとも、誰かが死ぬ必要はないし」
「そうですね」
「芸術は、本来、人の心を豊かにするためにあるんだ」
(・・・・・・この話、まだ続くかしら?)
終わりが見えない。
私は、芸術論を語りに来たわけではないのだ。
ただの世間話にしては、少し重すぎる。
痺れを切らして、私はついに口を開いた。
「・・・あの、フィリップさんはの部屋はどこですか?」
「ああ、つい話し込んでしまってごめんね。俺、よく喋るんだ」
男は少しだけ肩をすくめ、申し訳なさそうに笑った。
悪気はなさそうだ。
「フィリップは、一番奥の部屋だよ。タルは仕事に出てるし、今なら一人で家にいると思うよ」
「ありがとうございます」
「ああ、ちょっと待って!」
礼を言い、奥に向かおうとしたその時だった。
背後から、気軽な声が飛んでくる。
「ねぇ、部屋を教えたんだから、お礼くらいくれよ」
「え?あ、ああ。すみません」
その程度で金銭を要求されるとは思っておらず、思わず焦ってしまう。
慌てて財布に手をかけた私を見て、男は片方の口元だけ上げた。
「ははっ、冗談だよ。でも、その紙袋のスコーンを一つくれたら嬉しいな」
「これですか?」
袋の口から覗いていたスコーンのことらしい。
お腹が空いているのだろうか。
少し戸惑いながらも、一つ取り出して差し出す。
「ありがとう」
指先が、ほんの少し触れた。
男の指は硬く、爪は綺麗に切り揃えられていた。
どうやらヴァイオリンには、真摯に取り組んでいるらしい。
「あいつの友人は、大体いい人なんだよね。軽蔑されるかと思ったけど、強請ってみて正解だった」
「・・・別に、軽蔑はしませんけど」
「やっぱり『いい人』だ」
にやりと笑うと、男はスコーンにかじりついた。
よほど気に入ったのか、そのまま大きく口を開け、ほとんど一口で食べてしまう。
「あいつは絵の才能はないけど、人には恵まれているから羨ましいよ」
「才能はないって・・・」
「ないだろ。上手いとは思うよ。けど俺は、あいつの絵で心を動かされたことなんてないんだよね」
指についた欠片を舐めとりながら、男は続けた。
「でもその代わり、あいつが困れば、友だちが自然と手を差し伸べてくれる。ああいうのも才能って言うんだろうな」
「それは、フィリップさんが、いい人だからでは?」
「まあ、そうだろうね。自分に親切にしてくれる相手に、親切を返す。ただそれだけのことなんだろうけど」
一瞬だけ、リアムさんがこちらを見る。
値踏みするような視線に、胸の奥がわずかにざわついた。
「そういう『普通のこと』って、案外できなかったりするんだよね」
「・・・まあ、そうかもしれませんね」
「それにしても、助かったよ」
ふっと空気を緩めるように、男は笑顔を作った。
「実は、金がなくてさ。昨日から何も食べてないんだ。さすがに商売道具は売れないし、どうしようかと思っていたんだ」
(・・・・・・本当に、困っているのね)
軽い口調のまま言うが、その体は誤魔化せない。
手首の骨は浮き出て、上着の袖も擦り切れている。
つい気の毒になって、私は袋からジンジャーブレッドを取り出した。
「よかったら、こちらもどうぞ」
「・・・・・・・・・・・・本当に?」
一瞬、意外そうに目を瞬かせてから、男は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。親切なんだね」
その笑顔から、先ほどまで纏っていた影がすっと消える。
年相応の、どこにでもいる青年の顔だった。
「君、名前は?」
「アリスです」
「俺はリアム。今度お礼に曲を聴かせるよ。昼間はそこの橋のたもとで弾いてるし、夜は『フィドラーズ・レスト』っていう酒場で弾いているんだ。よかったら来てよ」
「ええ、今度伺います」
「うん、じゃあ、またね」
そう言って手を上げた瞬間、リアムさんのお腹がぐぅっと鳴った。
一瞬、沈黙が落ちた後、リアムさんは苦笑いした。
「・・・・・・食べたら、余計腹が減ったみたいだ」
「少し口にすると、かえって空腹が強くなりますよね。私もよく経験しました」
「だよな」
肩の力を抜いたように笑うと、リアムさんはジンジャーブレッドを見下ろした。
「これを食べてから行くことにするよ」
「それがいいと思います」
ふと照れたように笑うその表情に、懐かしい誰かの面影が重なった。
思わず、私も微笑んでしまう。
気がつくと、リアムさんは目を細めて私を見つめていた。
「絶対に聴きに来てよ。俺、こう見えても本当に上手いんだから」
「ええ、そうします」
「それとさ、フィリップにも来るように言っといて」
「え?」
「あいつ、絵が売れてから気分の波が激しくてさ。ちょっとは息抜きした方がいいだろ」
そう言うリアムさんの瞳は、先ほどとは違って、柔らかかった。
「はい、伝えておきます」
「うん、じゃあ、また今度」
部屋へ戻るリアムさんに軽く会釈し、私は廊下の奥へと足を向けた。
古いロッジングハウスの廊下は薄暗く、歩くたびに床がかすかに軋む。
窓から差し込む光が斜めに伸び、その中で埃がゆっくりと揺れていた。
一番奥の扉の前で、足が止まる。
(・・・・・・・・・・・・行くべきよね)
喉の奥がひりついた。
引き返そうと思えば、まだ間に合う。
何だかんだと言いながら、彼を友人だと思っている自分がいる。
胸の奥を、温かいものと冷たいものが交互に掠めていった。
小さく息を吐き、ためらいを押し殺すように扉をノックした。
お読みいただきありがとうございました。
オルフェウスは、ギリシャ神話に登場する吟遊詩人です。
愛する人を取り戻すため冥界へ降り、その音楽によって冥王の心すら動かしました。
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