24 ローダナム
「・・・・・・何を探しているのだ?」
居間にある棚を覗き込んでいると、新聞を読んでいたはずの義兄が、当然のように声をかけてきた。
後ろに目でもついているのだろうか。
「ちょっとローダナムを探していて」
「なんだ、頭痛か?」
「ええ、そうなんです」
私の返答に、義兄はわずかに表情を曇らせた。
ローダナムは鎮静薬だ。
義兄は常用することを心配しているのか、私が薬を使うと、あまりいい顔をしない。
「薬箱は、母上が棚の一番上に移していたぞ」
「ああ、本当だわ。お義母様ったら、ご自分では取れそうにないところに、どうして置くのかしら」
「普段使わないからだろう」
腕を必死に伸ばすが、私の背では届かない。
義兄は新聞から目を離すと、立ち上がってあっさりと棚の上から薬箱を取ってくれた。
(・・・・・・確かに普段は使わないけどね)
けれど、いざというときのために、もう少し手の届く場所に置いてほしいものだ。
私は薬を取り出すと、薬箱を手の届く棚へとしまい直した。
「それにしても珍しいな。アリスが薬を飲むなんて」
「私だって、調子が悪いときくらいありますよ」
昨日の光景が、どうしても目に焼きついて離れない。
ガレット様と違い、スカーレット様は短いながらも会話を交わしていた。
私はきっと、彼女が好きだった。
ーーいや、正確には、好きになりかけていた。
だからこそ、その衝撃は思っていた以上に大きかった。。
昨日のことが、脳裏に浮かぶ。
『見るんじゃない!』
部屋に入った瞬間、ルーク様が慌てて私の目を覆った。
だが、その前に、私はしっかりと見てしまっていた。
瞼を閉じているせいか、ただ眠っているだけのように見える、美しい顔。
けれど、その命がすでに消えていることだけは、はっきりとわかった。
深紅のドレスの胸元だけが濃く染まり、滴った血がカーペットに赤い染みを広げている。
スカーレット様が流した血は、まだ湿っているように見えた。
『ど、ど、ど、どうしよう、僕のせいで・・・!』
フィリップさんは頭を抱え、その場に崩れるようにして、私の隣で座り込んだ。
私はスカーレット様に駆け寄りたかったが、足が動かなかった。
「君たちは、そこで待っていて」
友人が亡くなったというのに、ルーク様は驚くほど冷静だった。
彼はスカーレット様に歩み寄り、膝をつくと、そっと指先で首筋に触れた。
『・・・・・・・・・・・・・・・温かいな』
『ま、まだ生きているんですか!?』
その声を聞いた瞬間、フィリップさんがばねのように体を起こして駆け寄った。
スカーレット様の顔色を確かめると、すぐに体の向きを変えた。
『ぼ、ぼ、僕、医者を呼んできます!』
『いや、手遅れだ。もう亡くなっている』
『そ、そんな・・・・・・』
フィリップさんは呆然としたまま、その場に膝をついた。
ズボンにスカーレット様の血がついたが、それさえ気にしていないようだった。
顔を青ざめさせ、その場から動きもしない。
彼には無理だと思ったのか、ルーク様は私の方を静かに振り返った。
『・・・アリスちゃん、警官を呼んできてくれるかな?』
きゅっと引き結ばれた唇。
その表情には、友人を失った悲しみよりも、強い責任感が浮かんでいた。
私だって平気ではなかった。
けれど、ルーク様にはそう見えなかったのだろう。
部屋の奥には、まるで私たちに見せつけるかのように、あの絵が飾られていた。
その存在が、かえって私の正気を保たせていたのかもしれない。
ーー多分、現実感がひどく希薄だったのだ。
『・・・・・・はい、行ってきます』
『ごめんね、頼むよ』
急ぐべきなのに、なぜか足は進まなかった。
そして玄関を開けた瞬間、まるで待ち構えていたように新聞記者と出くわし、押し問答する羽目になった。
どうやらその記者は、例の「予言の絵」で話題になっているスカーレット様に取材を申し込みに来たらしい。
事情を知らない記者は、家に入ろうとして騒ぎ立て、そのせいで現場は一時ひどく混乱した。
最終的にはルーク様がその場を収めたものの、警官が到着するまで、私たちはずっとあの場に留まることになった。
あんな事件が起きたのだ。
ルーク様はきっと、今日は役所に缶詰だろう。
ぼんやりと昨日のことを思い出していると、義兄が気遣うように声をかけてきた。
「アトリエの明かりがずっとついていたようだが、もうアポロンは描き終わったのだろう?」
「ええ、そうなんですけど。でも、他の絵が描きたくなって」
絵に関する殺人が三件も続けば、さすがに気味が悪い。
予言の絵など信じてはいないが、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
(・・・・・・どうせ眠れないのなら、同じことだわ)
そう思って、ルーク様の肖像画を描き直していた。
そのせいで徹夜になり、さすがに頭が痛い。
けれど神経が昂っているのか、どうにも眠れそうにない。
だから、ローダナムの世話になろうとしていたのだ。
酒瓶を手に取ると、途端に義兄は眉を顰めた。
「まさか、ブランデーで流し込むのか?」
「この苦味と匂いですもの。お酒に入れて飲むのが一番なんです」
「・・・・・・あまり関心しないな」
「大丈夫ですよ。私はお酒が強いですし」
両親ともに酒には強かった。
そのせいか、私もかなり強いらしい。
夜会で酒を口にすることはあっても、一度だって酔ったことはない。
「そういう問題じゃない。年頃の娘が、朝からブランデーを飲むのはどうかと思うぞ」
「お義兄様、これは薬を飲むためですからね」
それでも真面目な義兄は、ブランデーをコップに注ぐ私を見て、眉を顰めている。
これ以上何か言われる前に、ローダナムを数滴垂らし、一気に飲み干した。
これで、少しはゆっくり眠れるだろう。
まだ何か言いたげな義兄の視線を逸らすため、私はわざと話題を変えた。
「それよりお義兄様、何か面白い記事はありましたか?」
「・・・アリスは、すぐ誤魔化そうとする」
「ごめんなさ~い、お義兄様」
首をすくめておどけたように言うと、義兄は「やれやれ」と言いたげにため息をついた。
だが、それ以上は何も言ってこない。
心配性なだけで、結局のところ義兄は私に甘いのだ。
「また殺人事件があったようだから、アリスも気をつけるようにな」
「殺人事件?」
「女性が殺されたそうだ。また、あの画家の絵と同じように、だよ」
「えっ?」
(・・・もしかして、昨日のことが、もう新聞に載っているの?)
そのあまりの早さに驚いてしまう。
新聞記者も疑われたらしく、警官から事情を聞かれていた。
だから帰ったのは、夕方のはずだ。
記事を書き上げ、印刷するまでには相当な時間がかかるはずなのに。
けれど、売れると踏めば徹夜で仕上げたのかもしれない。
「私にも見せてください」
「ああ、いいよ」
私が第一発見者になったことは、もちろん秘密だ。
そんなこと義兄たちに知られたら、家から出してもらえなくなるに違いない。
新聞にさっと目を通そうとして、思わず手が止まった。
『社交界の華、高級娼婦が惨殺!予言の絵どおりの最期か』
(・・・・・・ひどい見出しね)
そこに、追悼の意は感じられなかった。
それでも書いてある記事を目で追おうとすると、先に似顔絵が目に入ってきた。
「この顔は・・・」
「ああ。犯人と思われる男の似顔絵だな」
帽子を被った中年の男だ。
目は帽子で隠れて見えないが、四角いしっかりとした顎が特徴的だ。
「だが読めばわかるが、この男は、ただ死体の絵を買っただけらしい。警察は、この男が犯人だと言っていないんだがね」
「でも、これでは、この男性が犯人みたいに見えますよね」
「そうだな。・・・字を読めない大衆に買わせるために、似顔絵を載せたんだろうよ」
(・・・この男に似た人は、今ごろ迷惑しているわよね)
この男が犯人ではなかったら、どうするつもりなのだろう。
改めて記事を読むと、犯人像については、ほとんど記者の推測で書かれていた。
信憑性の薄い記事に、思わず憤る。
「巷では、犯人を推理するのが流行しているらしい」
「・・・そうなんですか」
「ただ読者の関心を引くためだけに、面白おかしく書いてあるな」
絵の通りに、連続して行われた殺人事件。
それはきっと、大衆の興味を引く娯楽なのだろう。
だからだろう。
スカーレット様の亡くなっている様を描いた挿絵まであった。
ページをめくると、亡くなったときの様子まで生々しく書きたてられている。
あのとき彼女を取材しに来た新聞記者が書いたのだろうか。
苦々しい思いで、書いた記者の名前を確認する。
「興味本位に書かれた記事だ。巷では、犯人を推理するのが流行しているらしい」
「・・・そうみたいですね」
エレノア様だって、犯人を真剣に考えていた。
特に親しくもなければ、それが普通の反応だと頭ではわかっている。
だが、スカーレット様が殺されたことで、私にとってこの事件は他人事ではなくなった。
義兄が新聞をそっと押さえる。
「新聞を売るためだけに、載せたのだろう。あまり見るものじゃない」
「・・・・・・ええ、そうですね」
新聞社も、大衆の興味を満たし、売り上げを伸ばすために載せたのだろう。
しかし、スカーレット様の最期の瞬間をこうして書きたてられるのは、決して気持ちのいいものではなかった。
(・・・私たちが、もう少し早く到着していれば、スカーレット様は殺されずに済んだかもしれない)
あのとき彼女は、刺されたばかりのようだった。
フィリップさんも、自分がもう少し早く来ていれば、彼女を助けられたかもしれないと嘆いていた。
胸がきゅっと痛んだ瞬間、ふっと目の前が揺れる。
フィリップさんに同情していたスカーレット様の顔が浮かび、歪んで消えた。
(・・・・・・薬が効いてきたのかもしれない)
思わず手で顔を覆った。
普段飲まないから、薬の効きがいいのかもしれない。
「・・・・・・なんだ、もう眠くなったのか?」
「ええ、そうみたいです。私、このまま部屋で休みますね」
「ベッドに横になったら、きちんと毛布をかけろよ」
「はい、そうします」
(・・・そこまで言われなくてもわかってるわよ)
義兄は、いつまで私を子どもだと思っているのだろう。
そう思いながらも、ベッドに横になると、毛布をかけないまま目を閉じてしまった。
◇◇◇
夢の中に、スミスさんが出てきた。
『アリスちゃん、いつもありがとうねぇ』
近所に住んでいた、腰の曲がった老女。
私が顔を見せるたび、皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、お礼を言ってくれた。
一緒に住んでいた息子一家が王都に出て行き、一人で住んでいる彼女のために、私は時々手伝いに行っていた。
子どもだから大したことはできないが、それでも彼女は喜んでくれた。
母も「お一人で大変でしょうし」と、貧しいながらも食事を持って行くこともあった。
息子からお金が送られてくると、スミスさんは「パーキン」と呼ばれる郷土菓子を作って私に振るまってくれた。
スミスさんとパーキンを食べながら、のんびり話す時間は穏やかで心地よかった。
(・・・・・・もう会えないけどね)
あれは、孫娘のキャサリンさんが帰郷した翌日のことだっただろうか。
久しぶりに見るキャサリンさんは、見違えるほどあか抜けて、とても綺麗だった。
村では珍しい派手な化粧を施した彼女に、男たちは見惚れ、女たちは声を潜めて何かを囁き合っていた。
私とロビンは、そんなキャサリンさんの姿に、王都への憧れを募らせた。
あの日、スミスさんが私の顔を見ながら、しみじみと言ったのだ。
『アリスちゃんは器量よしだから、大きくなったら王都に行くといいよ』
『どうして?』
『そうすれば、キャサリンみたいに幸せになれる。お母さんたちにも、楽させてあげられるからね』
『ふぅん』
そのときは、意味がよくわからなかった。
でも、私が王都に行けば母たちが助かるのだと思い、嬉しくなって、そのまま母に報告したのだ。
母は血相を変えて、スミスさんの家に怒鳴り込んだ。
あんなふうに口汚く罵る母を、私は初めて見た。
ーー今なら、母の怒りがわかる。
大事な娘に、そんな道を勧められたのだ。
怒りを覚えないはずがない。
それでも、スミスさんに悪気はなかったのだと思う。
貧しい家の娘が家族を養い、成り上がるーーそれは、この村では数少ない「現実的な手段」だったのだから。
侮蔑と欲望の入り混じった視線を浴びながら、毅然と顔を上げて歩くキャサリンさん。
その後ろ姿がーースカーレット様と重なった。
『・・・・・・スカーレット様?』
思わず呟くと、ゆっくりと振り返ったその顔は、確かにスカーレット様だった。
艶やかな笑み。
息を呑むほど美しいのに、なぜか胸が押し潰れそうになる。
その笑みを残したまま、スカーレット様は歩みを進める。
『待ってください・・・!』
声を上げた、その瞬間。
ーー目が覚めた。
そっと目元を拭う。
指先に残るわずかな湿り気に、胸の奥がかすかに揺れた。
目元の違和感は、きっとスカーレット様を思い出したせいだ。
スカーレット様は、何を思い、どう生きてきたのだろう。
もう少し彼女と話をしてみたかったが、それはもう叶わない。
唇を噛み締め、ゆっくりと体を起こそうとして、毛布がかけられていたことに気づく。
様子を見に来た義兄がかけてくれたのだろうか。
(・・・・・・後で、また怒られてしまうかもしれないわね)
私がきちんとできてさえいれば、義兄のお小言もなくなるのだが、どうも私には難しい。
どうして義兄の注意を右から左に流してしまうのだろう。
でも、流石にうるさすぎるような気もする。
義兄にどう言い訳しようかと頭を悩ませながら、私は居間へ顔を出した。
幸いなことに、居たのは義母だけだった。
「あら、アリスちゃん起きたの?もう頭は痛くないの?」
「ええ、もう大丈夫です」
「それならいいんだけど。でも、ちゃんと毛布をかけて寝ないとだめよ」
「え?」
「勝手にお部屋に入ってごめんなさいね。チャールズに様子を見てこいって言われたのよ。でも、見に行ってよかったわ。案の定、毛布をかけていなかったんですもの」
義母の瞳には、ただ心配の色だけが浮かんでいた。
私は愛情に満ちたその瞳に、どうにも弱い。
「・・・・・・ごめんなさい」
「いいのよ。きっと、すごく眠かったのよね」
優しい義母の言葉に、思わず反省する。
怒られると反発したくなるのに、優しく気遣われると素直にきけるのはなぜだろう。
「お腹が空いたでしょう?今からクロエに食事を頼んでくるわね」
「ごめんなさい。あまり食欲はないので、パンとスープでお願いします」
「そうなの?やっぱり体調がよくないのかしら」
心配そうに義母が私の顔を覗き込み、額に手を当てた。
風邪だと断定され、このまま寝かされてはかなわない。
慌てて言葉を足した。
「やっぱり、おかずもお願いします」
「よかったわ!今日の昼食は、アリスちゃんの好きなローストラムよ。たくさん食べてね」
私の好物のラム。
落ち込んだ日には、必ず食卓に上ることに気づいたのは、いつの頃からだろう。
さりげなく出されるその気遣いに、胸が温かくなる。
「お義母様、昼食を食べたら、エレノア様のところへ遊びに行ってきます」
「まあ!すっかり仲良くなったのね!」
「ええ、いいお友だちです」
「じゃあ、クロエに食事の支度を急ぐように言ってくるわね」
義母が席を立ったのを見計らい、私は棚から薬箱を取り出した。
そして、ローダナムの小瓶をポケットに入れる。
普段家にいることが多いエレノア様だが、今日はお茶会に行くと言っていた。
ルーク様だって、役所にいるに違いにない。
公爵邸に行っても、二人は留守のはずだ。
頭の中で、これからやるべきことを素早く組み立てているうちに、義母が戻ってきた。
お読みいただきありがとうございます。
ローダナム(アヘンチンキ)は、20世紀初頭までは処方箋なしで購入できたとされています。
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