17 静かな決意
「・・・・・ポーレート伯爵は、本当にお優しいな」
閉まった扉を見つめながら、ガレット様がわざとらしく肩をすくめた。
赤毛が燭台の光を受けて、ぎらりと光る。
「大事なご令嬢を死体のように描かれたというのに。本来なら、抗議してもおかしくない」
(オーロラ様まで描いたの!?)
信じられない思いで目を走らせれば、オーロラ様の絵もあった。
水面に横たわり、白い腕をゆるやかに投げ出している
唇はわずかに開き、まるで歌をくちずさんでいるかのようだ。
だが、その目は虚ろだった。
おそらく、数秒後には重力に従って、ゆっくりと沈んでいくだろう。
「それは・・・」
「こんな才能もない奴にな」
「・・・・・・・っ」
「ポーレート伯爵の恩情に、君は感謝するんだな」
確かに死は平等だ。
だが、まだ蕾のような年頃の令嬢を描くのは、あまりにも酷ではないだろうか。
「・・・・・・・私は依頼を受けて描いただけです」
フィリップさんの言葉を受けて、グリムショー子爵が小さく舌打ちをした。
やはり、この男が命じて描かせたに違いない。
彼に責任をなすりつけたやり方に、苛立ちが募る。
「依頼?だが、断ればよかっただけじゃないか」
「そうは言っても・・・」
「人のせいにするのか?描くのを決めたのは、お前自身だ」
「・・・・・・・・・・」
「どうせ、金でも欲しかったんだろ」
見下すように、ガレット様はフィリップさんの服を上から下までじろりと眺めた。
洗練された貴族の装いに比べて、彼の服はどこか野暮ったく、場違いに見える。
「君は金さえ積まれれば、なんでも描くのか?自分で描いていて、恥ずかしくないのか?」
その言葉に、フィリップさんは、床に視線を落とした。
「死体の次は、何を描くんだ?処刑の瞬間か?それとも、娼婦の裸でも描くか?」
フィリップさんが言い返さないからか、ガレット様の口は止まらない。
招待たちは、眉を顰めながら二人のやり取りを見ている。
「いいえ、違います。僕は芸術を・・・」
「君は信念なんてなくて、話題が欲しいだけだろ」
(・・・信念で絵の価値が測れるなら、世の中傑作だらけよ)
そして、フィリップさんにも事情があるはずだ。
他人が簡単に糾弾するのは、間違っている。
「やめてください」
思わず、声が出たのは私だった。
ガレット様が目を細めるが、私はその視線を正面から受け止めた。
一瞬で、この場の空気が張り詰めたのがわかる。
ルーク様が私の前に出ようとしたが、そっと手で制した。
(・・・これだけは、言わなければならない)
信念の有無でのみ価値を測るのだとすれば、それは芸術ではなく、作者の評価に過ぎない。
そしてその作者であるフィリップさんに筆を取らせたのは、グリムショー子爵だ。
立場の弱い者を責めるより、本来向き合うべき相手にこそ、言葉を向けるべきだろう。
そう思った、その瞬間。
朗々とした声が、鋭く場を切り裂いた。
「皆様、大変不快な思いをさせて申し訳ございません」
グリムショー子爵だ。
口ではそう言いながら、目は少しも謝っていない。
きっと私が余計なことを言うと思ったのだろう。
視線で威圧してくる。
「実は、レンブラントの絵は、もう一枚あるのです!」
瞬間、空気が一変した。
ざわめきが、興奮へと変わる。
「えぇ?」
「何だって!?」
「もう一枚だと?」
「そんな話は聞いていないぞ」
「本物か?」
先ほどまでの不穏な空気は、まるで霧のように霧散した。
人は案外単純な生き物で、新しい刺激があればすぐにそちらへ流れる。
「さあ、どうぞこちらへ」
芝居がかった口調で、グリムショー子爵は、ゆったりと手を伸べ、招待客たちを奥へと案内する。
まるで今の騒ぎなど存在しなかったかのように。
招待客たちは、吸い寄せられるようにぞろぞろと移動を始めた。
それを見送りながら、グリムショー子爵は、まるで野良犬でも追い払うかのように、手の甲でフィリップさんを払った。
(・・・・・・そんな扱い、あるの?)
同じ人として、敬意を払うということはないのだろうか。
汚い野良犬でも追い払うかのような仕草に、フィリップさんの胸中はいかばかりであろう。
子爵のその仕草に満足したのか、ガレット様も鼻で笑って背を向ける。
フィリップさんは動かずに、拳を握りしめながら、その背をじっと見つめている。
動かない彼に苛立ったのか、子爵はもう一度、手の甲でフィリップさんを追い払う。
「下がっていろ」
低く、冷たく、反論を許さない声。
フィリップさんは小さく頭を下げ、私に一瞬だけ視線を向けると、急いでその場を去った。
「・・・・・・アリスちゃんは、行かないの?」
ルーク様の声が、やわらかく落ちる。
人々は皆、期待に目を輝かせて奥の間へ向かっている。
(・・・もう一枚のレンブラント)
あれほど見たかった絵。
見せてくれる人間の品性など問わない、そう思っていたはずなのに。
「もういいです」
自分でも驚くほど、声が冷えていた。
胸の奥が、重い。
打ちのめされているのは、どうしてだろう。
さっき声を上げたのは、フィリップさんのためではない。
多分、私は、彼に自分を重ねたのだ。
金と権力の前で評価され、使われ、都合が悪くなると追い払われる。
技術だけを見られて、人格を踏みにじられる。
(・・・・・・もし私が、誰かの庇護のもとでしか描けなかったら?)
私も、あんなふうに手で追い払われるのだろうか。
言われるままに絵を描き、ただ消費されるだけの存在になるのかもしれない。
(・・・・・・・・・・・・悔しい)
本物を見たい。
レンブラントの光と影を学びたい。
それなのに今は、その光さえ少し汚れて見える。
ルーク様は、慰めるかのように呟いた。
「彼の絵で勝負していれば、評価は違ったんだろうけどね」
「・・・さあ、どうでしょう。こればかりはわかりません」
技術が高いだけでは足りない。
人の興味を引き、話題をさらうものでなければ、金は動かない。
「もしアリスちゃんが、同じようにパトロンに言われたらどうする?」
「え?」
「死体とか、贋作を描くように言われたらさ」
(・・・・・・どうかしら)
フィリップさんは、きっと迷っただろう。
パトロンからの依頼を断れば、生活や次の機会を失う。
「・・・・・・・・・難しいですね。その時の状況によります」
「へぇ。絶対断る、って言うと思ったのに」
少し意外そうな顔。
その表情の意味が読めない。
現実を理解していると褒めたいのか。
それとも、理想を貫けない志の低さを、内心で呆れたのか。
理想を語れる人間でありたかった。
でも、空腹を知らない人間が語る理想は、どこか無責任だ。
「私が仕事を選べるのは、義父が生活に困らないよう支えてくれているからです」
その事実を忘れてはいけない。
私は、明日の暮らしを心配する必要がない。
だからこそ、理想を語れるのだ。
もし家族の生活が自分の筆にかかっていたら、きっと今ほど強く言えない。
父だって、私たちの生活のために、描きたくもない絵を描いたはずだ。
自分の絵にこだわりのある画家が、他人の言いなりになるのは、どれほど屈辱的なことか。
「それもそうか。お義父上に感謝だね」
「そうですね。だから私は、フィリップさんを責めきれません。お金を得るためには、致し方ない部分はあります」
「でも、彼は、もう少し意見を言ってもいいと思うけどね」
私は首を横に振った。
「絵を買ってくれるお客様だと思えば、強いことは言えませんよ」
画家と客は、対等ではない。
筆を握っているのは画家でも、生殺与奪を握っているのは金を出す側だ。
「対等でいられるのは才能が有り、名声を得て『この人の絵でなければならない』と言わせられる画家だけですから。それまでは、選ばれる側です」
「・・・厳しいね」
「現実です」
フィリップさんは、まだ選ばれる側だ。
だから従う。
でも、彼が名声を得たら、それでもあの男は手で彼を払うだろうか。
(・・・・・・私は、どうなりたい?)
従う画家か。
選ばれる画家か。
それとも、選ぶ側に立つ画家か。
「私は、世間に認められたいし、売れたいです」
自分でも、不思議なほどはっきりと言えた。
「でも、私が描きたいのは、私自身の絵です」
流行でもなく、依頼でもなく。
誰かの悪趣味でもなく。
私が見た光と影。
私が美しいと感じ、私が残したいと思ったものを。
それを、この手で描きたい。
ルーク様は、少しだけ目を細めた。
「そうだね。アリスちゃんなら、そう言うと思ったよ。理想も欲も、どっちも持ってる。欲張りだけど、悪くない」
(・・・・・・・・・そうね)
『欲張り』という言葉に、胸がすっと軽くなる。
清廉潔白でなくていい。
売れなくてもいいと強がらなくていい。
認められたい。
でも、曲げたくない。
遠くで歓声が上がる。
もう一枚のレンブラントの絵は、どれほど素晴らしいのだろう。
けれど今は、あの絵よりも、はっきりと見えるものがあった。
「・・・・・・本音を言うとね」
ルーク様は、人の流れから少し離れた場所に立ったまま、小さく息を吐いた。
「俺は、フィリップが羨ましい」
「・・・・・・フィリップさんが、ですか?」
「才能があるからじゃない。見下されるとわかっていながら、それでも描き続ける、その執念がだよ。勝ち目の低い賭けだと、理解していたはずなのにね」
ルーク様は軽く笑った。
だが、その目は笑っていない。
「俺はね。失敗するくらいなら、最初から踏み込まない人間なんだよ」
(・・・なんとなくわかるけど)
ルーク様は、賢い。
多分彼は、並べられた事実を見て、先の見通しがつくのだろう。
「傷つくとわかっている勝負は避けるし、安全な立ち位置から眺めて、もっともらしいことを言う。だから君たちみたいに、がむしゃらに突き進んで行こうとする人間は眩しい」
胸がわずかにざわつく。
褒められているはずなのに、少しだけ寂しい。
「欲と理想を捨てないアリスちゃんは、すごいよ」
「でも、ルーク様にも、理想はありますよね」
ほんの少し、ルーク様は目を見開いた。
「アリスちゃんは、俺の何を見てそう言うの?」
「さあ?よくわかりません」
ルーク様の理想が何かはわからない。
だが、胸に掲げているものはあるように見える。
「俺、よくぶれるんだけど」
「凝り固まるより、いいんじゃないですか?柔軟性って大事ですよ」
ルーク様は、ちょっと困ったように笑う。
「どうかな。そのうち、理想を曲げたことに気づかなくなるんじゃないかと思うと、怖いよね」
私の中の理想は、いつまでこの形を保ち続けることができるのだろうか。
けれど、私はこのまま突き進むだけだ。
だって、それしかできない。
遠くで、また歓声が上がった。
その声は、もう気にならなかった。
お読みいただきありがとうございました。
作中のオーロラ様の死の描写は、ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」を参考にしています。
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