第二十話 長期休暇は大変だった ⑪
闘争と勝利とに彩られ、そして最後のオチに遅すぎた理解という名の絶望に叩き落されたあの日から一夜。
ベッドに上半身だけ起こした俺に、うっすらと窓を覆うカーテンの隙間から入る朝の陽の光と、あまりにものん気な小鳥達のさえずりが朝であることを教えてくれているのだが、うすぼんやりとして依然活動する気配を見せない俺の脳みそは、実際にはそれほど長い時間ではなかったようだが、自分の体感時間的にはかなりの長時間、一切の物事の理解をボイコットしていた。
ちなみにボイコット中の俺の脳内会議の模様はこう。
俺 「正直、しんどいよな」
俺 「うん、しんどい」
俺 「マリエルに会いたいな」
俺 「うん、会いたい」
以上がエンドレスで繰り返された。会議は踊る、されど進まないどころかその場でループ! その様はまさに無限円舞。
そう今俺がいるのは俺の女神様がいるワトリアの自宅ではなく、オープンが数日後に迫ったエルトリンシティの俺の宿『冒険者の止まり木亭』でここ数日は俺専用と化しているVIP専用特別室。
さすがにあの後極度の緊張から開放された直後に極度の精神的負荷が精神にかかったためか、絶叫の後ぶっ倒れた俺は、かろうじて発動させた帰還スクロールで帰還後イナ先生におんぶされてそのままこのベッドに。
しかし夢の中でも襲い掛かってくる経験値三倍ペナルティという近い将来の現実というのは、さすがにいささかヘビー過ぎると思う。
話についていけないといけないので説明すると、一般的にMMORPG《New World》で初心者プレイヤーがかなり頑張って、一般職の場合Sグレードに、つまりレベル70以上にするまでにかかる時間はおよそ2年だといわれていた。
まぁもちろんそのプレイヤーが選択した種族と職業にもよるが。
但しそれはあくまでも一般職の話。公式マゾチートである特殊職はそうはいかない。
全特殊職の中でソロでの狩りも範囲パーティも討伐モンスター狩りも何でもこなせたために、最もレベル上げがしやすいといわれていたダークエルフの万能魔法火力職『メイガス』ですら、普通にやって2年半。
……全特殊職最悪といわれたアルケミストに至っては、環境の整っていたほうであろう俺のギルド『十七人の賢者』の猛者たちですら、平均すると3年半かかっていたのだから。
さてここで再び算数のお時間である。
当時の俺たちの一日平均狩り時間4時間×365日×3、5年=およそ5110時間。
つまりアルケミストを一人、三次職である『ヘルメス・トリスメギストス』にするには時間にして5110時間必要だという計算になる。
これは日数になおすとさらに分かりやすくなるので、5110時間を24時間で割ると、
5110時間÷24時間=約212日という答えが出る。
つまり24時間耐久レースでうちのギルドのメンバークラスの一流プレイヤーが高効率で狩りをやったとしても、約212日かかる計算になるほどアルケミストからヘルメス・トギスメギストスへの転職には膨大な時間と血の滲むような労力が必要であったのだということが分かる。
……オンラインゲームに価値を見出さない一般の方からすればアホ過ぎるとしか思えないだろう。こうして数字にして振り返った今なら俺もそう思うよ、本当に。
もっと言うなら仮にこの時間を使って時給800円のアルバイトをやっていたとしたら、
時給800円×5110時間=4,088,000円。
……400万円以上ですね、ハイ。親父、お袋、マジでゴメン。ネトゲしてなきゃ学費半分出せたわ、俺。
おっと脱線してしまった。話を元に戻そう。
さてと、では次にこの絶望的な時間をさらに1.5倍にしてみよう。だってこれからの俺に必要になる数字は2ではなく3倍だから。
5110時間×1.5時間=7665時間。
さらにさらに、それをあちら(前世)もこちら(今世)も変わる事のない一日の時間である24時間で割ると?
7665時間÷24時間=約319日。
ついでに前世の平均プレイ時間である4時間で計算すると、
7665時間÷4時間÷365日=5.25年
となり、一日4時間ペースで頑張っても5年と3ヶ月かかる。
つまり俺が『ヘルメス・トリスメギストス』の座に『返り咲く』には、一日24時間一時も休まずにレベル上げにいそしんだとしても、約1年まるまるかかるほどの時間が必要になるということだ。
いつ飯食えっちゅうねん……。
もしくは、毎日4時間モンスターどもに追われつづける生活を5年ちょっと……。
今この時ほど、自分が理系でしかも子供の頃そろばん習っていたせいか、暗算が得意なことを恨んだ事はなかったよ、ママン……。
さらに今列挙した全ての数字は、『命の危険』や『迫り来る死の恐怖』といったリスクがまったく存在しなかった『前世の世界のディスプレイ越し』だから出来た事であって、実際に今世やるとなるとレベルが上がりきる前に、俺の精神が死ぬ。間違いなく逝く。
だってさ、あいつらマジで殺しに来るんだよ? 俺のこと。殺気とかマジで半端ないんだよ? 大丈夫とかいうそこの誰か! 一回でいいから包丁とか目じゃないでっかいナイフ持った緑の顔の気持ち悪い小人さんの集団に追い回されてごらんよ! 俺の言ってることの意味が分かるから!
そんなの無理……、超無理ゲー。ていうか転生するとき(最初に)気づけよ俺……。
そこまで脳みそが動き出した途端に猛烈に嫌な回転をして俺の人生お先真っ黒です、どうもありがとうございました、と結論を出しやがったところで、ふと寝台脇にあった鏡を見ると、今まででも最高クラスのひどい寝癖と目の下のふっといくま。
そりゃそうだよな! こんな超弩級の心労喰らったらな!
正直まったく寝た気がしません!
……その上、今日はあの『怪物』どもとO☆HA★NA☆SIしないといけないんだとよ……。
万全の状態でも謹んでお断りしたいんですけど!?
あぁ早くマリエルに会いたい……。じゃないと胃に穴が開いちゃう……。
◇◆◇◆◇◆◇◆
美味い……、何これ美味すぎる……。
疲れきったこの体に染み渡るこのポトフのおいしいこと……。
人参、小さなカブらしき野菜、それにジャガイモと厚切りベーコンがよく煮込まれてて、マジですごいおいしい。さらにこの荒挽きの小麦を使って焼かれたパンとの相性も最高……。
こうやってポトフのスープにパンをつけて……、うん間違いないね。
「ジオ様」
「しょうね~ん」
ん? 誰かが俺を呼んでるなんてことはないよ? そんなの聞こえない。今の俺は目の前の飯を食う為だけに生きてるのだから!
「ジオ様」
「しょうね~~~ん」
聞こえない。俺には何も聞こえない。聞こえないったら聞こえない。おっ、ソーセージまで入ってる! うむ、美味い! コックを呼べ!
「……ジオ様」
「し・ょ・う・ね・ん♪」
……聞こえない振りをしていればいつか嵐は通り過ぎる、そう思っていた愚かな時期が俺にもありました。
分かったからシラン! 頼むから槍持ち出すな! 穂先を微妙にこっちに向けないで! あとミリーさんは室内で《ファイヤーボール》詠唱しないで! オープン直前に燃えちゃうから!
というわけで食後の休みももらえずにシランとミリーさんに引きずられて宿の応接室へ連れて行かれる俺。
……あ、ドナドナが聞こえる。
◇◆◇◆◇◆◇◆
――それはジオが目覚める数時間前。まだ薄暗い早朝のこと。
早朝の宿というのは忙しい。掃除、洗濯、早起きの客のために食事の支度など息をつく暇もないほどである。未だオープン前の『冒険者の止まり木亭』であるが、この数日は自分たちの主人というべき少年とその関係者がオープン前のチェックを兼ねて滞在している為に従業員一同、朝から懸命に働いていた。
そんなあわただしいながらも静かな朝の宿の一室に大声が響く。
「ミリー様! シラン様! ご説明願います! 一体、何なのですか彼は!? あの爆発する樽! レンジャーとウィザードのスキルを一人で発動できること! 自分のこの目で見たことなのにまだ信じられない気持ちなんです! 何か分かってらっしゃるならどうか説明してください!」
昨日一日の非常識の連続で幾分やつれた顔をしたデュー・ワトキンスが目の下に大きなくまを作り、彼にしては珍しく、そう職業的に聖職者の一種たる『オラクル』でありいつも穏やかで口元から笑みを絶やさない彼としては非常に珍しい事に、声を荒げ目の前で食後のお茶を楽しんでいる主人とその盟友、二人の怪物を問い詰めていた。
「デュー、朝からどうしたの? 眠れなかった? 布団が合わなかったのかな?」
「小僧、朝から五月蝿い。せっかくのお茶が不味くなる」
「馬鹿なことを言ってはぐらかさないでください! 『アレ』を見てそのように平気な顔をしていられるのはお二人だけです!」
小さく肩をすくめる茶色の髪の男と桃色の髪の女。
ミリーは思う。声を上げているデュー・ワトキンスは自分の股肱であり、戦闘、ギルドの運営、商会での活動、さらにプライベートな面でも自分の秘書の役割を務めてくれている有能な男であるのだが、いかんせん聖職者の端くれであるからなのかもともとの性格なのか、常識にとらわれがちで理解と認識の間が短すぎて真実や事実に対し追究する力が弱い。
分かりやすく言えば「頭が固くて察しが悪い」のである。
昨日のまるでバーゲンセールのように惜しげもなく曝された異常事態の中で一番異常だったのは、見たこともない爆発を起こす樽ではなく、年端もいかない少年がたった一人であの強大な『討伐モンスター』を倒したことでもなく、ましてやその少年が見せた戦士職と魔法職の両立といった奇跡でさえなく、あの場にいたものにさえ『目で見ることが決して適わないところ』であったのだが、おそらくそのことに気づいているのは自分ともう一人だけ。目の前で大声で騒いでいるデューはもちろん、もう一人の連れもそう。さらには少年を鍛え上げた軽戦士も、そして少年本人ですら気づいていないかもしれないと彼女は考えていた。
その『見えない事実』に比べれば他のものなど正直何ほどのものでもないと、彼女は自分が茶葉を持ち込んで入れさせた香り高い南方産のお茶を飲みながら思う。
まったく面白いものを見せてくれたものだ。その点だけはこの男に感謝しないといけないなと思いながらもう一口お茶を口に含む。
――但しお代は非常に高くつきそうであるが。
そうした中で彼女がふと目をやるともう一人の部下であるガデス・アルドレも、ワトキンスに任せて口こそ出してこないがその表情が雄弁に昨日の異常事態の説明を求めていた。幼少の頃より自分に仕えてくれている二人の、そのあまりの常識人さにミリーは内心やれやれと思いながら隣で平然とお茶を飲んでいる男の爪の垢でも飲まそうかと思ったが、即座にその考えを否定した。
(とてもじゃないけどこいつみたいな部下、僕は要らない。そういえばもう一つあったな、ありえないこと。
……ほんと、あの子はよくやってるよ)
ミリーからすれば自分たち二人だけが気づいているであろう事実以外では、昨日の数々の出来事より、『あの人』以外に今自分の隣に座るこの男を未だ15歳にもならない少年が曲がりなりにも御す事が出来ていることが何よりの異常事態であり、正直にいうとデューもガデスも何故その点について何も言わないのだろうか? と不思議でさえあった。
(まぁ……、久々に大きな商談だね。さてどうなることやら……)
ちらりと様子がまったく変わらない隣に座る商談相手を見てから、迫り来る武器を交えぬ戦いへの期待と興奮をいささかもその表情に表すことなく、『ギーレンの魔女』とその古馴染みの男は静かに時を過ごす。
大陸西方の大国、エルトリン王国の首都の片隅にある小さなオープン前の宿屋から嵐が巻き起こった日の朝は、こうして慌てふためく常識人2人を除き比較的穏やかに過ぎていったのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
というわけで先ほどドナドナされた俺は今、宿の一階にある応接室にいる。
白を基調としたシンプルな作りに、目立たないが凝った作りの樫のテーブルや椅子がセンス良く置かれていて落ち着く大変よいお部屋である。
あの後であるが、一応朝食は全部食べさせてもらえた。どうも無視されたのが気に食わなかったようで、「分かったから! ちゃんとするから!」と俺が叫ぶとようやくドナドナ状態から開放されゆっくりと朝ごはんを食べる事ができたのだった。
その開放される直前の二人の目がやべぇことやべぇこと……。893さんも裸足で逃げ出すよ、アレじゃ。その時シランに、私たちはもう随分前に食事を済ませて長い時間ジオ様をお待ちしていたのですから、とか言われたがそんなの俺は悪くないと思う。
絶対悪くないと思う! もっと俺はワガママいっていいと思うんだ! だって13歳だし!
うん、そんな言い訳があの化け物どもに通じるわけがないね。諦めよう。一人でも十二分に手に負えないのにそんな奴が二人とか……。
ちなみに今の部屋の中がどうなっているかというと、まず2人がけのソファーに座る俺の隣にイナ先生。対面に腹黒とバイセクシャル。その後ろに苦労人なお二人が凄まじく何かを言いたそうな顔で立っている。
何が言いたいんだろ? 職場に関することなら愚痴ぐらいなら今度聞いてあげるのにと、いまいち動いていない頭で考えながらぼ~と話が始まるのを待っている俺。
そうしていると、「正直やる気がない」「早く家に帰って寝たい」、そんな俺が発するオーラを200%理解しているはずなのに平然と無視する腹黒男が、後々まで俺が忘れる事ができない大商いの口火を切った。
「ジオ様、まずは昨日はお疲れ様でございました。こちらがジオ様がお勝ち取りになられた戦利品でございます」
そういってシランが並べたものは、鉄製の大剣一振りと鉄製の鎧を含めた防具が7点。
あぁ、衝撃の事実のせいですっかり忘れていた。討伐モンスターは普通のモンスターとは違い、武器や防具、もっとレベルが上がればアクセサリーなどのアイテム、いわゆる『現物』を高確率でドロップする。
経験値だけならば普通に狩りをしていたほうが効率がいいにも関わらず、多くのプレイヤーが討伐モンスターを倒すのはこれが大きな理由である。
一言で言うと、討伐モンスターは金になる。
但しMMORPGをやったことのある人なら分かると思うけど、昨日の俺のアレは例外中の例外。実際《New World》内でも破格の条件が整ってなきゃ出来なかったし、仮に条件が整ったとしても他の討伐モンスターならともかくあの骨相手には絶対無理だったしな。
あの骨はマジで強いんだわ、ホント。実際ギルドメンバー総出で適正レベルのアバター作って、強化限界装備持ち寄って、最強バフかけて、ソロ討伐試してみたこともあったけど失敗したしな~。
そんな懐かしいことを考えながら机の上の武器防具に目をやると、剣は人狼族の戦士職が好んで使う両手剣である『アイアンツーハンデッド』、防具はあのリーダーらしき人がつけていた『アイアンアーマー』の他、同等クラスの腕防具や頭防具などが6点といった具合である。
本来なら参加者全員でこれらの品々をその場でオークション形式で売買しGに換金した後、合計金額を人数分で割って解散というのが普通の討伐モンスター後の流れなのだが、昨日奴を倒したのは当然俺一人。つまりこれらの品々は俺の総取りである。
武器1点、防具7点合計での購入代金が、NPCの店売りで14,320G。
まぁ何とか半分は回収できたといったところだろうか。ちなみにあの『黒色火薬樽』、現状では一個4000Gは下らない代物だったりする。つまり昨日俺は2万G以上を派手にぶっ飛ばしたわけだ。
まぁ今回の散財は俺にとっても決して軽くはないが、今回は今までの実験の総決算という意味合いもあるし、レベルを4あげることと引き換えなら悪い話ではない。それにあの使い方は本来の『黒色火薬樽』の使い方ではないのだから。だから今回の手に入れた現物ははっきり言っておまけ。グレード最強装備もないしな。というわけでこれらの代物はとりあえず……、さっさと金に換えよう。
「ミリーさん」
「はいはい♪ 何かな? 少年」
「これ全部、いくらで引き取ってくれます?」
「ん~、ざっと1万でどうかな?」
「……随分高い値を付けてくれますね」
「うちの商会で定価で売れば、こっちに損はないからね。昨日はいいもの見せてもらったしこれくらいはサービスだよ♪」
うん、まったく問題ないどころか完璧に俺の予想上限価格ぴったりだわ。さすがギーレンの商人というべきか。
ギーレンというのは大陸の中ほどに位置する共和制を敷く国家で、その中心であるギーレンの街はエルミオン海に開けた海港都市にして大陸最大の商業都市である。というのがいわゆる《New World》の公式説明。そしてその実に違わず実際のゲーム内でもプレイヤー達の最大拠点となっていた街である。
何故ならとにかく広場が広い! だから露店がし易い! そしてCグレード中位までの装備品が売っている唯一の街(他はDグレード最強まで)であり、各種コモンアイテムの作成に必要な店売りアイテムが全て揃っている点や、大陸西部と東部の各都市や40~60台までの有望狩場に直接ゲートキーパーから飛べる有用さなどなどから、一度は誰もが根城にしていたゲーム内最大の街であった。
懐かしいな~、第二次ポーション封鎖とか……。色々やったなぁ……我ながら。
「お~い少年、どこにいっちゃってたのかな? 僕を前にして余裕だね~」
ニコリと笑ったミリーさんの声で我に返った俺は、思わず大量の冷や汗をかくこととなる。
全然目が笑ってない。完全に物に値段つける商人の目してるんだもの……。付け加えるならシランもたまに同じ目をする。こっちの何かを探るような、なんていうかガラス玉みたいに無機質な目。マジでこいつら同類か。
やっべぇ、頭切り替えないと……喰われるな。
そこでいつものようにカチンと音が聞こえた気がして俺は自然と集中状態へと移行する。正直時間をかければもう少し高い値で売れなくもないのだろうが、ここは素直に現金に換えておいたほうがいい。本気で自分で売る手間を考えれば1万Gという値付けはかなり良心的な額といえるから。
「すみませんでした。ではそのお値段で引き取りお願いします」
「……へぇ、いいんだ。その歳で物の相場が分かってるのか、たいしたもんだ」
感心したよう言い、小さく笑う目の前の桃色の髪をした女。昨日は唐突な登場と討伐前の緊張感で余裕がなくてまるで把握できなかったのだが、落ち着いてじっくりと相対した今なら分かる。
――この人も間違いなくシラン級、もしくはそれ以上の難物だと。
昨日確か彼女はこう言った。『僕は商人としてはギーレン市商業連合の十二人委員会の一員』だと。
ギーレン共和国連合は、《New World》の製作スタッフが間違いなく歴史上『千年共和国』、『最も高貴な国』、『アドリア海の女王』と呼ばれたヴェネチア共和国を意識して創った街である。町並みは明らかに現在も中世当時の面影を色濃く残すヴェネチアの街の面影を色濃く写し取ったもので、美しい白大理石の街は多くの運河と橋でブロックごとに分けられていたし、ゴンドラ観光なんてプチイベントまで存在していた。さらに彼女の言った『十二人委員会』というのも実際歴史上に存在したヴェネチア共和国の『十人委員会』を基にしたものだろう。
ついでに言えば多くのプレイヤーが文字通り隙間なく通行の邪魔になるほど露店を広げていた広場の名前は『サン・マルティクス広場』。『マルティクス』とはイタリア人に多い名前であるマルコの語源である。
その昔、水浸しにならないよな? とギルドメンバーとチャットで笑いあったのはいい思い出だ。
つまりこの目の前の女性は、中世ヨーロッパ世界の中で最も長く繁栄を誇ったヴェネチア共和国の最高統治機関に類するものの一員ということであり、その経済的、社会的影響力はシランはおろかエルトリン王国の貴族である父上ですらその足元に及ばない事は容易に察する事ができる。
つまり言動がどうであろうが、性癖がどうであろうが、現在大陸でも有数のVIPでありながら、大陸でも数少ないAグレード冒険者、そして”あの”シランがその双方において『大陸有数』としぶしぶながらも認める怪物であるということ、その事実をしっかりと頭に叩き込んだ上で俺は俺の目の前でいつもの笑みを浮かべるシランに聞くことにした。
「さて、シラン。俺はミリーさんとこの後何を楽しくおしゃべりすればいいのかな?」
◇◆◇◆◇◆◇◆
その俺の言葉に反応したのは、意外にもミリーさんの後ろに立っていた苦労性なオラクルのワトキンスさんだった。
「少年、いやジオ・パラケルスス! あれは一体どういうことだ! なぜ君はレンジャーのスキルとウィザードのスキルを両方使うことが出来る!? それにあの『爆発する樽』は一体なんだ! 私たちに……」
そこまで話したところでワトキンスさんの声が止まる。俺の前に座る女性からあり得ないほどのプレッシャーが噴き出していたからだ。
一気に凍りついた室内の空気。唾を飲み込むのもつらく感じるほどの圧力。
やがてわずかに顔を斜め後ろに捻っておもむろに口を開く桃色の悪魔。
「……デュー、お前は僕に恥をかかせたいのか?
……すまなかったね、少年。部下が無粋なことを言って」
そこで一度言葉を切った彼女が小さく息を吐くと同時に、部屋を占領していたプレッシャーが雲散霧消した。
やばいこの女、俺の想像以上だ。さすがのイナ先生も俺の隣で顔を真っ青にしている。正直俺が耐えられているのは非常に腹立たしい事だが、目の前に座ったもう一人の人間、シランのおかげだろう。
――野郎、あのプレッシャーの中でもまったく変わらずお茶まで飲んでやがるんだぜ?
そんなもの目の前で見せられたら逆に肚が座っちまった。なんたって俺はこいつの主らしいからかっこ悪いところは『あんまり』見せられないのだ。あの日約束しちまったからなぁ……。退屈させないって。
それにしたってまったくお前みたいな化け物は一人で十分だっつうの。
そんな目でシランを見ると小さく頭を下げてきやがった。おいおい俺の頭の中読んでるだろ、お前。
そんなやり取りをしてから何とか自分を立て直した俺はあらためて言葉を続ける事にする。
「え~、あ~、そうですね、昨日見てもらったあの爆発する樽の製造法を買ってくれるとシランからは聞いているのですが?」
そこですかさずシランが俺の言葉を引き取る。ナイスフォローだ、腹黒!
「とジオ様がおっしゃっているが、さて『アレ』の製造法にいくら出す?」
ん~と腕を組んだまま首をかしげ、やがて右手の人差し指を一本立てるミリーさん。
一本ってことは……?
「100万ってことですか?」
100万G、確かに大金である。前世換算で約1億円。今までの俺の支出を補って余りある額だが、はっきり言って安すぎる。俺が作り出したチートアイテムとその製造法にまつわる様々な新しい考え方の価値はそんなものではないはずだからだ。
そう思って断ろうと動かしかけた唇にいつのまにかミリーさんの先ほど立てた人差し指が当てられていた。
「早漏は嫌われるよ? 少年。というわけでここからは大人の話をしようか。……イナ・サラシス、しばらく少年とシラン、そして僕の三人だけで話をさせてもらえないだろうか?」
そういってまずは自分の背後を振り返り、護衛でもあるのであろう二人に退出を促すミリーさん。同時に俺にではなくシランとアイコンタクトを交わし、頷いたシランを見て立ち上がり俺に、しっかりな、とだけ言って席を立つイナ先生。
その後にワトキンスさん、アルドレさんも続きドアが閉まった音の後、部屋に残ったのは俺と2人の人の皮をかぶった『何か』だけになった。
シランがおもむろに席を立ち部屋の片隅にあった籐製の丸椅子を持ってきてちょうど俺とミリーさんと三角形になる形で座る。
どうやら傍観するつもりらしい……。ここ数年の付き合いのせいか、面倒な事にこいつの考えは分かりたくないところだけは良く分かるのだ。
シランが再び腰を下ろしたことを確認してもう一度その女性らしい細い指先を立てて俺に尋ねるミリーさん。
「さて……少年。『1億』だ。『条件付きで1億』。さて君はどうする? 乗るか? 反るか?」
そう、ここまでの全てはただの前座。ここからがこの長期休暇の本番であったことを俺はこの後知る事となる。
お読みいただきましてありがとうございます。
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