↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
99/160

第99話 出勤するやり方(4)

俺は7時40分に正門を通る。


正門の警備室の窓が開き、俺は出入証を差し出し、遮断機が上がる。


警備員は俺の顔を見ない。出入証の写真を見る。


かばん検査はない。


この建物は、持ち込むものは検査しない。持ち出すものだけを検査する。


この部署でいちばん危険なものは外からは入ってこない、と建物は知っているらしい。


その写真は6年前に撮ったものだ。


更新期限が切れているという案内が、3か月前から俺の机に貼ってある。


警備員はそのことを知らない。


警備室の端末が読むのは写真ではなく番号だからだ。


この建物で俺の顔は6年間更新されていない。誰もそれを問題にしない。


番号が合っていれば、人間も合っていることになる。


本館の玄関から階段で3階へ。


この階と3階の間の踊り場の窓に、古いひびが一本ある。


ひびは年々少しずつ伸びていく。施設係は、ひびが窓枠に届くまでは交換対象にはならないと言った。


俺は、そのひびが窓枠まであと何年残っているか計算したことがある。


俺の定年より少し遅かった。


エレベーターには乗らない。


エレベーターの中には鏡がある。鏡が嫌いなわけではない。


ただ、鏡の前に立っている時間は、階段を上る時間より長く感じられるだけだ。


事務室の扉を開けたら、窓際のブラインドを半分だけ上げる。


半分だ。


全部上げると、午後の日差しが書類に当たる。紙が黄色くなる。


この言葉を誰から最初に聞いたか、俺は覚えている。その人も、誰かから聞いたと言っていた。


書類に日差しを当てるなという言葉は、この部署で代々受け継がれてきた言葉だ。


この部署が名前を3つ変える間、その言葉だけは変わらなかった。


椅子に座る。少し回して、斜めに座る。


正面に座ると、向かいの椅子が空いているのが見える。斜めに座れば見えない。


その癖がいつ身についたのか、俺は正確に知っている。


正確に知っていることと、口に出すことは別の話だ。


ポケットから薬の瓶を出す。机の右端に置く。


今日は飲まない。飲まない日でも、出しておくのが順序だ。


これが俺の出勤のやり方だ。18年のあいだ、同じだった。


* * *


その朝も、報告書は机の上にあった。


5日前の刑務所の事件の、現場報告書だった。


俺はそれを、もう4回読んでいた。


停電中の騒乱、負傷者多数、収容者1名の独房移送、子供1名が意識不明。


管理局の出動記録、現場への到着時刻、無線記録。


無線記録には、俺の声が1行ある。


俺はその行を読まずに飛ばす。自分が言ったことは、自分で知っている。


5回目に読んだときも、俺は同じページで止まった。


目撃者陳述の要約、11番目の項目。


陳述者は、現場にいた刑務官だった。


舎棟の窓から運動場を見下ろしていた収容者2人の陳述も、同じ内容だった。


収容者(KR-07)が、倒れた子供の手首を握り、何かを一針ずつ縫うような動作をした。


陳述者の表現、そのまま。


「子供の中の破れたところを縫っているようだった」


報告書を書いた職員は、この項目の横に括弧を付けていた。


(非専門家の比喩的表現と判断)


俺はその括弧をボールペンで消さなかった。


他人の報告書に線を引くのは、正確な仕事ではない。


代わりに、付箋を1枚貼った。


付箋には何も書かなかった。


白紙の付箋が、その括弧を隠した。


子供の中の破れたところを縫う。


俺はその一文を、18年のあいだ待っていたのだと、そのとき知った。


待っているとも知らずに待っていた。


そういう待ち方がある。


* * *


ドアが2度鳴った。


ノックはいつも2度だ。3度叩く人間は、この階にはいない。


ラーメンだった。


会議の席では、俺はラーメンを役職で呼ぶ。一人で考えるときはラーメンだ。その理由を一番よく知っているのは、ラーメン本人である。


8か月前、ラーメンは白い部屋にカップラーメンを1つ、間違えて持ち込んで経緯書を書いた。その経緯書は今も、俺の引き出しの2段目にある。


ラーメンはコーヒーを2つ持っていた。1つを俺の机に置いた。


俺の机の上の薬入れを見て、薬入れを避けて置いた。ラーメンは1年あまり、その薬入れを避けてカップを置いている。避ける角度は、月ごとに正確になっていく。


「室長、その報告書、また見てるんですか?」


「5度目だ」


「僕は2回で頭が痛くなりましたよ。刑務所の騒ぎを、なんでうちが被らないといけないのかも分かりません。電力会社が設備に異常はないって言うのに、なんで停電が起きるんですか」


「だから、うちが被るんだ」


ラーメンは、その言葉を理解した顔をした。理解できなかったときにする顔と、同じ顔だ。


ラーメンの顔は、1年あまりのあいだに、その2つを区別できなくなるところまで進化した。


「文書庫の鍵、受け取ってきてくれ」


「地下ですか。あの、閲覧台帳を書くところのですか」


「ああ」


ラーメンがため息をついた。


地下の文書庫の閲覧台帳は、出入りの時刻を秒単位で書くことになっている。文書庫の担当は、定年を1年後に控えた主務官で、彼は人が書いた秒を、自分の腕時計と突き合わせる。


先月、ラーメンは14秒を15秒と書いて、閲覧台帳を書き直した。1枚まるごと。


担当の主務官は、間違った欄だけ直すと、他の欄がその欄を疑うのだと言った。ラーメンはその言葉を、飲み会の席で3度真似てみせた。3度とも正確だった。


「何をお探しですか」


「俺のだ」


ラーメンは首をかしげた。文書庫に室長の私物があるはずがない、という顔だった。


俺は答えなかった。


ラーメンは、その答えのなさを何度も経験してきた人らしく、コーヒーを1口飲んで出ていった。


ドアを閉める前に、ラーメンは言った。


「秒単位ですよ、室長。時計を合わせてから降りてください」


* * *


封筒は、文書庫ではなく、俺の机の一番下の引き出しにあった。


ラーメンを地下へやったのは、その間にこの引き出しを一人で開けるためだった。


その程度の嘘なら、この部署では仕事のうちに入る。


引き出しを開けるには、鍵が二つ要る。一つは俺の鍵束に、一つは薬入れの底にテープで貼りつけてある。


18年の間に薬入れを何度替えたか、もう分からない。替えるたびに鍵を剥がして、新しい薬入れの底に貼り直した。


薬は替わった。鍵はそのままだった。


引き出しの中には、茶色い書類封筒が一つあった。


18年前のある朝、この封筒は俺の机の上にあった。出勤してブラインドを半分まで上げ、椅子に座ったとき、決裁板の上に置かれていた。


誰が置いていったのかは、表の字で分かった。あの人は前の晩、遅くまで事務室に残っていた。


警備日誌には、退庁時刻が23時52分と書いてあった。あの人は退庁時刻を、いつも分の単位まで正確に書く人だった。


その日は、あの子の20歳の誕生日の翌日だった。


俺はその朝、この封筒を開けなかった。午後に作戦があった。


10時間後、俺はこの封筒を引き出しに入れて、鍵をかけた。


その日の晩には、この封筒を開けていい人間が、もう誰も残っていなかった。表の条件を満たせる人間が。


厚い。


封筒の中に、さらに小さな封筒が何通か入っていることを、俺は知っている。重さで知っている。


開けたことはない。受け取った日に、一度持ち上げてみただけだ。


表には、字が一行だけあった。罫のない封筒なのに、その一行は見えない枠の中にきちんと収まっていた。


あの子が戻ってこられるようになったとき、開けてください。 —キッド


あの人には、自分の名前が書けなかった。だから、あの子がつけてくれた名前を書いた。


俺はその名前を、声に出して呼んだことがほとんどない。あの人は、俺がそう呼ぶと笑った。


笑うやり方は、古い人間のやり方だった。口の端ではなく、目の下が先に動いた。


あの子が戻ってこられるようになったとき。


私は18年のあいだ、その時は来ないと思っていた。


いや、その時というものが、そもそも最初から存在しない欄なのだと思っていた。


あの子は戻れなかった。あの日以来、あの子に関する書類はすべて一つの欄に整理された。


死亡。死因は過労。


私はその書類に印を押した者の一人だった。


その欄に入った人間は戻らない。それが欄の規則だ。


ところが5日前、一人の刑務官が、運動場で見たことを不器用な言葉で書いた。


子供の中の破れたところを縫うようだった、と。


私は封筒の封をナイフで切った。


手は震えなかった。


震えないことが奇妙だった。


震えるべき手が震えないとき、私は自分の手を、他人の手のように見る。


あの人も、自分の手は自分よりまっすぐだと言ったことがある。


* * *


そのとき、机の上の電話が鳴った。内線だった。地下文書庫だった。


「室長、文書庫です。今降りてきた職員が、閲覧目的の欄に『室長の私物』と書いたのですが」


定年を1年後に控えた主務官の声は、いつも同じ高さだった。


「文書庫に私物はありません。目的の欄を書き直させてください。それから、入室時刻を9時14分07秒と書いていますが、私の時計では06秒でした」


「その職員に、台帳を新しく書くように言ってください」


「一枚、丸ごとですか」


「一枚丸ごと」


主務官は満足した声でわかりましたと言い、電話を切った。


私は受話器を置きながら、ラーメンに少し申し訳なかった。ほんの少し。


あの1秒が、ラーメンを地下に5分余計に引き止めるだろう。


小さな封筒が出てきた。九つだった。


封筒ごとに、外側に番号があった。1から9まで。


そして1番の封筒の中の最初の紙、最初の行。


私はただの公務員でした。


私はその一文を読み、椅子を回して正面に座り直した。


向かいの椅子が空いていた。


18年のあいだ、見ないようにしてきた空の椅子だった。


私はその椅子を、長いこと見た。


あの一文は嘘ではなかった。


あの人は正確なものを好んだ。ただ、あの一文は最初の枡だった。あの人が好きだった決裁板の、いちばん右下にある、いちばん小さな枡。


その上にまだいくつの枡があるか、私は知っている。その枡を全部埋めるのに、あの人は6年かかった。


私は、その6年の担当者だった。


ラーメンが閲覧台帳を一枚、丸ごと新しく書き直すのに5分。主務官の時計と秒を合わせるのに2分。階段を上がってくるのに3分。


私には、10分ほどの時間があった。


1番の封筒を読み終えるには10分以上かかると、私は知っていた。ラーメンが戻ったら、コーヒーをもう一杯頼むつもりだ。


ラーメンは、なぜだと訊かないだろう。それも、1年ほどのあいだに正確になったことだ。


私はボールペンを取り出した。この陳述に、メモを付ける。


あの人が、他人の手記にメモを付けるのを何よりも嫌っていたのを、知りながら。


メモは原文の外に、枡の外に書く。あの人が私に教えてくれた規則だ。


これが、あの人の出勤のやり方だった。決まった順番どおりに、枡の中に、きちんと。


そして、これが私の出勤のやり方だ。私はその順番をあの人から学んだと、今日、初めて認める。


* * *


九つの封筒のうち、彼女がその日に開いたのは、一つだけだった。


残り八つの重さを、彼女は引き出しを閉めるときに、手のひらでもう一度量った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。