第95話 手
子供の手のひらが、下り始めた。
封印の枠を閉じる手だった。円の線が土の床で光った。光というより、土が少しだけ白くなった。円の中の空気が折れ始める。外から内へ。円が狭くなっていくようだった。腰のあたりで止まっていた黒いものが、その折れ目に押されて俺のほうへ流れてきた。
俺は戻れなかった。それは分かっていた。白いものの中を通ってこの空へ落ちた者に、戻る扉はない。司祭は裂け、扉枠は壊れた。封印官がこの枠を閉じれば、俺はこの運動場の土の中に閉じ込められる。初霜の日、城中庭でそうなるはずだったように。計算は合っていた。封印官の前で署名したときのように。
だが、俺の中の縫い目が開いていた。組み合わさった欠片と欠片の間が。封印官が押し込んだ欠片はどれも元の場所に収まった。だが、その場所を縫い留めた糸が弱かった。このまま閉じ込められれば、俺は枠の中でまた散る。白いものの中でしたように。名前を呼んだばかりの者が、その名前をまた失ったまま。
俺は手を伸ばした。円の線の向こうへ。子供の手首に向けて。
* * *
子供の手首を掴んだ。
初霜の日の朝、司祭の手首を掴んだの手だった。あの日は手袋をはめていた。今日は素手だった。指先は第一関節まで黒くなかった。この身体の手だった。子供の手首は細かった。司祭の手首より細い。俺の指はその手首をひと回りして、まだずっと余った。
子供が俺を見た。子供の顔で老人が驚いた。両方の眉が上がった。
「またその所業か? 今度はこの子の魂か?」
「魂には触れません」
俺は言った。丁寧語で。師と同じ年に学堂を出た者に対して。
「少しだけ借ります。この子供の中を流れているものを」
そして、それを持ってきた。
巻物のやり方ではなかった。名のないものを呼ぶ法でも、捕まえずに解き放つ法でもない。その逆だった。名のあるものを、名を呼んだ者の手で、しばし掴む法。師が教えた法。名があってこそ掴め、掴めるからこそ収められる。この子供の中を流れているものの名を、俺は知らない。なのに、それは他人の老いだった。誰かの名が付いていた時間だった。その時間が逆に流れていた。逆に流れるものは掴みやすかった。川が逆流するとき、手を触れれば手のひらに引っかかるように。
子供の手首から、それは俺の手のひらへと移ってきた。
冷たくも温かくもなかった。時間だった。
手のひらから手首へ、腕へ、胸へ。俺の内側で開いていた縫い目、その一つひとつに、それは染み込んでいった。
逆流する時間が縫い目に沿って流れ、縫い糸を引いた。裂けた場所が一つ、また一つと窄まっていく。
カチッ、という音ではなかった。針が布を通る音。ごく小さな音。一針、また一針。
開いていたものが、かろうじてくっついた。完全ではなかった。縫い目の跡は残った。それでも、くっついた。
学堂の門の敷居。師の灯火。マセルンの冷たい手。エスベルの三つの井戸。十一の森。初霜の日の城中庭。司祭の温かい手。あの騎士の6年。白い部屋の板。この刑務所での2年半。
それらは一枚に重なり、縫い合わされた。
その縫い目を縫い留めた糸は、他人の時間だった。
* * *
子供の手が震えた。
俺の手のひらに移った分だけ、子供の中の流れは減っていた。逆流していたものが遅くなり、そして、止まった。
子供の体の中で、時間が止まった。前へも後ろへも流れない。
子供が息を呑んだ。子供の息だった。老人の息ではなかった。
子供の顔から、何かが抜け落ちた。両側に吊り上がっていた眉が下りた。まっすぐだった背が曲がった。老人がその体を掴んでいた力は、逆流する時間だった。空と空の間の裂け目を広げてやっていた、その時間。その時間が止まると、裂け目は狭くなった。老人はもう、その裂け目に掛かっていることはできなかった。
子供の口が、最後に老人の話し方で動いた。語尾を長く引きながら。
「そなたは……最後まで、算段が早いのう……」
その語尾が長く尾を引き、途中で切れた。
切れた先に、老人はいなかった。
どこへ行ったのか、俺には分からない。空と空の間のどこかへ押しやられたのだろう。消えたのか、戻ったのか。俺には決められない。
封印官は、俺を閉じ込める枠を新しく組んだ人物だった。
その男は、いつか自分を取り出す枠も新しく組めるだろう。
子供の体が、俺のほうへ倒れてきた。
俺は子供を受け止めた。円の線の上で。
円の土が、また元の色に戻っていった。
封印の枠は閉じなかった。
円の中に満ちていた黒いものが、ゆっくりと土の中へ沈んでいった。
回収されたわけではなかった。この地面の下へ降りていった。舎棟の床下へ降りていったときのように。
* * *
子供は軽かった。はしごの下で数を数えていた子を抱えて塀を登った日のようだった。
子供は目を閉じていた。息はしていた。浅かった。
子供の顔は、出国のときより一目で分かるほど小さくなっていた。8歳くらいに見えた。
前歯の場所は空いていなかった。新しい歯が半分ほど顔を出していた。
その歯がこれ以上生えてくるのか、その場所で止まるのか、俺には分からない。
ただ、この子供の中の時間はもう、逆には流れていなかった。前へも。止まっていた。俺が引き取った分だけ。
黒いジャケットたちが駆けてきた。背の低い要員が、一番先に来た。
その人は、俺の腕の中の子供を受け取った。息を確かめた。無線機に向かって言った。
「児童、意識不明。呼吸あり」
その人は子供を抱えて立ち上がりながら、俺を一度見た。何も言わなかった。
何がどう見えるか、誰にも話すなと言われているからだ。
* * *
正門のほうから、信者たちが脇門に押し寄せてきた。
「代表様」と彼らは呼んだ。
要員たちが彼らを止めた。
子供はワゴン車へ移された。意識はなかった。
信者たちはワゴン車を追って、正門の外へ流れ出ていった。
折りたたみ椅子が13脚、正門の前に残った。真ん中の椅子は最後まで空いていた。
* * *
担架が運動場を横切って来た。地下倉庫の電子扉が、非常用の発電機でやっと開いたという。
停電は、子供が倒れてから10分後に終わった。
舎棟の廊下の蛍光灯が一斉に点いた。ちらつきもなかった。
電力会社の回答は、最後まで「設備に異常なし」だった。
担架の上に、「あいさつ」が横たわっていた。
医療課の刑務官が2人、担架を担いで俺の横を通り過ぎた。
「あいさつ」の脇腹に巻かれた包帯が濡れていた。有効期限の切れた包帯だった。
「あいさつ」の目は開いていた。息をしていた。止まらなかった。
「あいさつ」が俺を見た。担架が俺の前を通り過ぎていく、その間。
この1年半、配膳口の向こうで、たいてい手しか見えなかった人。
入所した日の夜、俺の収容事由書を差し戻した手。
誕生日に、飯の中に餅を隠した手。
今夜、子供の前で退かなかった人。
「お前は悪魔か」と、俺に訊いた人。
「あいさつ」は言った。息をしながら、最後まで。
「こんにちは」
俺は答えた。喉が嗄れていて、声が割れた。
担架は通り過ぎた。
「あいさつ」はその答えが聞こえたのか、一度だけ頷いた。
一度だけ。それが「あいさつ」の最後のあいさつだった。この運動場では。
* * *
4日後、テレビのニュースであの夜のことが出たと聞いた。
独房にテレビはなかった。
班長が、配膳口の向こうから伝えてくれた。
字幕は一行だったという。
「刑務所停電中の騒乱、負傷者多数。原因調査中」
班長はその字幕を読み上げて、騒乱という言葉は間違いではない、と言った。騒がしかったのは確かだから。
同じ日、別のニュースで、宗教団体の子供代表が、海外歴訪のあと健康異常で入院したという短い報せが出たと聞いた。
二つの報せは、別の項目だった。
二つを繋げた者はいなかった。
管理局がそうしたのだろう。欄を分けて。
あの夜から、俺は独房にいる。
独房移送の通知書の、理由の欄には、保護措置、とあった。
括弧の中には、理由確認中。
確認が終われば、理由は変わるだろう。
何に変わるのかは、誰も知らなかった。
そんな理由が入る欄は、この国の様式のどこにもないはずだから。
牧師は病院にいた。
肋骨が三本と、何かもう一つが折れたということだった。
生きていた。
班長から聞いた話では、牧師は病院で、看護師たちから献金の代わりにチョコパイをもらっているという。
相談員も病院にいた。
額を縫い、目を覚ましたということだった。
目を覚まして真っ先に探したのは、書類ファイルだった。
書類ファイルは相談員の腕からついに外れなかった。医療スタッフは、ファイルごと担架に載せたということだった。
「あいさつ」も生きていた。
脇腹を縫った。
数週間は勤務に出られないということだった。
毎朝、配膳口が開いた。
別の刑務官の手が食器盆を押し出した。
その手は何も言わなかった。
蓋が閉じた。
足音が廊下に沿って遠ざかった。
歩く者の息遣いが聞こえた。
「こんにちは」は聞こえなかった。
俺はその空いた場所に向かって、ひとりで答えた。
毎朝。
* * *
五日目、班長が独房の扉を開けた。
手に鉢を一つ持っていた。
相談室の窓辺にあった右の鉢だった。あの夜、俺が相談員の枕元の廊下へ移しておいたもの。
葉は七枚のままだった。一枚は先が少し裂けていた。割れたガラスで切れた跡だった。
班長は鉢を独房の床に下ろし、紙を一枚差し出した。
保管証だった。
相談室の備品、多肉植物1点。
保管者:収容者本人。
保管理由:担当者不在。
班長は、相談員が戻るまでこの鉢は俺が預かるのだと言った。備品台帳では、担当者がいなければ、最も近くにいた者が管理責任を負うという規定があるらしい。
あの夜、この鉢に最も近くにいた人間は、俺だった。
俺は保管証に署名した。
名前の欄に。
この身体の名前で。
その欄は、この身体の名前が入る欄だった。
俺の名前は、別の欄にある。
この国の様式に、まだ存在しない欄に。
班長が出ていってから、俺は鉢を見た。
真ん中の鉢は割れた。
窓の外の鉢は、最初から枯れていた。
三つのうち、生き残ったのは一つ。
2年半前、半分枯れかけていた鉢だった。水をやりすぎて。
相談員が水を控えるやり方を1年かけて覚えて、生き返った鉢。
俺はその鉢に水をやらなかった。
控えることが、この鉢にとっては水をやることだった。
* * *
その夜、俺は独房の床に座って、自分の手を見ていた。
牧師が言っていた。
「一番先に知るのは手だ。手は嘘をつかない」
爪の下が少し黒かった。あの夜から。洗っても落ちなかった。
第一関節まで黒いわけではない。爪の下だけだ。
国境の村で、初めて巻物を使ったときと同じだった。
この手は、この空の下で、名のないものを一度呼んだ。
そして、名のあるものを一度借りた。
逆さまに流れていた時間。他人の老い。
その時間が今、俺の縫い目を掴んでいる。
俺はその時間を感じ取ることができた。俺の内のどこかで。
流れてはいなかった。止まっていた。縫い目ごとに、一針ずつ。
だが、その時間には筋があった。
布に織り目があるように。板に木目があるように。爪を筋に沿わせれば楽で、逆らえば難しいように。
その時間の筋は、この空のものだった。あっちの空のものではない。
誰かが、その筋を最初に織ったはずだ。
この時間がそう流れるように。逆さまにも、前へも。
俺は戻れない。この空の下に残った。
この身体に。この独房に。この鉢のそばに。
名前ひとつと、称号ふたつと、爪の下の黒いものと、縫い目を掴んだ他人の時間を抱えたまま。
その時間は俺のものではない。借りたものだ。
借りたものは、いつか返さなければならない。
返す先を知らなければならない。その筋を織った側を。
鉢のそばで、俺は自分の手を長いこと見た。
手は嘘をつかない。
爪の下は黒かった。手のひらには、四つの溝のような傷痕が半月形に残っていた。
手の甲には、鏡を割ったような白い線が三本あった。
あの騎士のものだった。今は俺のものだった。
独房の天井に、廊下の灯りが細い線を引いていた。
俺はその線を見ながら、この身体の言葉づかいで、自分の口で、一人で言った。
「時間と、少し話をしなきゃならねえ」
* * *
その一族の最後の名『レプラシカ』を、我々は今、記録する。
独房の保管証の名前欄には、別の名前が書かれている。
欄は一行だった。その名前は、そこにぴたりと収まっていた。




