第94話 名前を呼ぶやり方(3)――結び目の月
子どもは、あいさつという男を見た。
土の上に半身を起こした男だった。脇腹には血の滲んだ包帯を巻き、息は荒い。俺に、お前は悪魔かと問うた男。
子どもは、その問いを受け取ったかのように、しばらくあいさつを見下ろしていた。九歳にも満たない体で、五十を過ぎた男を。
あいさつは土の上にいて、子どもは立っていた。
あいさつが問うたのは俺だった。なのに、答えようと前に出たのは子どもだった。
子どもは首を巡らせ、円の中心にいる俺を見た。
腰のあたりまで黒いものがせり上がった、その円の内側に立つ俺を。
子どもは手を上げなかった。手のひらも指先も使わなかった。使ったのは口だけだった。
子どもの口を借りて、老人が、語尾も伸ばさずに言った。あいさつの問いへの答えを、俺に向かって。
「違う。お前は初代魔王、堕落した黒い手だ」
* * *
その言葉が、円の内側へ入ってきた。
魔王。
俺はその言葉を知っていた。この空の言葉ではなかった。あっちの空の、チラカの言葉だった。
奴らは布告文に、俺を売国奴と記した。それは我が国の町々に貼り出された言葉だった。
奴ら自身の陣営では、兵士たちの間で俺を呼んでいた言葉が別にあった。
森から下りてくる者どもの主。名のないものを従える者。
そんな者は、奴らの昔話に一度も現れたことがなかった。
だから奴らは、新しい言葉を作った。初めて現れたものだから、初代だと言った。
魔王。初代魔王。
俺はその言葉を、十一の森を越えた向こうで聞いた。
捕らえられたチラカの兵士が、俺の目の前でその言葉を口にした。膝をついたまま、震えながら。
兵士は十七歳くらいに見えた。顔には産毛が残っていた。
兵士は俺を見まいとして、地面ばかり見ていた。それから、俺の指先を見た。
手袋を嵌める前だった。第一関節まで黒く染まった指先。
兵士はその指先を見て、あの言葉をつぶやいた。祈るように。
そのとき俺は、その言葉を笑い飛ばした。
勝った側がつけようと、負けた側がつけようと、他人がつけた名前は他人のものだと思っていた。
初代。最初の者。
俺が消えた後も、あの座は空かなかっただろう。俺の土地を受け継いだ者が、俺の森を受け継いだ者が、やがてそこに座った。封印官はそのことを知っていて、俺を初代と呼んだ。俺の後に二番目がいた、という意味だった。
堕落した黒い手。
円の中に立ち、俺は自分の手を掲げてみた。
指先からは、まだ黒いものが滴っていた。この身体の指先は、あっちにいた頃のように第一関節まで黒く染まってはいない。それでも、そこから滴るものは同じだった。
手袋で隠していた手。
学堂の地下で巻物を繰っていた手。
司祭の手首を掴んだ手。
新入りの首を絞めた手。
板に二文字を刻んだ手。
端正な字を書いた手。
牧師の手を包んだ手。
あいさつの温かい手を握った手。
相談員の眼鏡を拾って、そっと置いた手。
どれも、この身体についている手だ。どれも、俺の手だった。
堕落した。
そのとおりだった。
その手は、師が教えた名のある火を扱う手だった。城壁の上で、避難民の子どもたちを守っていた手だった。
その同じ手が、名のないものを呼んだ。
収めきれないものを解き放ち、それが子どもたちを狙うままにした。
そして、約束の日に逃げた。
封印官がつけた称号は、ひとつも間違っていなかった。
売国奴と断じた布告文のように。
九枚の経緯書のように。
* * *
その瞬間、最後の欠片が降りてきた。
名前だった。
白いものの内側で、最後の最後に手から抜け落ちたもの。
他の欠片はすべてはまったのに、一番後ろで待っていたもの。
接見室のガラス越しの手のひらも、円の中で額に置かれた手のひらも、その欠片だけは押し込まなかった。自分で合わせろ、と言うだけだった。
その欠片は、称号に続いて降りてきた。
封印官が俺を称号で呼んだ。その称号の後ろに空いていた場所へ。
称号は他人が付ける。
他人が付けた称号が降りたとき、その称号を負うべき者の場所が見えた。その場所に名前があった。
俺の名前のすべてではなかった。家名だった。
十歳で学堂に入るとき、敷居でつまずきかけた子どもが名乗っていた名前。
南山脈の下の谷にある古い城の門に刻まれた名前。
妹が預かっていた土地の名前。
初霜の日の夕方、封印官が城中庭の真ん中で三度呼んだ名前。
四度目に返事をしたのが妹の上の子だった、その名前。
その名前に答える者が、もう俺ひとりしかいない名前。
その名前が降りた瞬間、俺は妹の上の子を、もう一度見た。
城門の前にしゃがみ込んで、道を見ていた子ども。
日が暮れるころ、立ち上がって中庭の真ん中へ歩いていった子ども。
「ここにいます」
その名前で呼ばれると、あの子はそう答えた。
その名前を背負って生まれたから。
その名前を呼ばれたら返事をしろと、妹が教えたから。
俺もその名前を背負って生まれ、その名前で署名し、その名前が呼ばれる場所に立たなかった。
俺の代わりに返事をしたのは、俺より長くその名を背負う子どもだった。
あの子がその後、どれほど長くその名を背負ったのか、俺は知らない。
封印官はその光景を、ぼやけたまま見せた。
ぼやけて見せたのは、情けではなかった。
すべてを見せれば、俺はその場で崩れてしまうからだ。
崩れた者は、封印できないからだ。
* * *
円の中で、俺は顔を上げた。
子どもを見た。
その身体の中の老人を。
封印官を。
師と同じ年に、学堂を出た者。
俺の城門の前で、一人だけ馬を降りた者。
条件文を読み聞かせ、約束の日を定め、日が暮れるまで空の枠のそばに立っていた者。
称号はあの者が付けた。
名は、俺が呼ぶ。
俺は口を開いた。
今度は言葉が出た。
古風で硬い言葉遣いではなかった。あの騎士の、正義を重んじる話し方でもなかった。
この身体の話し方で、俺の口から出た。
喉が嗄れていた。
「……そして、最後のレプラシカだ」
* * *
運動場にその名が響いた。
刑務所の塀に当たって、返ってきた。
一度。三度ではなかった。
応える者が、一人しかいなかったからだ。
子どもが頷いた。
ゆっくりと。老人のように。
「いかにも。そなたの家門の名を呼べば、もう応える者はそなた一人しかおらぬ。これでようやく、そなたを封じられる。名を持つ者は封じられるものなのだ」
子どもが付け加えた。
今度は、語尾を長く引いた。
「『最後』という言葉を付けたのはそなたよ。わしではない。そなたが自らその言葉を選んだことこそ、そなたの師が望んでいたことであろう。名を付けるなと言った者は、そなたがいつか、そなた自身にだけは名を付けることを望んでいたのだ」
俺は答えなかった。
師の灯が浮かんだ。
読み終えるまで消えるなと、地下に置いてきた火。
あいさつが土の上から俺を見ていた。
息をしながら。
答えを聞いた顔だった。
あいさつに、その答えの意味は分からなかっただろう。
魔王も、レプラシカも、この空の言葉ではなかった。
それでもあいさつは、一度だけ頷いた。
観察室の前で、ノートを持ってきてやると言ったときのように。
一度だけ。
背の低い要員が、無線機を耳から離した。
無線機は黙っていた。
要員も、無線機に向かって何も言えなかった。
あの者に何に見えるか、誰も口にするなと言われていたのに。
円の外の子どもが称号を口にし、円の中の者が名を口にした。
無線機の約束は守られなかった。
その約束を破ったのは、要員たちではなかった。
* * *
静寂は、長くは続かなかった。
「魔王って何だ? 竜より強いのか?」
舎棟3階の窓から、うなぎの刺青が訊いた。運動場の誰も答えなかった。隣の窓で、点をひとつ多く数える男が指を折った。レ、なに、ラ、なに、カ。そして指をひとつ余計に折った。六文字だと言った。五文字だった。
班長が騒擾経緯書をもう一度広げた。被疑者供述の欄があった。班長は懐中電灯を口にくわえたまま、その欄に何か書きかけて、止まった。綴りが分からなかった。班長は「レプ」まで書いて、ボールペンを下ろした。その欄は一行だった。あの名は、その一行に全部収まるほど短かった。なのに班長は、最後まで書けなかった。
* * *
名を呼ぶやり方。
この空では3年あまり、俺は他人が呼ぶ名で呼ばれてきた。番号、聖騎士、他の模範、チュックのおじさん、こんにちは。
あっちの空でも同じだった。城壁の上の魔法使い様、領主様、叔父さん、売国奴、初代魔王。
欄があれば欄に合わせ、欄がなければ口で。勝った側も、負けた側も、どちらでもない側も、俺を呼んだ。その名はどれも正しかった。どれも他人のものだった。
称号は他人が付ける。他人が付けた称号は、剥がせない。烙印のように。嘘ではないから。
名は違う。名は、俺が呼んでこそ、俺のものになる。
課題26の署名欄が空だったのは、俺が自分の名を呼ばなかったからだった。白いものの中で散ったのではない。呼ばなかったから、来なかった。
今日、俺は呼んだ。称号の後ろに。「そして」という言葉を付けて。
称号を否定せず、称号に名を足した。初代魔王、堕落した黒い手。そして、最後のレプラシカ。
円の中の黒いものが、その名を聞いた。満ちかけていたものが止まった。腰のあたりで。
名もなく流れ出ていたものが、初めて、名を持つ者の指先で止まった。引っ込めたのではない。引っ込めるやり方を、俺は相変わらず知らなかった。
ただ、それ以上は満ちなかった。名のある者の前で、それは次の言葉を待った。東端の森の者たちが、森側の角に立つ俺を待っていたときのように。
そのとき、俺は初めて、あの子どもの体をまともに見た。
名が戻ると、目も戻ってきた。
学堂で10歳のときから教えられてきた目。名のあるものと、名のないものを見分ける目。
その目で、円の外の子どもを見た。
子どもの体の中を、何かが流れていた。逆さまに。川の水が河口から源流へ遡るように。
接見室で封印官が言っていた、他人の老い。誰かが年老いた体から奪ってきたという老い。
その老いは消えずに、子どもの体の中で逆さまに流れ続けていた。
封印官が空と空のあいだの隙間を広げたという、あの時間。その時間が、子どもを毎日少しずつ小さくしていた。
出国のときより、一目でわかるほどに。接見室で、また一度。
逆流する時間。俺はそれを長く見た。
俺の中には、白いものの中で引き裂かれ、ようやく縫い直されたものたちがあった。縫い糸の弾けた縫い目たち。
封印官の手のひらがかけらを押し込んだけれど、組み合わされたかけらと、かけらのあいだはまだ開いていた。
その開いた隙間をふさぐものが、あの子どもの中を流れていた。
子どもが円の線の前に立った。小さな手を上げた。手のひらを下にして。
封印の枠を閉じようとする手だった。初霜の日の朝、城中庭で、日が暮れるまで閉じられなかったその枠を。
俺はその手を見た。それから、自分の手を見た。
指先から流れ落ちていた黒いものが、止まっていた。名を聞いてから。
名を持つ者の手だった。呼び方は知っていて、収め方は知らなかった手。
その手で今度は何をするのか。名を呼んだ者が、決めなければならなかった。
円の外の舎棟の窓は、静かだった。うなぎの刺青も、点をひとつ多く数える男も、もう何も言わなかった。
2年半のあいだチュックのおじさんと呼ばれてきた男が、自らを最後のレプラシカと呼ぶのを、彼らも聞いていた。
* * *
彼が初めて魔王と呼ばれた頁と、最後のレプラシカになった頁のあいだに、我々がめくらなかった頁が、ひとつある。
あの日、運動場でその名は一度響き、壁にぶつかって一度だけ戻ってきた。
答える者がひとりしかいない名は、こだまもひとつだった。




