第93話 名前を呼ぶやり方(2)――結び目の月
運動場が静かになった。
黒いジャケットの連中が動きを止めた。無線機の雑音も途切れた。正門と通用門にすがりついて代表を呼んでいた信者たちの声も、そこで切れた。舎棟の窓の鉄網に顔を押しつけていた収容者たちも息を潜めた。
息を止めたのではない。呪いは2年前に終わった。ただ、誰も声を出さなかった。
晩夏の夜明け前、運動場で聞こえるのは、円の中に満ちてくる黒いものが土を濡らす音だけだった。その音は、ほとんど聞こえなかった。
月は刑務所の塀の上に掛かっていた。塀の向こうには山が黒くそびえていた。山の中腹の丘も黒かった。
1年前、この運動場でその丘を見上げて、背筋が冷えた日があった。誰かがそこから俺を見下ろしているのではないか——そんな思いがあった。
今夜、俺を見下ろしているのは丘ではなかった。
——運動場を囲む懐中電灯の光と、舎棟の窓に並んだ顔と、土の上に半ば体を起こした一人だった。
円の中の黒いものは、もう俺の腰のあたりまで満ちていた。
冷たかった。指先から流れ出るときは熱かったのに、溜まってしまえば冷たかった。学堂の地下の土のように。最初の森の黒い井戸水のように。
俺はその中に立って、「あいさつ」を見た。
あいさつの問いが、その静寂の真ん中に浮かんでいた。
「お前は悪魔か」
2年半のあいだ「こんにちは」しか言わなかった人が、初めてした質問だった。
あいさつは答えを待っていた。包帯を巻いた脇腹を片手で押さえ、もう片方の手を土の地面についたまま。
息が荒かった。止まらなかった。
あいさつの目が俺を見た。
呪いが終わった日の朝、配膳口の向こうから初めて俺を肉眼で見た、あの目だった。その日、その目は俺を見て息を止めなかった。
今日も止まらなかった。
* * *
静寂を破ったのは、舎棟三階の窓だった。
「悪魔じゃない! チュックのおじさんだ!」
うなぎの刺青だった。金網の向こうから、喉が裂けるほど叫んでいた。
運動場にいた黒いジャケットの何人かが、そちらを見上げた。うなぎの刺青は意に介さなかった。
「ボールをいつも塀に蹴り込むおじさんだって! 悪魔がチュックをそんなに下手くそにやるかよ!」
隣の窓から、点をひとつ多く数える男が加勢した。チュックで準優勝したときの最後の失点も、あのおじさんの蹴ったボールだったのだという。
そして、さっきの静寂が何秒だったかを数え始めた。もう十四秒くらいだと言った。実際は十三秒くらいだったのだろう。
班長は落としたクリップボードを拾い上げ、騒擾経緯書の目撃証言欄に何かを書き込んだ。
後で聞いた。
班長はその欄に「収容者多数、高声」と書いた。何を叫んだのかは書かなかった。
「チュックのおじさん」という言葉が入る欄は、騒擾経緯書にはなかった。
信者たちのほうで、誰かが膝を折って祈り始めた。代表様のための祈りだった。
代表様が今、円の中で何をしているのか、その人は知らなかった。
* * *
俺は答えようとした。
口を開いた。子どもの手のひらは、まだ俺の額に置かれたままだった。
俺はうつむいたまま、「あいさつ」を見た。答える言葉を探した。
悪魔。それはこっちの空の言葉だった。こっちの空の人間が、理解できないものを呼ぶときに使う言葉。
「あいさつ」は、俺が何なのか分からないから、その言葉を選んだ。
それが正しいのか間違っているのか、俺には判断できなかった。
あっちの空には、その言葉はなかった。
代わりに、俺は俺を呼んでいた言葉を、ひとつずつ思い出した。
番号。点呼のたびに。
聖騎士。あの騎士の名。俺が二年半のあいだ、盗んでまとっていた名。
他の模範。表彰状に記された言葉。
チュックのおじさん。今、あの窓から。
城壁の上の魔法使い様。エスベルの避難民の子どもたちが呼んだ。
領主様。俺の領地の民が呼んだ。
叔父さん。妹の上の子が。城門の前で。
「叔父さんの代わりに、僕が」
売国奴。チラカの布告文がそう呼んだ。国民を死地に追いやった、最悪の売国奴。
子供を食う怪物。白い部屋の、九枚が。
そして、こんにちは。
あいさつが、毎朝。
どれも俺の名前ではなかった。
他人がつけた名前だ。勝った側が。負けた側が。どちらでもない側が。
当たっている名前もあった。間違っている名前もあった。どれも、枠に合わせて書かれていた。
だが、俺の名前はそのどの枠にもなかった。
白いものの中に散らばったまま、まだ一番後ろで待っていた。
あいさつは、円の中で黒いものが満ちていくのを見た。
俺の指先から、それが流れ落ちるのを見た。
この空の言葉で、そんなものを呼ぶ名前は、そう多くはなかったのだろう。
あいさつは、そのうちのひとつを選んだ。
悪魔。
その言葉を選びながら、あいさつは息を止めなかった。
怖かったのなら、息を止めたはずだ。呪いのあった一年のあいだ、みんながそうだったように。
あいさつは、息を止めないまま訊いた。
確かめるための問いだった。
毎朝「こんにちは」を最後まで言うように、その問いも訊き切った。
あの騎士なら、すぐに答えただろう。
正しさと誤りを、はっきりさせる人だったから。自分のことを訊く者に、知らないとは言わない人だったから。
俺はその騎士の正義を、二年半のあいだ着ていた。
その正義が今、俺の口の中で答えをせかした。
違うと言えば、嘘だった。
そうだと言っても、それも正確ではなかった。
悪魔は、この空の言葉だった。
そして俺は、この空で、その言葉に当てはまることをしたことがなかった。
あっちの空で俺がしたことには、あっちの言葉が別にあった。
その言葉を、俺は知っていた。
チラカが、俺をそう呼んだ。
その言葉は、まだ俺の口に上らなかった。
俺は答えられなかった。
口は開いていた。言葉が出なかった。
* * *
サイレンがまた鳴った。今度は数台だった。
正門の前に、ワゴン車がさらに何台か停まった。側門が大きく開いた。
黒いジャケットが運動場に入ってきた。さっきより多かった。
連中は円を囲んで立った。円の線から五歩ほど離れて。
何人かは、コーティングされたカードを手に持っていた。懐中電灯の光に、カードの文字が浮かんだ。
対象接近時の留意事項。直視は控えること。
刑務所に入ったときに貼られた管理局の公文の条項だった。2年前に終わった条項だった。
誰かがそのカードを、この2年間、直さずに持ち歩いていた。
要員たちは、カードに書かれたとおりに俺の目を避けて、円を囲んだ。俺の目を避ける理由がなくなって、2年が過ぎていたのに。
この国の書類は、終わったことでも欄から消さない。
信者が一人、側門から抜け出して運動場に入ってきた。白い服が月光に浮かんだ。
その人は円に向かって走り寄り、線のすぐ手前で膝をついた。
「代表様」と呼んだ。
子どもは振り返らなかった。
要員が二人、その信者の腕をつかんで引きずり出した。
信者は引きずられながらも、代表様を呼び続けた。子どもは最後まで振り返らなかった。
その信者が呼ぶ代表様は、円の中にはいなかった。
海の向こうのどこかの支部で本物を探すうちに、自分の体を差し出した子どもは、その体のどこかで眠っているのだろう。
懐中電灯の光が四方から円の中を照らした。円の中の黒いものが、光の縁でぬらりと光った。
背の低い要員が、円の近くまでやってきた。さっき、舎棟で俺の位置を確認していた者だった。
その人は、無線機を耳に当てていた。
無線機から、声が流れてきた。
停電の中でも、その無線は通じていた。
声は小さかった。だが、運動場の静けさの中では、はっきりと聞こえた。
その声を、俺は知っていた。
3年と少し前、白い部屋で12枚を読み上げていた声。
20分のあいだ、1枚も飛ばさなかった声。
移送前夜、扉の向こうで、記録の代わりに覚えておくと言った声。
低く、端正な声。
無線機から、その声が言った。一行だった。
「あの人が何に見えるか、本人には誰も言わないでください」
背の低い要員が無線機を下ろし、円を取り囲む要員たちにそれを伝えた。
対象への外見に関する言及は禁止。
要員たちが頷いた。
それから、背の低い要員は顔を上げた。初めて俺を見た。舎棟でも、円の周りでも、俺と目を合わせようとしなかった人だった。
その人は息をしながら、俺をまっすぐ見た。
その人が何を見たのか、俺には分からない。
何も言わなかった。無線機の向こうの声が、言うなと言ったからだ。
見るだけで、何も言わないほうを選んだ。白い部屋の連中が、いつもそうしてきたように。
* * *
その一言を、俺は聞いた。
移送前夜、俺はその声に頼んだ。
「次に来る奴には言うな。知ったら、それになってしまう」
その声は約束した。
「次の方には言いません」
そして、守ったのだろう。
白い部屋に次に来た人間、八番目に、その声は最後まで言わなかったのだろう。1年のあいだ。その人が画面越しに俺を見るときも。
今夜、その声は約束を俺に返してきた。
次に来る人間ではなく、最初にその約束を頼んだ人間に。
「あの人が何に見えるか、本人には誰も言わないでください」
知ったら、それになってしまうから。
その声は、まだそう信じていた。
それは、俺がまだ何かになってしまわないでいられるという信念だった。
その声の持ち主は、運動場には来なかった。車の中にいたのだろう。正門の外に並ぶバンの、どれか1台に。
その声は無線機の向こうにあった。間違いなかった。
その声のきょうだいは、4か月目に入った日、車の中で、俺の手の内で息を止めた。
俺は、その声に答えられなかった。無線機は俺の側には開かれていなかった。
班長がクリップボードを持って、背の低い要員に近づいた。
「騒擾経緯書の一番下に関係機関の確認欄がある。管理局が出動した以上、管理局の人間の署名が要る」
背の低い要員は班長を見て、円の中の俺を見て、また班長を見た。
「この状況で、署名が要りますか」
「夜が明けたら、この書類を出す。欄が空なら差し戻される」
背の低い要員は班長のボールペンを受け取ると、円のほうを見ながら、その欄に署名した。
文字が欄の外にはみ出した。
* * *
子供の司祭が笑った。
その掌が、俺の額から離れた。
子供の司祭は一歩下がり、円の真ん中の俺を見上げた。
子供の顔で、老人が笑った。今度は喉の奥だけで笑わなかった。声を出した。9歳にもならない子供の笑い声だった。高く、細かった。運動場に響いた。
周りを囲む要員たちが、びくりと肩を揺らした。信者たちの祈りが止まった。舎棟の窓の収容者たちが、鉄網から顔を離した。
子供の笑いが止まったとき、運動場はさっきより静かだった。舎棟の窓のうなぎの刺青も、今度は叫ばなかった。点をひとつ多く数える男も、数えなかった。正門の信者たちは、脇門から手を離した。
皆、同じものを待っていた。
円の中の俺が何を言うかではなく、円の外の子供の司祭が何を言うかを。
この空に来て9歳の体に入った老人が、3年余り、誰も俺の名前を知らなかったこの空で、初めて俺を何と呼ぶのかを。
子供の司祭は笑いをやめ、無線機を持った背の低い要員を見た。それから「あいさつ」を見た。土の上で半身を起こしたまま、返事を待つ「あいさつ」。そのあとで、もう一度俺を見た。
「誰も言うなと申したか? そなたたち、空の者の約束は殊勝なことよ」
子供の司祭は語尾を伸ばさなかった。その口で、短く、硬く。
「答はわしがしてやろう」
* * *
その日の無線記録には、その一行が時刻とともに残った。発信者の欄には、肩書きだけが記されていた。
騒擾経緯書の目撃陳述欄には、「収容者多数、高声」と記された。高声の内容は、欄には入らなかった。




