第92話 名前を呼ぶやり方(1)――結び目の月
本館の階段を下りながら、俺は段数を数えた。二十四。
一階の出入口を抜け、運動場へ出た。午前2時を回っていた。晩夏の夜の熱が、まだ土に残っている。
運動場の真ん中に、黒いジャケットが集まっていた。いくつもの懐中電灯の光が、一か所を照らしている。あいさつと呼ばれている刑務官だった。
黒いジャケットが二人、あいさつのそばで膝をついていた。一人が救急鞄を開けた。中から包帯を出そうとして、手が止まる。包帯の包装に印字された日付を見ているようだった。
「有効期限、切れてる」
そばの男にそう言った。男は、包帯は腐らないと返した。
救急鞄を開けた男は、それでも記録は必要だと言い、無線機に向かって「使用物品、有効期限経過」と報告した。それから、その包帯をあいさつの脇腹に巻いた。
あいさつは目を開けていた。息をしていた。荒かった。止まらなかった。
運動場の端では、班長がクリップボードを持って何かを書きつけていた。懐中電灯を口にくわえている。騒擾経緯書だった。日が昇れば、この書類を出さなければならない。経緯欄、被害欄、措置欄。
班長は経緯欄の前で、ボールペンをしばらく止めていた。何と書くべきか分からない顔だった。やがて、何かを書いた。
あとで聞いた話では、班長は経緯欄に「停電中、原因不明の施設破損」と記したらしい。九歳の子どもが手のひらで壁を割ったという話は、その欄には収まらなかった。
正門のほうでは、白い服を着た者たちが通用口にすがりついていた。代表、と呼ぶ声がした。信者の一人が、通用口を守る黒いジャケットに面会を申し込むと言った。午前2時に。
黒いジャケットは、面会時間ではないと答えた。信者は、自分たちの代表が中にいるのだと言った。黒いジャケットは、代表が中にいることが問題なのだと答えた。
舎棟の窓ごとに、人が張りついていた。鉄網に顔を押しつけ、運動場を見下ろしている。停電で眠りを覚ました収容者たちだった。
誰かが俺の名前ではなく、番号を呼んだ。続けて、誰かが「チュックのおじさん」と呼んだ。うなぎの刺青の声だった。
「チュックのおじさん、そこに行くな」
うなぎの刺青は、そこに何があるのかも知らないまま、行くなと言った。
点をひとつ多く数える男が、運動場の黒いジャケットを数えていた。十一、十二、十三。
運動場にいる黒いジャケットは、十二人だった。
俺はあいさつの横を通り過ぎた。
あいさつが俺を見た。包帯を巻く手の間から。
唇が少し動いた。声にはならなかった。こんにちはだったのか、別の言葉だったのか、俺には分からなかった。
歩みは止めなかった。止まれば、あいさつの横にへたり込んでしまいそうだった。
代わりに、あいさつの勤務日誌の横を通った。土の上に落ちたクリップボード。0時42分、運動場内に子ども1名。
次の欄は空だった。
その欄を埋める者が、立ち上がれるように。
* * *
子どもは運動場の北の端、刑務所の塀の下にいた。
円を描き終え、その真ん中に立っていた。さっきより大きな円だった。
土の地面は丸く沈み、真ん中がいちばん深かった。子どもはその最も深い場所のすぐ横に立ち、俺を待っていた。
塀が子どもの背後に高く立っていた。鉄条網が月明かりに光っていた。
子どもは塀に背を向けていた。森に背を向けるなという掟を、子どもは知らなかった。
俺は運動場を横切った。
黒いジャケットの一人が俺を呼んだ。そこで止まれ、という声だった。
俺は止まらなかった。
懐中電灯の光が背中を追ってきた。無線機が鳴った。
「対象移動中。運動場、北側」
円の線の前で止まった。土に引かれた線がつま先に触れた。
線の内側の土は、少し低かった。あと一歩踏み出せば、円の中だった。
子どもが俺を見た。語尾を長く引いた。
「今度は引くまい。そなたが自ら入るがよい。初霜の日の朝、そなたがしなかったことを」
俺は線を越えた。
越えながら、神殿の庭の門を思い出していた。
初霜の日の朝、日陰から出て三歩歩き、司祭の手首を掴んだ、あの歩み。
あの三歩は逃げる歩みだった。別の空へ行き、何者でもない者になろうとする歩みだった。
今日の一歩は、その反対だった。
囚われる場所へ。
名を持つ者として。
円の中の土は温かかった。
晩夏の暑さのせいではなかった。
真ん中へ進むほど、温かさは増した。
俺は真ん中へ歩いた。足が引きずられることはなかった。俺が歩いた。
一歩、また一歩。
一番深い場所に立った。
足の裏がそこに合った。神殿の庭の真ん中にある石のように。
窪みは、足の裏の形のままだった。
子どもが驚いた顔をした。両の眉が上がった。
子どもの顔のまま、老人が驚いた。
「自ら立つとはのう」
「あの日、立つべきだった場所です」
俺は言った。
あの騎士の口調ではなかった。正義の口調でもなかった。俺の口調だった。
学堂で十歳の頃から使ってきた口調。なのに、丁寧語だった。
封印官は、師と同じ年に学堂を出た者だった。
子どもが手を上げた。小さな手だった。
子どもの背丈では届かなかった。俺の額は、子どもの頭よりずっと上にあった。
俺は身をかがめた。子どもの手のひらが、俺の額に触れた。
あの司祭の手がそうだったように。
* * *
額から降りてきた。
残っていた欠片の、すべてが。
学堂の書庫の一番下の空いた区画。地下の新しく積まれた石壁。箱の中の十一本の巻物。師の灯が半分ほど燃えたときの明かり。
国境の村の丘の上の風。最初の森の井戸水が黒く変わる朝。カネン川下流の堤が午前3時に崩れる音。
招請事由書の濡れた紙が、俺の手の中で乾いていく感触。十一の森。野の本陣の端から消えていく数千の松明。光の中から歩み出てくる者たち。
マセルンの冷たい手。南門が壊れる音。そして、静かになっていく音。
俺の領地の谷。城中庭の割れた石畳。封印官の条件文。署名。名を記した手の感覚。妹が預かっていた土地。妹の二人の子。
名前はまだ来なかった。
ほかの欠片はすべて嵌まった。名前だけが、最後尾で待っていた。
そして、初霜の日の城中庭。
封印官の欠片。
クレヨンで書きかけて、途中で途切れたあの場面。その続きが降りてきた。
* * *
日が沈んだ。
封印官が城中庭の真ん中で家門の名を呼んだ。
三度。
その名は城壁にぶつかり、三度、返ってきた。
四度目に答えたのは、妹の上の子だった。
城門の前にしゃがみ込んで、道を見ていた子。
子は立ち上がり、庭の真ん中まで歩いてきた。家門の名を呼ばれたら答えよと、そう教えられた子だった。
子は封印の枠の前に立って言った。
「ここにいます。叔父さんの代わりに、私が」
妹が子を呼びながら駆けてきた。
俺はその場面を見た。
俺の記憶ではなかった。なのに、俺の記憶より鮮明だった。
子の顔。妹に似て、俺に似た顔。
城門の前で半日、道を見ていた目。
叔父が城壁の上の魔法使い様なのだと、他の子たちに自慢していた口。
その口が、いま、「叔父さんの代わりに」と言った。
この身体は6年の間、子供たちの前に立った。
崩れた壁の前で、両手で隙間を塞いだ。
あの騎士は、子供たちを自分の代わりに立たせたことは一度もなかった。
俺は、自分の血筋の子を自分の席に立たせた。
俺が、その席にいなかったから。
神殿の庭で何でもない者になろうとして、光の門へ歩き入っていた、まさにその時刻に。
そこで封印官の欠片はぼやけた。
わざとぼやかしたようだった。封印官は、その先を見せなかった。
代わりに、短い欠片をいくつかだけ降ろしてきた。
翌年の春、チラカの旗が谷の城門に掛かったこと。
条件文の「彼らが与えるもの」の欄に、線が引かれたこと。
谷の家々の灯が消えたこと。
城中庭の割れた石の隙間に、春が来ても草が生えなかったこと。
その草を抜いて遊んでいた子供たちが、いなかったから。
封印官が子の口で言った。語尾を伸ばさなかった。
「そなたが立たなかった席に誰が立ったのか、もう分かった。そなたの家門の名を呼べば、もう答える者はそなた一人だけである」
俺は、子の手のひらの下で、頭を垂れたままだった。
子の手が、俺の額に置かれていた。
司祭の手のように。
温かくなかった。冷たくもなかった。
手が置かれているということだけが分かった。
もう、すべて分かっている。名のほかは。
* * *
指先が熱かった。
円の中では俺のものは出てこない、と子どもは言った。それなのに、指先に玉になったものが落ち始めた。円の土がそれを食い止めた。
食い止められたものが積もった。俺の指先から黒いものが流れ落ち、足元に溜まった。溜まったものが、円の中を満たした。円の外へは出られなかった。
円の中で黒いものが満ちて、俺の膝のあたりまで上がってきた。懐中電灯の光が、それを照らした。光の端で、それがてらてらと光った。
運動場の黒いジャケットの連中が、いっせいにそちらを見た。何人かが腰元に手をやった。テーザー銃だった。
誰かが撃つなと叫んだ。対象が円の中にいる、ということだった。円が何なのかは、その男にも分かっていなかったのだろう。
ただ、懐中電灯の光の中では、土の上に円の線がくっきりと見えていた。その線の内側でだけ、黒いものが湧き上がっていた。線の外へは、一滴もこぼれなかった。
誰かが息を呑んだ。無線機が鳴った。班長の手から、クリップボードが落ちた。
子どもは手のひらを離さなかった。黒いものは、それでも湧き続けた。
俺はそれを収めることができなかった。収めるやり方は、最初からなかった。
ただ、円の線がそれを閉じ込めていた。封印官が1年半をかけて組んだという、あの枠だ。
その枠が今、この運動場の土の上で、俺のものを閉じ込めている。初霜の日の朝、城中庭でそうなるはずだったように。
俺はその枠の中に立って、思った。
あの日、俺がここに立っていたら、妹の上の子は城門の前で立ち上がらなかっただろう。叔父の代わり、などと言わずに済んだはずだ。
名の欠片は、まだ一番後ろで待っていた。他の欠片はすべてはまっているのに、それだけは降りてこなかった。
封印官の手のひらも、それだけは押し込まなかった。
おそらくその欠片は、他の誰かに呼んでもらわなければ降りてこない欠片だった。あるいは、俺が自分で呼ばなければ降りてこない欠片だった。
あいさつが、顔を上げた。
黒いジャケットの二人が、あいさつを起こそうとした。あいさつはその手を振り払った。
血の滲んだ包帯を脇腹に巻いたまま、土の地面に手をつき、体を半ば起こした。運動場の真ん中で。円から十歩ほど離れた場所で。
あいさつは、円の中の俺を見た。指先から黒いものを垂らしている俺を。子どもの手のひらの下で頭を下げている俺を。2年半のあいだ、毎朝、配膳口越しにこんにちはと言っていた、あの顔を。
あいさつの息は荒かった。止まらなかった。あいさつは息をしながら、最後まで息をしながら、俺に訊いた。
2年半のあいだ、あいさつが俺に言った言葉は、「こんにちは」だけだった。そして一度だけ、八番目だ、と。そして今日、初めてそれが質問になった。
「お前は……悪魔か?」
* * *
その日、班長の騒擾経緯書の経緯欄には、『停電中の原因不明の施設破損』と書かれた。その欄は、一行だった。
あいさつの勤務日誌は、運動場の土の上に落ちたままだった。風は、そのページをめくらなかった。




