↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
91/160

第91話 傷ついたものと傷つけたもの(3)――火のしの月

管理番号KR-07 矯正相談記録


課題27 ― 帰ってくる夜(続き)


* * *


相談員が抱えていたファイルを、俺はその腕から取り上げなかった。


相談員の腕も、ファイルを放さなかった。


俺は相談員の隣に座り、ファイルのいちばん後ろをめくった。


そこに課題27があった。医療課の観察室で、黒いクレヨンで書いたページだ。


罫線からはみ出した字。一つの文の途中で、横と縦が折れ曲がる字。


最後のページは、文の途中で切れていた。


そして、四番目に答えたのは。


クレヨンがノートを引っかき、罫線の外まで長く伸びた跡だった。


その下には、別の字があった。


ボールペンの字だった。整っていて、小さくはない。少しだけ傾いている。


相談記録の写しの最初のページで見たことのある字だった。罫線からはみ出した字は一つもない、と記していた字。


この一年半、俺の課題の下の余白に、一行か二行ずつ書き足されてきた字。


その手は、鉢植えに水を少なめにやるやり方を、一年かけて覚えた手だった。


その行を読む前に、俺はファイルを前へめくった。


手のほうが先に動いた。


そこに、一年半があった。


課題1、俺はどんな人間か。罫線ノートにボールペン。その下の余白に相談員のメモ。具体的で、名前は一つもない。


課題2、井戸。「その手は今、どうですか」


課題5、俺が数えるもの。救った子どもは四十人。埋めた子どもが何人いたかは書かない。


差し戻された相談申請書の写し。事由欄の十四文字。


鉛筆で写し取った机の線。テープで留めた三枚。テープの跡が縦に走る。


課題20のメモ欄。読んだ、読んだ、読んだ。そして一行。白い封筒。宛名も差出人もない。


ファイルの表紙の内側に、付箋が貼ってあった。相談員の字だった。


「このファイルは相談室の備品ではない。収容者所有物を保管中。保管証は未発行」


この一年半、相談員は俺の課題を返さず、保管していた。保管証は切らなかった。


書類の上では、それらは最初から俺の手にあった。


今夜、相談員は書類の上で俺のものになっているそれを抱えて、うつ伏せていた。


* * *


クレヨンの字を、二日かけて読んだ。


横にだけ続けて読めば一人の人間で、縦にだけ続けて読めば別の人間になる。


横と縦を文章として読めば、一人の人間だった。


彼が来なかった日、俺はこのページを全部読んだ。


* * *


相談員の字は、途切れた文のすぐ下にあった。


クレヨンの跡を避けて。一行だけ。


誰の記憶であれ、いま書いているのはあなたです。


俺はその一行を、長いこと見た。


非常灯も消えた廊下だった。


割れた窓から入る月明かりに、その一行を照らして見た。


相談員の字は、震えていなかった。


俺の課題の余白に問いを書きつけるときと同じように、まっすぐだった。


「では、それは誰の記憶なのでしょうか」


一年半のあいだ、相談員はその問いだけをした。


すべての収容者に。妻の話をする者にも、被害者の話をする者にも。


牧師は三度、神の記憶だと答えた。


相談員は、今回は問わなかった。答えを書いた。


誰の記憶であれ。


その記憶があの騎士のものであれ、丘の上の俺のものであれ、封印官がガラス越しに混ぜ込んだものであれ。


いまそれを書いている手は一つで、その手があなたである、という答えだった。


* * *


途切れた文の次の行は、空けておく。


彼が来て、そこを埋める。


俺はその上に、一行だけ書く。


自分の字で。彼が読めるように。縦ではなく、横に。


* * *


相談員の手の脇で、ボールペンが転がっていた。


相談室の備品だ。軸にシールが貼ってある。


『相談室の備品。持ち出し禁止』


俺はそのペンを拾った。


相談室の扉は、俺の後ろで開いていた。俺は扉の敷居から一歩だけ出た廊下に座っていた。


持ち出し禁止のペンが、相談室から一歩だけ外へ出ていた。


相談員が目を覚ましたら、この一歩を備品台帳のどの欄に書くかで悩むだろう。


俺はそのペンで、相談員が書いた一行の下に続けて書く。この課題の残りを。


この字は横だ。縦には折れない。古風な語尾でも終わらない。手は一つしかない。


* * *


今夜は相談室に残る。停電だ。


非常マニュアルには、相談室の記録物を安全な場所へ移せとある。


この相談室より安全な場所を、俺は知らない。


持ち出すもの。書類綴じ。鉢植え(右)。鉢植え(中央)。鉢植え(窓の外)――備品台帳の上では、相談室の所属だ。


* * *


傷ついたものと、傷つけたものを書く。相談員がこの課題を引き受けたときのやり方で。欄を分けて。


傷ついたもの。


はしごの下で数を数えていた子。森の縁の木の下で、目を開けたまま。


マセルン。南門から戻らなかった。城砦の西の隅、井戸から二十歩の場所に埋めた。あの日、俺は川の方しか見ていなかった。


国境の捨てられた村。井戸水が黒く変わった。


布告文を持ってきた者の村。毎晩、戸に鍵をかけた。


告解司祭。扉枠から引き剥がされた。悲鳴は短く途切れた。


あの騎士。移送車両の中で消えた。


教わったことより先に手が出る新人。手の甲に小さな傷跡。


牧師。業界の後輩の前で、両腕を広げた。


あいさつ。子どもに「こんにちは」と言った。


相談員。書類綴じを抱えたまま、うつ伏せに倒れた。今、俺の隣で息をしている。


俺はその一覧の一行ごとに、顔を思い浮かべた。数を数えていたあの子のように。


あの子は、はしごから降りてくる騎士を数えるたびに、顔を見た。数だけ数えていたら、誰が降りてきたのか分からない。


曲がった前髪。冷たい手と、先に笑う目。右の眉だけ上がる笑い方。手の甲の小さな傷跡。半分白くなった髪に付いた漆喰の粉。しわだらけの手の甲。片方のレンズが割れた丸眼鏡。


今度は数を数えなかった。顔を数えた。


そして、妹と、妹の二人の子ども。


俺の土地の民。城中庭の端で待っていた人々。


その人たちが何を払ったのか、俺はまだ知らない。


クレヨンで書いていた文章は、そこで切れていた。


その続きを、封印官が持っている。見せてやると言った。


傷つけたもの。


俺。


* * *


欄の差がありすぎた。


左は長く、右は一行だけだった。


10か月前、課題14で俺は二つのリストを作った。


俺が知っている俺と、他人が見た俺。


あのとき、右の方が一貫していた。


今も右は一貫している。一語しかないからだ。


このリストを書いている手を見下ろす。


この手が司祭の手首をつかんだ。


この手が新人の首を絞めた。あの騎士と共に。


今夜、この手から名のないものが流れ落ちて、牧師を包んだ。


この手が、あいさつの温かい手を握った。


この手が相談員の眼鏡を拾い、その手の横に置いた。


この手が今、持ち出し禁止のボールペンを握っている。


傷つけた手と、傷ついた者をつかんだ手は、同じ手だ。


相談員の言うとおりなら、今書いているこの手が俺だ。


だとしたら、どちらも俺だ。


割れた窓越しに、運動場が見えた。


運動場の真ん中に、あいさつがまだ倒れていた。


そのそばに懐中電灯が落ちて、土の地面を照らしていた。


正門の方から、脇門が開く音がした。


黒いジャケットの連中が運動場に入ってきた。


二人があいさつの方へ駆けていった。


いくつもの懐中電灯の光が、運動場をなぞった。


その光が運動場の端を通り過ぎたとき、そこに小さな白い影があった。


子どもだった。


子どもは運動場の北端、刑務所の塀の下で、また手のひらを下に向けて歩いていた。


新しい円を描いていた。さっきより大きな円だった。


今度は、チュックのネットが引っかからない場所に。


頭の奥で、大きな欠片がひとつ、まだ待っていた。


名前。


接見室のガラス越しの手のひらは、その欠片を押し込まなかった。


自分で合わせろと言った。


相談員の書いた一行には「今書いているのが、あなたです」とあった。


そのあなたには、まだ名前がなかった。


この身体の名は、この身体のものだ。


俺の名前は、白いものの中に散った。


課題26の署名欄は空いている。


その欄を埋める名前を、俺はあの円の真ん中で見つけることになる気がした。


初霜の日、城中庭の真ん中で封印官が三度呼んだという、その名前を。


* * *


最後のページの余白に、一行だけ書いた。


彼が読めるように。


* * *


1年半のあいだ、俺は理由を探した。


疲れていた。教本のせい。説教のせい。罪悪感が夜に降る罰。


理由が見つかれば、怖さが少し減った。


理由があれば、その出来事は俺のものでなくてもよかった。


相談員の一行は、理由をくれなかった。


誰の記憶であっても。


理由を問わない、という言葉だった。


記憶が誰のものかを問わず、いま書いている者に尋ねる、という意味だった。


いま書いている者は、何をするのか。


運動場の真ん中に、円が引かれている。


「あいさつ」が、その一本の線を体で覆った。


子どもは、庭を引き直すと言った。


この空の庭は網だらけだと、ぼやきながら。


子どもはいまごろ、どこかでまた円を引いているのだろう。


俺を立たせるために。


初霜の、城中庭の真ん中に。


俺はあの日、その場所に立たなかった。


逃げた。


そうしたかったからだ。


言い訳はできない。


今夜、その場所がまた引かれている。


その場所と俺のあいだで、三人が倒れた。


三人は、その場所が何なのか知らなかった。


それでも俺の前に立った。


今度は俺が、その場所へ行って立つ。


誰も俺の前に立たないように。


怖いものは見るな、目を閉じて寝ろと、この身体は6年間、子供たちに言った。


俺が見る。


その言葉は、あの騎士の言葉だった。


今夜、俺はその言葉を盗んで使わない。


あの騎士の代わりに言う言葉ではなく、自分の手で言葉を書く。


傷ついた者たちの前に、今度は傷つけた者が立つ。


立ち上がる前に、相談室の中を覗いた。


相談員のメモに、持っていくものが書いてあった。


書類ファイル、鉢植え三つ。


書類ファイルは相談員が持った。


鉢植えは持てなかった。


窓枠のガラスは、すべて割れていた。


真ん中の鉢植えは運動場の方へ落ちて、なくなっていた。


外の窓辺にあった枯れた鉢植えは、割れた窓の向こうにそのままあった。


手は届かなかった。


窓枠の内側に、右の鉢植えが一つ残っていた。


割れたガラスの破片が、葉の上に載っていた。


葉は七枚のままだった。


俺は相談室に入り、その鉢植えを手に取った。


葉の上のガラス片を、指で払い落とす。


指先が少し切れた。


その鉢植えを持って外へ出ると、相談員の頭のそば、廊下の壁側に下ろした。


割れた窓から遠い場所だった。


相談室の備品がまた一歩、相談室の外へ出た。


書類の上では、まだ相談室に属したまま。


相談員が目を覚ましたら、これも備品台帳のどの欄に書くか悩むだろう。


悩ませたかった。


悩めるよう、目を覚ましてほしかった。


ボールペンを相談員の手のそばに置く。


持ち出し禁止のシールが上を向くように。


書類ファイルは相談員の腕の上にそのまま置いておく。


この最後のページも、そこに挟んでおく。


立ち上がる。


運動場側の割れた窓から、熱い風が入ってくる。


運動場の真ん中の土が、月明かりで白い。


その真ん中へ向かう。


* * *


相談員の最後のメモの次の行には、彼の筆跡が続いていた。


横書きで、罫線に揃えて。


最後の行は、罫線のちょうど真ん中にあった。


持ち出し禁止のボールペンは、相談室の敷居から一歩外に置かれていた。


備品台帳には、その一歩を記入する欄がない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。