第91話 傷ついたものと傷つけたもの(3)――火のしの月
管理番号KR-07 矯正相談記録
課題27 ― 帰ってくる夜(続き)
* * *
相談員が抱えていたファイルを、俺はその腕から取り上げなかった。
相談員の腕も、ファイルを放さなかった。
俺は相談員の隣に座り、ファイルのいちばん後ろをめくった。
そこに課題27があった。医療課の観察室で、黒いクレヨンで書いたページだ。
罫線からはみ出した字。一つの文の途中で、横と縦が折れ曲がる字。
最後のページは、文の途中で切れていた。
そして、四番目に答えたのは。
クレヨンがノートを引っかき、罫線の外まで長く伸びた跡だった。
その下には、別の字があった。
ボールペンの字だった。整っていて、小さくはない。少しだけ傾いている。
相談記録の写しの最初のページで見たことのある字だった。罫線からはみ出した字は一つもない、と記していた字。
この一年半、俺の課題の下の余白に、一行か二行ずつ書き足されてきた字。
その手は、鉢植えに水を少なめにやるやり方を、一年かけて覚えた手だった。
その行を読む前に、俺はファイルを前へめくった。
手のほうが先に動いた。
そこに、一年半があった。
課題1、俺はどんな人間か。罫線ノートにボールペン。その下の余白に相談員のメモ。具体的で、名前は一つもない。
課題2、井戸。「その手は今、どうですか」
課題5、俺が数えるもの。救った子どもは四十人。埋めた子どもが何人いたかは書かない。
差し戻された相談申請書の写し。事由欄の十四文字。
鉛筆で写し取った机の線。テープで留めた三枚。テープの跡が縦に走る。
課題20のメモ欄。読んだ、読んだ、読んだ。そして一行。白い封筒。宛名も差出人もない。
ファイルの表紙の内側に、付箋が貼ってあった。相談員の字だった。
「このファイルは相談室の備品ではない。収容者所有物を保管中。保管証は未発行」
この一年半、相談員は俺の課題を返さず、保管していた。保管証は切らなかった。
書類の上では、それらは最初から俺の手にあった。
今夜、相談員は書類の上で俺のものになっているそれを抱えて、うつ伏せていた。
* * *
クレヨンの字を、二日かけて読んだ。
横にだけ続けて読めば一人の人間で、縦にだけ続けて読めば別の人間になる。
横と縦を文章として読めば、一人の人間だった。
彼が来なかった日、俺はこのページを全部読んだ。
* * *
相談員の字は、途切れた文のすぐ下にあった。
クレヨンの跡を避けて。一行だけ。
誰の記憶であれ、いま書いているのはあなたです。
俺はその一行を、長いこと見た。
非常灯も消えた廊下だった。
割れた窓から入る月明かりに、その一行を照らして見た。
相談員の字は、震えていなかった。
俺の課題の余白に問いを書きつけるときと同じように、まっすぐだった。
「では、それは誰の記憶なのでしょうか」
一年半のあいだ、相談員はその問いだけをした。
すべての収容者に。妻の話をする者にも、被害者の話をする者にも。
牧師は三度、神の記憶だと答えた。
相談員は、今回は問わなかった。答えを書いた。
誰の記憶であれ。
その記憶があの騎士のものであれ、丘の上の俺のものであれ、封印官がガラス越しに混ぜ込んだものであれ。
いまそれを書いている手は一つで、その手があなたである、という答えだった。
* * *
途切れた文の次の行は、空けておく。
彼が来て、そこを埋める。
俺はその上に、一行だけ書く。
自分の字で。彼が読めるように。縦ではなく、横に。
* * *
相談員の手の脇で、ボールペンが転がっていた。
相談室の備品だ。軸にシールが貼ってある。
『相談室の備品。持ち出し禁止』
俺はそのペンを拾った。
相談室の扉は、俺の後ろで開いていた。俺は扉の敷居から一歩だけ出た廊下に座っていた。
持ち出し禁止のペンが、相談室から一歩だけ外へ出ていた。
相談員が目を覚ましたら、この一歩を備品台帳のどの欄に書くかで悩むだろう。
俺はそのペンで、相談員が書いた一行の下に続けて書く。この課題の残りを。
この字は横だ。縦には折れない。古風な語尾でも終わらない。手は一つしかない。
* * *
今夜は相談室に残る。停電だ。
非常マニュアルには、相談室の記録物を安全な場所へ移せとある。
この相談室より安全な場所を、俺は知らない。
持ち出すもの。書類綴じ。鉢植え(右)。鉢植え(中央)。鉢植え(窓の外)――備品台帳の上では、相談室の所属だ。
* * *
傷ついたものと、傷つけたものを書く。相談員がこの課題を引き受けたときのやり方で。欄を分けて。
傷ついたもの。
はしごの下で数を数えていた子。森の縁の木の下で、目を開けたまま。
マセルン。南門から戻らなかった。城砦の西の隅、井戸から二十歩の場所に埋めた。あの日、俺は川の方しか見ていなかった。
国境の捨てられた村。井戸水が黒く変わった。
布告文を持ってきた者の村。毎晩、戸に鍵をかけた。
告解司祭。扉枠から引き剥がされた。悲鳴は短く途切れた。
あの騎士。移送車両の中で消えた。
教わったことより先に手が出る新人。手の甲に小さな傷跡。
牧師。業界の後輩の前で、両腕を広げた。
あいさつ。子どもに「こんにちは」と言った。
相談員。書類綴じを抱えたまま、うつ伏せに倒れた。今、俺の隣で息をしている。
俺はその一覧の一行ごとに、顔を思い浮かべた。数を数えていたあの子のように。
あの子は、はしごから降りてくる騎士を数えるたびに、顔を見た。数だけ数えていたら、誰が降りてきたのか分からない。
曲がった前髪。冷たい手と、先に笑う目。右の眉だけ上がる笑い方。手の甲の小さな傷跡。半分白くなった髪に付いた漆喰の粉。しわだらけの手の甲。片方のレンズが割れた丸眼鏡。
今度は数を数えなかった。顔を数えた。
そして、妹と、妹の二人の子ども。
俺の土地の民。城中庭の端で待っていた人々。
その人たちが何を払ったのか、俺はまだ知らない。
クレヨンで書いていた文章は、そこで切れていた。
その続きを、封印官が持っている。見せてやると言った。
傷つけたもの。
俺。
* * *
欄の差がありすぎた。
左は長く、右は一行だけだった。
10か月前、課題14で俺は二つのリストを作った。
俺が知っている俺と、他人が見た俺。
あのとき、右の方が一貫していた。
今も右は一貫している。一語しかないからだ。
このリストを書いている手を見下ろす。
この手が司祭の手首をつかんだ。
この手が新人の首を絞めた。あの騎士と共に。
今夜、この手から名のないものが流れ落ちて、牧師を包んだ。
この手が、あいさつの温かい手を握った。
この手が相談員の眼鏡を拾い、その手の横に置いた。
この手が今、持ち出し禁止のボールペンを握っている。
傷つけた手と、傷ついた者をつかんだ手は、同じ手だ。
相談員の言うとおりなら、今書いているこの手が俺だ。
だとしたら、どちらも俺だ。
割れた窓越しに、運動場が見えた。
運動場の真ん中に、あいさつがまだ倒れていた。
そのそばに懐中電灯が落ちて、土の地面を照らしていた。
正門の方から、脇門が開く音がした。
黒いジャケットの連中が運動場に入ってきた。
二人があいさつの方へ駆けていった。
いくつもの懐中電灯の光が、運動場をなぞった。
その光が運動場の端を通り過ぎたとき、そこに小さな白い影があった。
子どもだった。
子どもは運動場の北端、刑務所の塀の下で、また手のひらを下に向けて歩いていた。
新しい円を描いていた。さっきより大きな円だった。
今度は、チュックのネットが引っかからない場所に。
頭の奥で、大きな欠片がひとつ、まだ待っていた。
名前。
接見室のガラス越しの手のひらは、その欠片を押し込まなかった。
自分で合わせろと言った。
相談員の書いた一行には「今書いているのが、あなたです」とあった。
そのあなたには、まだ名前がなかった。
この身体の名は、この身体のものだ。
俺の名前は、白いものの中に散った。
課題26の署名欄は空いている。
その欄を埋める名前を、俺はあの円の真ん中で見つけることになる気がした。
初霜の日、城中庭の真ん中で封印官が三度呼んだという、その名前を。
* * *
最後のページの余白に、一行だけ書いた。
彼が読めるように。
* * *
1年半のあいだ、俺は理由を探した。
疲れていた。教本のせい。説教のせい。罪悪感が夜に降る罰。
理由が見つかれば、怖さが少し減った。
理由があれば、その出来事は俺のものでなくてもよかった。
相談員の一行は、理由をくれなかった。
誰の記憶であっても。
理由を問わない、という言葉だった。
記憶が誰のものかを問わず、いま書いている者に尋ねる、という意味だった。
いま書いている者は、何をするのか。
運動場の真ん中に、円が引かれている。
「あいさつ」が、その一本の線を体で覆った。
子どもは、庭を引き直すと言った。
この空の庭は網だらけだと、ぼやきながら。
子どもはいまごろ、どこかでまた円を引いているのだろう。
俺を立たせるために。
初霜の、城中庭の真ん中に。
俺はあの日、その場所に立たなかった。
逃げた。
そうしたかったからだ。
言い訳はできない。
今夜、その場所がまた引かれている。
その場所と俺のあいだで、三人が倒れた。
三人は、その場所が何なのか知らなかった。
それでも俺の前に立った。
今度は俺が、その場所へ行って立つ。
誰も俺の前に立たないように。
怖いものは見るな、目を閉じて寝ろと、この身体は6年間、子供たちに言った。
俺が見る。
その言葉は、あの騎士の言葉だった。
今夜、俺はその言葉を盗んで使わない。
あの騎士の代わりに言う言葉ではなく、自分の手で言葉を書く。
傷ついた者たちの前に、今度は傷つけた者が立つ。
立ち上がる前に、相談室の中を覗いた。
相談員のメモに、持っていくものが書いてあった。
書類ファイル、鉢植え三つ。
書類ファイルは相談員が持った。
鉢植えは持てなかった。
窓枠のガラスは、すべて割れていた。
真ん中の鉢植えは運動場の方へ落ちて、なくなっていた。
外の窓辺にあった枯れた鉢植えは、割れた窓の向こうにそのままあった。
手は届かなかった。
窓枠の内側に、右の鉢植えが一つ残っていた。
割れたガラスの破片が、葉の上に載っていた。
葉は七枚のままだった。
俺は相談室に入り、その鉢植えを手に取った。
葉の上のガラス片を、指で払い落とす。
指先が少し切れた。
その鉢植えを持って外へ出ると、相談員の頭のそば、廊下の壁側に下ろした。
割れた窓から遠い場所だった。
相談室の備品がまた一歩、相談室の外へ出た。
書類の上では、まだ相談室に属したまま。
相談員が目を覚ましたら、これも備品台帳のどの欄に書くか悩むだろう。
悩ませたかった。
悩めるよう、目を覚ましてほしかった。
ボールペンを相談員の手のそばに置く。
持ち出し禁止のシールが上を向くように。
書類ファイルは相談員の腕の上にそのまま置いておく。
この最後のページも、そこに挟んでおく。
立ち上がる。
運動場側の割れた窓から、熱い風が入ってくる。
運動場の真ん中の土が、月明かりで白い。
その真ん中へ向かう。
* * *
相談員の最後のメモの次の行には、彼の筆跡が続いていた。
横書きで、罫線に揃えて。
最後の行は、罫線のちょうど真ん中にあった。
持ち出し禁止のボールペンは、相談室の敷居から一歩外に置かれていた。
備品台帳には、その一歩を記入する欄がない。




