第90話 傷ついたものと傷つけたもの(2)――火のしの月
班長が医療課の連中を連れて上がってきた。
看護師が1人と、医療課の刑務官が2人。担架はなかった。
担架は地下倉庫にあった。地下倉庫の扉は電子式で、停電のせいで閉ざされていた。
医療課の刑務官たちは毛布を1枚広げ、その上に牧師を寝かせた。4人が毛布の四隅を掴んだ。
牧師は毛布の上で目を開けた。
「担架の代わりが毛布かい」
看護師が停電ですので、と答えた。
「俺が教会をやってた頃はな、献金を毛布で受け取ったことがあるんだ」
献金箱が足りなかったリバイバル集会の日のことだった。
「毛布で運ばれてると、あの日の献金になった気分だ」
看護師はしゃべらないでください、と言った。
牧師はその言葉を聞いて口を閉じた。口を閉じたまま笑った。
牧師は運ばれる前に、俺を見た。
「行ってやりな。あいさつの旦那がついていったよ」
俺はうなずいた。
班長が俺を止めようとして、やめた。舎棟の壁は割れていた。鉄扉は開いていた。塞ぐ扉がなかった。班長は緊急対応マニュアルを探そうとして、やめた。さっき捨ててしまったからだ。
* * *
階段を下りた。舎棟一階の出入り口も開いていた。錠がひとりでに回った扉だった。扉の外は運動場だった。
月明かりが運動場を照らしていた。土の地面が白く見えた。チュックのネットが運動場の真ん中にそのまま張ってあった。チュック大会の準優勝の時、俺が塀の方へ蹴ったボールが落ちた場所が、ネットの向こうにあった。その場所には今、何もなかった。土だけが白かった。
運動場の端に、刑務所の塀が高く立っていた。鉄条網が月明かりに光っていた。その塀の向こうに山があった。山の中腹の丘。俺が1年前、この運動場から見上げて、誰かがあそこから俺を見下ろしているかもしれないと思った丘。
子供は運動場の真ん中にいた。チュックのネットのそばに。
子供は手のひらを下に向けて歩いていた。歩きながら、土の地面に何かを描いていた。手は土に触れていないのに、土に線が生まれた。丸い線だった。
子供は運動場の真ん中を中心に、大きく円を描いて歩いた。神殿の庭の丸い石たちのように。城中庭の石の枠のように。
子供が通り過ぎた場所の土が、少しずつ沈んでいった。真ん中がくぼんでいくようだった。人々が長いこと立っていた場所のように。
円を半ばまで描いたとき、子供の足がチュックのネットに引っかかった。
子供はよろけた。短い脚が網に絡んだ。
子供は足を抜こうと何度かもがいた。網は頑丈だった。
子供は結局、手を伸ばして網を持ち上げ、その下を這って出た。そして網を振り返り、語尾を長く引いた。
「この空の庭は網だらけよのう」
* * *
あいさつが懐中電灯を持って運動場の端に立っていた。もう一方の手には、勤務日誌を挟んだクリップボードがあった。
あいさつは子供を追って下りてきてからも、ずっとそこに立っていたようだった。懐中電灯の光が子供を照らした。
子供は光を気にしなかった。円を最後まで描いた。
あいさつがクリップボードに何かを書いた。懐中電灯を脇に挟んで、ボールペンで。時刻を記録しているようだった。
何を書いたのかは後で分かった。勤務日誌の時刻欄に0時42分、特異事項欄に運動場内児童1名。
あいさつはそんな夜にも欄を埋めた。欄があるからだ。
俺は運動場に入った。子供が顔を上げた。
「来たか。庭は建て終えたぞ」
円が閉じていた。運動場の真ん中で、土の地面が丸く沈んでいた。その真ん中が一番深かった。
その場所が俺を待っていた。初霜の城中庭の真ん中のように。
足がそちらへ動いた。
俺が動いたのではない。円の真ん中のくぼみが、俺の足を引いた。
一歩。また一歩。
土が足の下で滑った。俺は踏ん張った。手を上げた。
指先が熱かった。黒いものが指先に玉になり、落ちなかった。円の中では、それが流れ落ちなかった。
子供が笑った。
「その庭では、そなたのものは出ぬ。そなたのものを閉じ込めるために編んだ枠なのだから」
* * *
「あいさつ」が俺の前に立った。
どこから来たのか、分からなかった。運動場の端にいた「あいさつ」が、いつの間にか円の中に入っていた。俺と、円の真ん中の間に。子供と、俺の間に。
懐中電灯が地面に落ちて転がった。光が土の地面を照らしたまま、止まった。クリップボードは、まだ手に持ったままだった。
「あいさつ」は何も言わなかった。背中を俺に向けて、子供と向き合っていた。
1年半の間、配膳口の向こうで、たいてい手だけが見えていた人。
手の甲に皺の多い手。
その手が今、クリップボードを握っていた。制服の背中が月光に濡れていた。
汗だった。晩夏の夜だった。
子供が「あいさつ」を見上げた。「あいさつ」は50を過ぎた男で、子供は9歳にもならない体だった。子供の背は、「あいさつ」の腰のあたりに、やっと届くほどだった。
子供は「あいさつ」を避けて、俺の方を見ようと首を傾げた。
「あいさつ」が言った。
「こんにちは」
子供に。
1年半の間、毎朝俺に言っていたその言葉を、息を止めることなく、最後まで言い切った。
「こんにちは」の「は」が、運動場の熱い空気の中へ広がった。
子供が止まった。その言葉を初めて聞く顔だった。
この空に来て、子供の体に入った老人は、そんなあいさつを受けたことがなかったのだろう。
老人は子供の眉を上げた。両方とも。そして、語尾を引き延ばさず、短く言った。
「退け」
「あいさつ」は退かなかった。
* * *
子供が、手のひらを横に払った。
舎棟の壁を裂いた、あの仕草だった。
音も光もなかった。
「あいさつ」の体が横へ押しやられた。何かにぶつかったみたいに。
「あいさつ」は土の地面に倒れた。クリップボードが手から落ちて、滑った。勤務日誌が風に一枚めくれた。
「あいさつ」の制服の脇腹が濡れていく。汗じゃなかった。
懐中電灯の光がその場所を照らした。黒ずんだ赤だった。
「あいさつ」は倒れたまま息をしていた。荒かった。息を止めなかった。
あの人は、最後まで息を止めない人だった。
俺は「あいさつ」の横に膝をついた。
円の真ん中へ引きずられていた足が、止まった。
「あいさつ」が円の中へ倒れ込んで、円の線を一本、体で覆った。土に引かれた線が、体の下で切れた。
俺を引きずっていた力が、そこで漏れ出していった。
「あいさつ」の手を握った。温かかった。
入所した日の夜、収容事由書を差し戻したあの手。誕生日に飯の中へ餅を隠したあの手。その手が、血に濡れていた。
* * *
子供は切れた線を見下ろした。舌を鳴らした。老人みたいに。
「庭を描き直さねばならぬな」
子供は円の外へ歩き出した。本館の方へ。
本館は運動場の東側にあった。2階の端の窓で、灯りがひとつ動いていた。懐中電灯の光。相談室の窓だった。
その窓の内側の桟に鉢植えが二つ。外側の窓台に、枯れた鉢植えがひとつ。
子供は本館を見上げた。そして、手のひらを払った。運動場から本館の方へ。
今度は音がした。ガラスの割れる音。
本館の2階の窓が、一列に割れた。相談室の窓も。
窓の内側にあった鉢植えがひとつ、割れたガラスと一緒に下へ落ちた。真ん中のものだった。
土をこぼしながら落ちた。誰も話しかけたことのない鉢植え。なんでもなさそうに見えていた鉢植え。
相談室の窓の中の懐中電灯が揺れたかと思うと、消えた。
* * *
正門の方から、歌声が聞こえた。
白い服を着た人たちだった。折りたたみ椅子から立ち上がって、何かを歌っていた。
讃美歌のようでもあり、そうでないようでもあった。
正門の外には、管理局のワゴン車のヘッドライトが点いていた。
電子式の正門は、停電で開かなかった。
黒いジャケットが何人か、正門の脇の通用口を手で揺すっていた。
俺は「あいさつ」の手を離して、立ち上がった。
「あいさつ」が、俺のズボンの裾を掴んだ。力はなかった。それでも掴んでいた。
「あいさつ」は何も言わなかった。首を一度振った。行くなということなのか、行けということなのか、分からなかった。
「あいさつ」の手が、裾から滑り落ちた。
本館へ走った。
1階の出入り口は開いていた。錠がひとりでに回った扉だった。
階段を上がった。
2階の廊下は暗かった。非常灯も消えていた。
割れた窓から月光が入り、床のガラス片を照らしていた。
廊下の突き当たり、相談室の扉の前に、誰かが倒れていた。
丸眼鏡が床に落ちていた。片方のレンズが割れていた。
その横に、相談員がうつ伏せに倒れていた。両腕で、何かを抱えたままだった。
書類ファイルだった。分厚いファイル。2年半の相談記録。俺の課題たち。
テープで貼った3枚。机の線を写し取った紙。白い封筒に入れた手紙。
相談員はそれらを胸に抱えたまま、うつ伏せていた。
割れたガラスの破片が、相談員の背中の上に落ちていた。額から血が流れて、床に溜まっていた。
相談員は息をしていた。意識はなかった。
俺は相談員のそばに立った。
廊下の端、運動場側の割れた窓から風が入ってきた。熱い風だった。
運動場の真ん中に、「あいさつ」が倒れていた。
舎棟3階の廊下、非常灯の下では、牧師が毛布に載せられて運ばれていくところだろう。
そしてこの廊下には、相談員がうつ伏せていた。
俺のせいだった。
俺を閉じ込めに来た者のせいではなかった。そいつは、俺が約束の日に立たなかったから来た。
俺が、初霜の日の朝、城中庭ではなく神殿の庭に立っていたから。
その勘定から、俺は自分の土地を外した。
そして今夜、その勘定から外したものが、この空まで来て3人を倒した。
息を止めなかった人、偽牧師、鉢植えに水をやる量を減らすやり方を習っていた人。
俺はその3人を見た。
3人とも、俺を守ろうとして倒れた。
俺には人を守る資格がない人間だと知っていてそうしたのか、知らずにそうしたのか。俺にはわからない。
孤児院の壁の上で、この身体は6年間、子どもたちの前に立っていた。崩れた壁の前では、両手で隙間を塞いだ。隙間の向こうでぎらついていたものは、俺のものだった。
今夜、その立ち位置が逆になった。牧師が俺の前に立ち、「あいさつ」が俺の前に立った。相談員は俺の課題を抱えたまま、うつ伏せていた。
その人たちの背後に立っていたのは、俺だった。
その人たちが塞いだのは、俺を閉じ込めに来たものだった。そして、それをこの空まで呼び寄せたのは、俺だった。
塞ぐ側と、塞がれる側と、呼び寄せた側が、今夜この刑務所で一列に並んだ。その列のいちばん端に、俺がいた。
俺はへたり込まなかった。立ったまま、相談員を見下ろした。へたり込んだら、もう立ち上がれない気がした。
床に落ちた眼鏡を拾った。割れていないほうのレンズに、月明かりが映っていた。その眼鏡の向こうから、相談員は2年半、俺を見ていた。最初の70日間は鉢植えを見ながら。それからは、半分こルールどおり、質問をするときだけ。
俺は眼鏡を、相談員の手のそばに置いた。
相談員の手は、書類ファイルを握ったままだった。書類のあいだから、白い封筒の角がのぞいていた。宛先も差出人も書かれていない封筒。その封筒の上に、相談員の血が一滴落ちていた。
* * *
その夜、「あいさつ」の勤務日誌の最後の欄には、「0時42分、運動場内 子ども1名」と書かれていた。その次の欄は空だった。
相談室の窓枠から落ちた真ん中の鉢植えは、運動場側の花壇に土をこぼした。窓枠の内側には、右の鉢植えがひとつ残った。外側の窓辺の枯れた鉢植えは、ガラスが割れたときも落ちなかった。




