第89話 傷ついたものと傷つけたもの(1)――火のしの月
鉄扉の錠が、ひとりでに回った。
鍵穴の中で、鉄が鉄をこする音がした。カチッ。
頭の内側で、欠片が噛み合うときと同じ音だった。
鉄扉が内側へ半ばまで開いた。蝶番は鳴らなかった。
扉の向こうに、子どもが立っていた。
非常灯の赤い光が、子どもの背中側から差していた。
子どもの顔は暗かった。白い司祭服だけが、赤く染まっていた。
牧師が俺の背後で息を呑んだ。今度は、長かった。
2年半前、この部屋で俺を初めて見て、3秒間息を止めた男だった。その日より長かった。
子どもは敷居を越えなかった。
扉枠の内側に立ったまま、俺を見た。
そして、手を上げた。袖がずり落ちた。
小さな手のひらが、俺へ向いた。
空港でカメラに向かっていた、あの手。接見室のガラスに触れていた、あの手。
「お立ちなされ。約束の日の庭は、ここで組み直すとしようぞ」
* * *
廊下の端から、班長が懐中電灯を持って走ってきた。
班長は、開いた鉄扉とその前の子どもを見て、足を止めた。
懐中電灯の光が子どもを照らした。子どもは振り返らなかった。
班長は無線機を手に取った。
「舎棟3階、未確認の外部者侵入、子どもと推定」
無線機からは雑音しか出なかった。
停電のせいなのか、それとも別の理由なのか。無線は通じなかった。
班長は無線機を下ろし、緊急対応マニュアルを開いた。
懐中電灯で照らしながら、ページをめくった。
外部者侵入時。その欄を見つけた。
班長はその欄を声に出して読んだ。「侵入者を刺激せず、会話で時間を確保する」
班長は子どもを見て、マニュアルに書かれたとおりに言った。
「坊や。ここは入っちゃいけないところだよ。お母さんはどこにいるんだい」
子どもが班長のほうへ顔を向けた。とてもゆっくりと。
そして、語尾を長く引き伸ばして答えた。
「そなたの母よりも、わしのほうが長く生きておるわい」
班長はマニュアルを落とした。
マニュアルには、その次の台詞がなかった。
* * *
子どもが手のひらを横に引いた。
音はしなかった。光もなかった。なのに、房と廊下のあいだの壁が裂けた。子どもの手が引いた線に沿って。
コンクリートの壁に、一本のひびが走った。
ひびは上へ伸びた。天井まで。天井から漆喰の粉が落ちてきた。
ひびが開いた。壁が二つに割れて、傾いた。
舎棟全体が揺れた。隣の房で誰かが叫んだ。その隣の房でも。鉄扉を叩く音が舎棟を伝って広がった。非常灯が点滅した。
「龍だ!」
どこかでうなぎの刺青が叫んだ。何を見たのかは分からない。うなぎの刺青は生涯、龍を見たがっていた。鱗を半分しか描いていない腕の代わりに。
「ひびが三本だ! いや、四本!」
点をひとつ多く数える男が叫んだ。壁に走ったひびは一本だった。その男の数え方では四本だった。そんな夜でも、その男は数えた。ひとつ多く。
* * *
子どもは割れた壁のあいだを通って入ってきた。敷居を越えず、壁を越えて。この房に扉があるかどうかは、子どもには関係なかった。
「そなたが築かぬ庭、わしが築くであろう。そなたが立たなかった場所に、そなたを立たせるであろう」
子どもが、もう一度手を上げた。今度は、俺に向けて。手のひらではなく、指先を。
指先から何かが出た。光ではなかった。影でもなかった。空気が畳まれるようだった。
房の中の空気が、子どもの指先から俺のほうへ畳まれて吸い込まれた。畳まれて入ったものは、もう二度と開かない気がした。
封印。一年半をかけて編んだという、その枠が、子どもの小さな指先から畳み出されていた。
俺は避けなかった。避ける場所がなかった。寝台と壁と子どものあいだ。二年半、俺が暮らした房。
俺は、その房で自分が立っているべき場所を知った。城中庭の真ん中。初霜。
俺はあの日、その場所に立たなかった。
今、その場所がこの房へ畳み寄せられてきていた。
そのとき、牧師が俺の前に立ちふさがった。
* * *
牧師は何も言わずに、俺の前に歩み出た。
腹の出た六十代の身体だった。頭は半分、白い。
牧師は両腕を広げた。説教壇で信者たちを祝福していたときの姿勢だった。手のひらは、子どものほうへ開かれていた。
「業界の後輩に手を出すもんじゃないぞ」
牧師が言った。声は震えていなかった。説教の声だった。三十年のあいだ、地獄を売り続けてきた声だった。
子どもの指先から畳み出されていたものが、牧師に届いた。
牧師の身体が畳まれた。腰ではなかった。全身が一度、くしゃりと丸まるように縮こまった。
牧師は声を出さなかった。息が抜けていく音だけがした。
牧師は俺の前で膝をついた。そして、横へ倒れた。寝台の角に頭がぶつかった。ひびが六十八本入った合板の角だった。
牧師の口から血が流れた。目は開いていた。息をしていた。浅く、速かった。
子どもが首を傾げた。牧師を見下ろした。その人が誰なのか、子どもは知らなかった。気にもとめなかった。
子どもの目が、また俺を探した。
* * *
指先が熱かった。
学堂の地下で、十一の森で、神殿の庭で熱かった、あの指先。この空の下で三年以上、何も出なかった指先。
医療課の記録には、異常所見なし、と書かれていた。管理局はこの身体の神聖力を測り、三か月で消えたことを確認した。それは、あの騎士の力だった。
俺の指先は、誰も測ったことがなかった。
牧師が倒れた床を見た。血が、コンクリートの床に広がっていた。晩夏の夜の暑さの中で、その血は黒く見えた。
俺は手を上げた。手のひらを下へ。
指先から、黒いものが流れ落ちた。
水のようでもあり、煙のようでもあった。指先から落ちて、床を伝って広がった。牧師の身体の周りを包んだ。そして、子どものほうへ這っていった。
音は、しなかった。子どもの指先から畳み寄せられてきていた空気が、黒いものに触れて止まった。
畳みは、そこから先へ進めなかった。黒いものは畳まれた場所を埋め、そこで耐えた。
この空の下では、初めてだった。
この身体の指先から、俺のものが出たのは。
俺は名を呼ばなかった。意志も送らなかった。それなのに、それは出た。
俺が名を付けたものたちではない。あれらは、あっちの空の森にいる。
これには、名がなかった。
初めて学堂の地下で巻物を読み、国境の村の丘の上で手を上げたときのように、名のないものが指先から流れ落ちた。
俺はそれを収められないと分かっていた。それでも流した。
牧師の身体の周りで、それは壁のように立った。森と村の間の壁のように。
* * *
子どもが手を引いた。
畳まれかかっていた空気が、ほどけた。子どもは黒いものを見下ろした。そして笑った。老人のように、喉の奥だけで。
「今ごろになって、ようやくそなたの手か。名のないものをまた呼んだな。収めることすらできぬものを」
子どもは後ろへ下がった。割れた壁の間へ。廊下へ。赤い光の中へ。
子どもは急がなかった。廊下の端へ歩きながら、語尾を長く引いた。
「庭は広く造らねばなるまい。この部屋は狭い」
子どもの足音が廊下を伝って遠ざかった。一歩ごとに二度ずつ。
非常灯の下を通るとき、子どもの影が壁に長く伸びた。老人の影のように。
廊下の端で、別の足音が子どものほうへ近づいてくるのが聞こえた。懐中電灯の光が揺れた。
あいさつだった。深夜0時から廊下の端に立って、入口のほうを見ていた者。
あいさつの懐中電灯が子どもを照らした。子どもが止まった。
懐中電灯の光の中で、子どもとあいさつが向かい合った。あいさつが何かを言う声が聞こえた。短い言葉だった。何と言ったのかは、聞こえなかった。
子どもはまた歩き出した。あいさつを通り過ぎて、階段のほうへ。
あいさつは子どもを引き止めなかった。懐中電灯を持ったまま、子どもの後ろについて階段を下りていった。
足音が二つ、階段の下へ遠ざかった。一つは一段に二度ずつ、一つは一段に一度ずつ。
* * *
俺は牧師の横に膝をついた。黒いものはまだ牧師の体の周りに、塀のように立っていた。俺はそれをしまう方法を知らなかった。手を下ろした。黒いものは、俺の手が下がるぶんだけ低くなった。収まりはしなかった。床に染み込むように沈んだ。セメントの床に、影のような染みが残った。
牧師の目が俺を見た。血に濡れた口が動いた。笑っていた。2年半前、この部屋で俺を見て、3秒息を止めたあとに笑った、あの顔だった。
「おい」
牧師が言った。声がかすれていた。
「お前の手から、何が出てたっけな」
「言わないでください」
「俺はそれ、初日に見た。お前が初めて入ってきたときだ。3秒。あのとき見たのが、それだ。お前の手から真っ黒いものが流れ落ちて、子どもたちのほうへ」
俺は牧師の顔を見た。九枚。子供を食う怪物。白い部屋の九人は、そう書いた。牧師は同じものを、別の言葉で見た。手から黒いものが流れ落ち、子供たちのほうへ行くもの。あの連中が見たものと牧師が見たものは、同じものの前と後ろだった。九人はその終わりにあるものを見て、牧師はその始まりを見た。指の先を。
牧師が咳をした。血がもっと出た。
「約束は守った。言わなかったろう。2年半。詐欺師でも約束は守るんだ」
俺は牧師の手を握った。冷たかった。マセルンの手のように。俺はその手を両手で包んだ。井戸で子どもの手を包んだときのように。手のひらは温かくならなかった。この身体の手は治す方法を忘れていた。俺の手は、最初から治す方法を知らなかった。
班長が戻ってきた。落としたマニュアルを拾い直していた。班長は倒れた牧師を見て、マニュアルをめくった。負傷者発生時。医療課に直ちに連絡する。班長は無線機を取った。雑音しか出なかった。班長は無線機を置き、しばらく立っていた。それからマニュアルを床に投げ捨てた。そして牧師の反対側の肩を掴んだ。一緒に運ぼう、と言った。
俺と班長は牧師を抱え上げ、廊下へ運んだ。牧師は重かった。30年、献金で肥えた腹だ、と牧師が息を荒げて言った。班長は笑わなかった。俺も笑わなかった。牧師だけが笑った。
廊下の非常灯の下に、牧師を横たえた。
班長は医療課へ人を呼びに走った。階段を下りていく懐中電灯の明かりが、揺れながら遠ざかった。
俺は部屋の中の床を見回した。
黒いものが沈んだ場所には、影のような染みが残っていた。
それは収められたわけではなかった。床の下へ潜っただけだ。この刑務所の床の下へ、その下の土へ。
学堂の地下の巻物には、それを収める方法はなかった。
あっちの空の十一の森のように、こっちの空の下のこの土地にも、もう俺のものがひとつ染みこんでいた。
名前はなかった。まだ。
牧師が俺の手を握り返した。力はなかった。それでも、握った。
非常灯の赤い光が、牧師の顔を照らした。半分ほど白くなった髪に、漆喰の粉が積もっていた。説教壇に立っていた日のように、髪を櫛で梳いて後ろへ流すことのできない顔だった。
牧師はその顔で、もう一度笑った。
「見ろ。偽物が二人で、本物のことをやってる」
* * *
その夜、舎棟の三階の壁に走った亀裂は一本だった。
点をひとつ多く数える男は、翌朝まで、四本だと言い張り続けた。
牧師は、初日に息を止めた三秒のあいだに見たものを、2年半、領収書コレクションに挟まなかった。




