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第88話 烙印(3)――糸くずの月

医療課の観察室から舎棟に戻ったのは、夕方の点呼の直前だった。


部屋の扉を開けると、牧師がベッドに座っていた。


牧師は俺を上から下まで眺めた。俺の腕には、点滴の針の跡が残っていた。


その跡を見て、牧師は舌を打った。


「特別編が始まったか」


「まだです」


「業界の先輩に会って倒れたんだってな。舎棟中に広まってるぞ。あのガキが掌を当てた途端、お前がぱったり倒れたって話だ。うなぎの刺青は、あれが本物の按手祈祷だって言ってた。自分も受けてみたいんだと」


牧師はそう言って、笑わなかった。


それから牧師は、俺のノートを探した。


ノートは相談室にあった。今朝、あいさつが持って行った。


牧師は手ぶらの俺を見て、今度の課題は自分には読んでくれないのか、と訊いた。


クレヨンで書いたので読みにくいと思います、と俺は答えた。


牧師は、クレヨンなら子どもの字か、と訊いた。


違います、と俺は言った。老人の字です、と。


牧師はしばらく俺を見つめてから、子どもの体に老人が入るなら、その反対もあるのか、と訊いた。


俺は答えなかった。


夕方の点呼のとき、あいさつが配膳口の前に立った。


「こんにちは」


俺は答えた。


あいさつは、配膳口の蓋を閉じる前に、手を少しの間止めた。それから閉じた。


その夜、あいさつは夜勤だった。


* * *


明かりが落ちたのは夜の9時4分だった。


舎棟の廊下の蛍光灯が一斉に消えた。ちらつきもなかった。天井の扇風機が止まった。


晩夏の夜だった。扇風機が止まると、部屋の中の熱い空気がその場で固まった。


舎棟のあちこちで声がした。


「なんだ」「停電だ」「扇風機」


誰かが鉄扉を叩いた。


三秒後、非常灯が点いた。廊下の両端に一つずつ。赤い光だった。


非常灯の光は廊下の真ん中までは届かなかった。真ん中は暗かった。配膳口の隙間から赤い光が細く漏れ入ってきた。天井に細い線を引いていた廊下の明かりは、もうなかった。


班長が懐中電灯を持って廊下を回った。もう片方の手に薄い冊子があった。非常対応マニュアル。


班長は部屋ごとに配膳口を開け、懐中電灯でマニュアルを照らしながら読み上げた。


「停電の際、収容者はその場で待機する。鉄扉を叩かない。非常用発電機が起動するまで、落ち着いて待つ」


俺たちの部屋の前で、班長はその三行を読み終えると、ページをめくった。次のページを照らして、しばらく何も言わなかった。


「次は何ですか」


牧師が訊いた。


「非常用発電機が起動しない場合。その欄は空です」


班長はマニュアルを閉じた。


発電機は起動していなかった。地下の発電機室から、人が叫ぶ声がかすかに聞こえた。発電機の回る音はしなかった。


* * *


房の窓は正門の方へ向いていた。金網の向こうに刑務所の前庭が見え、その向こうに正門が見えた。


正門の警備室の明かりも消えていた。刑務所全体が消えていた。塀の外の街灯も消えていた。町全体が消えたようだった。月明かりだけがあった。


正門の前に人々がいた。


白い服を着た者たちだった。月明かりの中で、白い服がぼんやり浮かんで見えた。十二人。


彼らは正門前の道端に折りたたみ椅子を広げて座っていた。椅子は十三脚あった。真ん中の一脚が空いていた。


人々は水筒から何かを注いで飲んでいた。暑い夜なのに。


誰かが正門脇の柱に貼られた掲示の前で携帯のライトを点け、写真を撮った。掲示には、矯正施設、無断立入禁止、と書いてあった。


牧師が俺の隣に来て、窓の外を見た。


「業界の人たちだな」


「ご存じですか」


「知らんでも分かる。ああやって座っているのは、待っているんだ。何かが来るのを。俺も信者たちをああやって座らせて待たせたことがある。待たせると、信じるようになる。待った時間が惜しくなってな」


牧師は真ん中の空いた椅子を指さした。


「あの席の主は、まだ来ていないな」


その席の主は、もう来ていた。


俺には分かった。


うなじがすっと冷たくなった。


サイレンが聞こえた。


遠くから、だんだん近づいてくる。


ワゴン車が2台、正門の前に止まった。ヘッドライトの光が、白い服を着た人たちの上を、端から順になぞった。


人々は立ち上がらなかった。水筒を傾けて飲んでいた。


ワゴン車のドアが開き、人が降りてきた。黒いジャケット。背中に文字があった。月明かりでは、その文字は読めなかった。


そのうちの2人が、警備室の方へ歩いてきた。


1人は背が低く、肩が丸かった。もう1人は女で、夜なのにサングラスをかけていた。


国家移住管理局特殊課。白い部屋のあった、あの機関だった。


俺は、その2人を知らない。俺が白い部屋にいた4か月のあいだ、配膳口の向こうにいたのは、別の顔ぶれだった。


あの2人は、俺が出たあとに来た者たちだろう。八番目が使っていた、あの部屋の者たち。


20分ほどして、その2人が懐中電灯を持って、俺たちの舎棟に入ってきた。


班長が先に立った。管理局から、対象収容者の位置を確認しに来たのだと言った。


対象収容者は、俺だった。


背の低い方が、配膳口の前に立った。懐中電灯を下に向け、頭を下げたまま。


呪いは2年前に終わったのに、その人は俺を見なかった。


教えられたとおりだったのだろう。あるいは、別の理由があったのだろう。


あの機関の職員が1人、4か月目になった日に、俺の手の中で息を止めた。


その人が、それを知らないはずがなかった。


「位置、確認しました。室長は車にいらっしゃいます」


背の低い方が、無線機に向かって言った。


その横で、サングラスの女が、暗い廊下で敷居につまずいてよろけた。


背の低い方は、頭を下げたまま言った。


「それ、外せよ。今、夜だぞ」


女はサングラスを外さなかった。代わりに、壁に手を突いて歩いた。


* * *


管理局の人たちが帰り、舎棟はまた赤い闇になった。


正門前の白い服の人たちは、そのまま座っていた。12人、椅子は13脚。


俺は窓の前に立って、その空の椅子を見た。


烙印。勝った側が、負けた側に押すもの。


チラカは、降伏した町ごとに布告文を貼った。国民を死地に追いやった、最悪の売国奴。


2年半のあいだ、俺はその言葉を知らなかった。


思い出してからは、その言葉は間違っていると思った。


俺は人を守ろうとして、禁忌を破った。


彼らは、それで国民を死地に追いやった、と書いた。


勝った側の烙印だった。負けた側は、その布告文を剥がせなかった。


ところが、その布告文を持って俺の土地へ逃れてきたあの人は、毎晩、扉に鍵をかけた。


森から降りてくるものたちのせいで。


俺が名前を付けたものたちのせいで。


孤児院の塀の向こうの子供たちも。国境の村の犬たちも。井戸水が黒くなった村も。


勝った側が押した烙印と、俺が自分の手でしたことは、違わなかった。


売国奴という言葉は、勝者の言葉だった。そして、その言葉は正しかった。


黒魔法は、俺の指先から流れ落ちたものだった。それも正しかった。


烙印は嘘ではなかった。嘘ではないから、剥がせなかった。


白い部屋の経緯書の9枚も、烙印だった。


子供を食う怪物。


9人が、俺の顔に押したもの。


俺はこの2年半、その烙印が間違っていると信じていた。あの人たちは、間違っていなかった。


11時ごろ、舎棟のどこかで歌が始まった。


讃美歌だった。


声が出た。牧師だった。


この数か月、唇だけで歌っていた歌を、牧師は闇の中で声に出して歌った。音程も拍子も、相変わらず合っていなかった。


班長が懐中電灯を持って駆けてきた。「誰が歌っている」と叫んだ。


舎棟全体が静かになった。


班長は、部屋という部屋に懐中電灯を当てていった。


牧師は、班長が俺たちの部屋の前に来るより先に、口を閉じた。


班長は、懐中電灯の光の中で、寝台にまっすぐ横たわる牧師を見た。牧師は寝たふりをしていた。


班長はしばらく立っていたが、やがて行ってしまった。


「暗くて、誰が歌ったのか確認できない」と言った。


「確認できない騒ぎには、警告書は書けない」とも言った。


班長が通り過ぎると、牧師が小さな声で言った。


「暗いときに歌うべきだった。30年の間、明るいところでしか歌わなかったから、分からなかったんだ」


0時ごろ、懐中電灯の光がまた廊下を伝ってきた。


班長ではなかった。足音が違った。「あいさつ」だった。夜勤だ。


「あいさつ」は部屋ごとに懐中電灯を当てながら通り過ぎていった。俺たちの部屋の前で止まった。


懐中電灯の光が鉄の扉の小さな窓から入ってきて、俺の顔に当たった。「あいさつ」が言った。


「こんにちは」


0時にするあいさつだった。この2年半、「あいさつ」がその言葉を真夜中に口にしたことはなかった。


俺は答えた。


「あいさつ」は懐中電灯を下ろし、次の部屋へ行った。足音が遠ざかり、廊下の端で止まった。


「あいさつ」はそこに立っていた。非常灯の赤い光の下で、舎棟の入口のほうを見ていた。


俺は寝台に座って、その足音がまた動き出すのを待った。部屋の中は暑かった。扇風機が止まってから3時間が経っていた。


牧師の額に汗が浮いていた。俺の背中も濡れていた。晩夏の夜の暑さは、闇の中ではさらに重かった。


動かなかった。「あいさつ」は廊下の端に立って、何かを待っていた。


それが何なのかは、「あいさつ」自身にも分からなかっただろう。俺には分かっていた。


頭の内側で、かけらがまた一つはまった。カチッ。


妹の上の子が城門の前にしゃがみ込んで、道を見ている場面。


その次の場面は、まだ来なかった。


封印官が、その次の場面を持って、こちらへ来ていた。


* * *


午前1時ごろだった。廊下の端の階段で足音がした。


小さな靴が階段を上る音。ひとつの段に二度ずつ足を置く音。脚の短い者の歩みだった。


なのに、その歩みは遅かった。重かった。長く歩いてきた者の足取りだった。


舎棟の入口の鉄扉は施錠されていた。停電になっても錠はそのままだ、と班長は言っていた。


足音は鉄扉の前で止まらなかった。鉄扉が開く音もしなかった。


ところが足音は、鉄扉の内側、廊下に入っていた。


廊下の端の非常灯の赤い光の下を、小さな影が通り過ぎていった。白い司祭服。袖が指先を覆っていた。


子供の司祭は一人だった。老司祭も、信徒もいなかった。


子供の司祭は、廊下の真ん中の暗がりへ歩いて入ってきた。非常灯の光が届かない場所だ。


そこで子供の司祭の姿はぼやけた。白い服だけが、かすかに浮かんで見えた。


松明の縁で照り光っていたものたちのように。


隣の房で誰かが息を呑んだ。その者は息を止めなかった。


呪いは終わった。


ただ、息を呑む音は舎棟を伝って、房から房へと移っていった。子供の司祭が通る場所ごとに。


牧師が寝台から起きた。俺の後ろに立った。牧師の息遣いが聞こえた。速かった。


「業界の先輩の訪問だな」


牧師が小さく言った。声が震えていた。


牧師の声が震えるのを、俺は初めて聞いた。


子供の司祭が、俺たちの房の前に立った。配膳口は閉まっていた。


鉄扉の小さな窓の向こうに、子供の司祭の顔が見えた。窓が頭より高くて、目だけが見えた。


赤い光の中の二つの目。その目が俺を見た。もう見つけてしまった者の目だった。


子供の司祭が言った。語尾を伸ばさなかった。短く、硬く。


「お前が置き去りにしたものたちが何を払ったのか、見せてやろう」


* * *


その晩、刑務所の停電原因の欄は、最後まで埋まらなかった。


韓国電力の返信は「該当区域、設備に異常なし」だった。


正門前の折りたたみ椅子13脚のうち、真ん中の一脚は夜明けまで空いたままだった。


その席の主は、すでに塀の中にいた。


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