第87話 烙印(2)――糸くずの月
管理番号KR-07 矯正相談記録
課題27 — 帰ってくる夜。
* * *
医療課の観察室にはボールペンを持ち込めなかった。先の尖ったものは危険物なのだそうだ。
看護師が代わりにクレヨンを一箱くれた。先の丸いクレヨン。観察室に長くいる収容者が絵を描くために、医療課が買い置きしているものだという。
十二色。
俺はその中から黒を選んだ。
看護師は、みんな最初は青か緑を選ぶのだと言った。黒を先に選ぶ人は珍しいのだという。
俺は字を書くのだと言った。
看護師は、字は鉛筆で書くものだと言いながら、クレヨンの箱を持ち帰ることはしなかった。
隣のベッドには年老いた収容者が寝ていた。糖尿病のせいで、観察室に三日目だと言った。
その男は、俺がノートにクレヨンを当てているのを見て、絵を描くのかと聞いた。
俺は違うと言った。
男は、じゃあ何をそんなに濃く書くのかと聞いた。
俺は答えなかった。
男は、孫がクレヨンで手紙を書いて送ってきたことがあると言った。
字が大きくて、一枚に五行しか入らなかった手紙だった。
その五行を、自分は百回読んだのだと言った。
そうして寝返りを打って、いびきをかいた。
この課題はクレヨンで書く。先生が明日受け取ったら、読みにくいだろう。
クレヨンは太いので、罫線に合わせて書くのは難しい。
2年半ぶりに、初めて字が罫線からはみ出す。
夕方、「あいさつ」がまた観察室の前を通り過ぎていった。
俺は「あいさつ」に、明日の朝このノートを相談室へ届けてくれないかと頼んだ。明日の相談には行けそうになかった。
「あいさつ」は答えの代わりに、一度うなずいた。
「こんにちは」以外で「あいさつ」が俺に返した答えは、あれが初めてだった。
うなずき、一度。
* * *
医療課の観察室で書いたものを、看守が持ってきた。黒いクレヨンである。罫線からはみ出した字が多い。
お前が2年半のあいだに罫線を越えたのは、これが初めてであった。
* * *
断片が組み合わさっていく。
接見室のガラスの向こうから、その手のひらが押し込んだ断片たち。白いものの中で散らばっていたものたち。
俺は今、観察室のベッドに横たわって、その断片たちがあるべき場所に収まっていく音を聞いている。
カチッ。
ひとつが合えば、その隣が見える。その隣が合えば、またその隣が見える。
縫い糸の切れた縫い目を、端から縫い直していくようだ。一針ずつ。
師の学堂。
十歳のとき、初めて門をくぐった日、俺は敷居が高くて危うく転びかけた。師が俺の腕を取ってくれた。その手には、老いた者の肌に浮く黒い染みがあった。
その日、初めて縦書きの字を見た。書庫の一番下の段が空いていたのを見たのも、その日であった。
エスベルの最初の冬。
避難民の子供たちは城壁の下で眠った。俺は毎晩、その寝息を城壁の上で聞いていた。
一人が咳をすれば、その咳が止むまで、俺は手を上げなかった。
俺の領地。南山脈の下の谷。
城は古びていて、中庭の石畳はところどころ割れていた。その割れ目ごとに、春になれば草が生えた。妹の子供たちが、その草を抜きながら遊んだ。
妹がいた。今、思い出した。
俺より五つ年下であった。俺が学堂にいるあいだ、領地を預かっていた。妹には子供が二人いた。二人とも城中庭で遊んだ。封印官が条件文を読んだ日にも。
マセルン。
学堂の寄宿舎で、試験の前夜ごとに俺の部屋の扉を叩いた手。その手は、扉を叩くときも冷たかった。取っ手に霜が降りるかと思われた。
マセルンは俺の筆記を写しながら、いつも一行だけ間違えた。わざと間違えたのだと、後に言った。すべて正しければ、師に写したと悟られるから、と。
南門へ下りて行く日、マセルンは俺の手を一度、きつく握った。その手はその日も冷たかった。
その冷たさが、今、俺の手のひらに戻っている。
カネン川下流の堤。
その夜、俺は堤の上に立った。
川の音が、足もとで響いた。
堤に手を触れると、石の間から水が滲み出てきた。俺は、その水が奴らの陣営へ流れて行く道を見た。
堤は午前3時に崩れた。
そのときは、まだあれらを呼ぶ前であった。
その時刻は、その日、初めて定められた。
十一の森。
名を付けた順に、ひとつずつ思い浮かぶ。
最初の森は、国境の捨てられた村の裏手にあった。井戸の水が黒く変わった、その村。
十一番目の森は、東の果てにあった。その森の向こうに、塀がひとつあった。
学堂の地下。
灯明皿の光の下に、師の顔。
その日、師の声は震えなかった。
「名を付けるな」
そう言って、師は灯明皿を下ろされた。俺のほうへ、少し押しやられた。
そのときは、分からなかった。
あの灯明皿を、消えないように置いていったのだと。読み終えるまで火を消すなという意味だったのだと。
師は、俺がその巻物を最後まで読むと分かっておられた。最後まで読むなら、暗いところで読むなと、火を置いていかれた。
* * *
ここから先は、字が二種類ある。横に書いたクレヨンの字と、縦に下っていくクレヨンの字が、ひとつの文の中で交互に現れる。
「〜だ」の語尾は横、古風な語尾は縦。ひとつの文が、途中で向きを変える。
* * *
俺は今、この課題を両手で書いている。
片手だ。
なのに、両手で書いているような気がする。
一文を横に書き始めると、途中で手が縦に折れる。その折れたところで口調が変わるのである。また横に戻れば、口調も戻る。
課題24の終わりに、老先生は筆体がひとつだと書かれた。
そのとおりだった。
あのときの俺は、ひとつだった。この身体の癖と、俺の記憶が合わさった、ひとつ。
ところが今日、ガラスの向こうの手のひらが押し込んだ欠片たちは、そのひとつより古いものたちだった。学堂で師の縦書きの字をなぞって書いていた十歳の手が、その欠片たちとともに戻ってきたのである。その手は、今の俺とまだひとつの身体ではない。
戻ってきた手が、このクレヨンを縦へ引っ張る。今の手が横へ引っ張る。
どちらも俺の手だ。どちらも、この身体の手なのである。
夜間巡回をしていた看護師が、観察室の扉を開けた。
懐中電灯の光が、俺のノートの上に落ちた。
看護師は、クレヨンの字をちらりと見下ろした。横にも縦にも流れ落ちた、黒い字。
看護師は、絵日記を書いているのかと思った、と言った。観察室に長くいる収容者たちは、絵日記をよく書くのだという。
俺は、絵日記で合っていると言った。
看護師は、次の日の朝は黄色も使ってみては、と言った。黒色だけだと、絵が重くなるから、と。
看護師は扉を閉めて出ていった。
隣のベッドの年老いた収容者が、いびきをかく。
観察室の廊下の端から、看護師が何かを片づける音がする。
午前3時が近づいてくる。
俺は起きている。今回は、最初から起きている。
午前3時になった。
観察室の壁時計の短針が、三に触れるのを見た。
この身体は、この時刻に松明を手探りしていた身体だ。俺は、この時刻に手を挙げていた者だ。
今日、この時刻にクレヨンを握っている手は、手探りもしない。挙げもしない。書く。
横に書き、縦に折れ、縦に下り、また横に戻る。
クレヨンの先が丸くなった。板を掘っていた爪のように。
欠片たちの後ろで、大きな欠片がひとつ待っている。
まだ下りてきていない。
名前だ。白いものの中で、いちばん最後に手から抜け落ちたもの。
ガラスの向こうの手のひらは、その欠片を押し込まなかった。
今日はここまでだ、と言った。残りは、そなた自身で合わせよ、と言ったのである。
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封印官。
条件文を読み聞かせてくれた日、封印官は一人で来たのであった。護衛も連れずに。
語尾を長く伸ばす癖があった。
俺の署名を受け取り、出ていく折に、あの者は言った。
「そなたは、最後まで人を守るのであろうなあ」
あれが褒め言葉だったのか、今は分かる。
褒め言葉ではなかったのだ。確認であった。
そなたが人を守る者なら、約束の日には必ず来るであろう、という確認。
封印官は1年半の間、封印の枠を組んだ。
学堂の地下、俺が巻物を取り出したあの壁の前で組んだと聞く。俺が取り出したものを閉じ込める枠は、あれらが埋まっていた場所で組まねばならぬ、ということであった。
そして、初霜の日の朝。
俺は、あの朝の城中庭を知らない。俺はそこにいなかった。
神殿の庭で、司祭の手首を掴んでいた。
なのに、今はあの城中庭が見える。
俺の記憶ではない。封印官のものである。
ガラスの向こうの手のひらが、俺の欠片たちの間に、自分の欠片をひとつ混ぜ入れた。
その欠片が、今、はまろうとしている。
* * *
「俺の記憶ではない、封印官のものである」。この一文もまた、横に始まって縦に終わる。
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城中庭。初霜が、割れた石畳の隙間ごとに白く座っている。
日がちょうど、山脈を越えてくる。
庭の真ん中に、封印の枠が置かれている。石で組んだ丸い枠である。その内側には、学堂の地下の土が敷かれている。
封印官はその枠のそばに立っている。一人で。日が高く昇るまで。
庭の端に人々が立っている。俺の領の民である。妹と、妹の二人の子もいる。
人々は、俺が来るのを待っている。領主様が約束を守りに来るのを。
子供たちは庭の端で足踏みをしている。寒いからか、退屈だからか、俺には分からぬ。
誰かが火鉢を持ち出した。
人々は火鉢の周りに集まったが、封印官が振り返ると、また散った。領主を待つ席で火に当たるのが、気が咎めたのであろう。
火鉢は庭の端で、ひとり燃えた。誰も、その火の前に立たなかった。
妹が封印官に近づく。
妹は封印官の前で頭を下げて言う。
「兄上は必ず来られます。約束を違えたことのないお方ですから」
妹の声は震えない。
封印官は答えない。一度だけうなずいて、また城門のほうを見る。
城門は開いている。
城門の外の道は、空いているのである。
妹の上の子が、封印官の袖を掴んだ。
「おじさんは、いつ来るの」
封印官はその子を見下ろす。それから、語尾を長く引いて答えた。
「じきに、いらっしゃいましょう」
子どもはその言葉を信じた。袖を離し、また庭の端へ駆けていく。ほかの子どもたちに、城壁の上の魔法使い様が来ると叫んだ。
日が傾く。
上の子は城門の前でしゃがみ込み、道を見つめている。下の子は妹の裾を掴んだまま、うとうとしていた。妹はその子を抱き上げない。城門のほうだけを見ている。
俺はこの場面をクレヨンで書く。
俺のものではない場面だ。なのに、クレヨンを握る手が震える。上の子の顔が見える。妹に似ている。俺にも似ている。その子が城門の前でしゃがんでいる。
俺はその道から来なかった。あの時刻、俺は神殿の庭で、光の門の中へ歩いていた。
日が真上に来る。俺は来ない。
封印官が顔を上げる。庭の端の人々を見る。妹を見る。妹の子どもたちを見る。そして、また空の枠を見る。
日が傾く。山脈の影が城中庭へ入ってくる。
あの日、日が沈み、封印官は城中庭の真ん中で俺の家名を呼んだ。三度呼んだ。その名は城壁に当たり、三度返ってきた。そして、四度目に答えたのは――
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文章は途中で切れていた。クレヨンがノートを引っ掻いた跡が、罫線の外まで長く伸びている。最後の一画は縦だった。
彼は来なかった。
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観察室の年老いた収容者は、朝に起きて、隣の寝台のノートを見た。黒いクレヨンの文字が、横にも縦にも流れていた。彼は後で看護師に、孫が書いた五行程の手紙を思い出した、と話した。
クレヨンの箱の黒は、その日だけで半分に減っていた。ほかの十一色は、そのままだった。




