第86話 烙印(1)――糸くずの月
接見申請書の理由欄には、今回も活字が二文字だけ押されていた。
送還。
班長はその申請書を持ってきて、しばらく立っていた。
班長はその単語を、出入国側の言葉だと思っていた。
犯罪人送還。強制送還。
班長は申請書を俺のほうへ差し出しながら、これは刑務所ではなく、出入国管理事務所の仕事ではないのか、と訊いた。
俺は答えなかった。
班長は申請書をもう一度覗き込んでから、これは「その他」の括弧の中に書かれたものだから、差し戻す根拠はない、と言った。
4か月前、救済と書かれていたあの括弧だった。
班長は、括弧をなくしてほしいという建議書を出すつもりだと言った。括弧の中から、妙な単語ばかりが出てくる、というのだった。
申請人は宗教団体○○会、代表1名。代理人は同じ法律事務所だった。
俺は申請書に署名した。受け入れる、という署名だった。
今回は、退屈しのぎではなかった。
理由を訊く欄があったなら、俺はこう書いただろう。
約束の日が過ぎたから。
* * *
牧師は、今回も一緒に入ると言った。
班長に頼み込む代わりに、俺の襟を立ててやると言った。
朝のごはん粒を取っておいた、とも言った。
俺は断った。
牧師は、襟を立てれば相手もそう簡単には見くびらない、と言った。
業界の先輩に会いに行くのに襟が寝ていたら、先手を取られる、と言った。
俺はそれでも断った。
牧師は、取っておいたごはん粒を自分の襟に塗った。
自分のだけでも立たせておかないと、と言った。
接見室に行きもしない人間が。
牧師は、俺が部屋を出る前に、もうひと言付け足した。
「あのガキな。今度はガキじゃないだろう」
「何を見たんですか」
「ニュースだ。歩き方だよ。俺は三十年、年寄り信者どもの歩き方を見てきた。献金箱まで歩いてくる、あの歩き方だ。あのガキが、空港でそうやって歩いてた」
* * *
接見室は一階の、あの部屋だった。
ガラスの仕切り。下のほうに、話すための穴。
向こう側に椅子が二つ。こっち側に椅子が一つ。
向こうの椅子に、大人の司祭が座っていた。4か月前と同じ、あの老司祭だった。
だが、4か月前と同じ座り方ではなかった。椅子の端に尻だけを掛けて、体を子供から遠ざけて座っていた。手が震えていた。
その司祭は子供を見なかった。俺のことも見なかった。床を見ていた。
もう一つの椅子にはリンゴ箱があった。その上に、子供が座っていた。
ガラスの向こうの扉の前に、窓口の職員が物品持ち込み台帳を抱えていた。持ち込み品の欄には、リンゴ箱 1、中身なし、と書かれていた。職員はその欄を書きながら、自分が何を書いているのかわからないという顔をしていた。
こっち側の扉の前には、立会い刑務官が接見記録票を持って座った。壁時計の下に、接見時間は20分、と書かれた案内文が貼ってあった。
子供は小さかった。4か月前より、一目でわかるほどに。
司祭服の袖が指先を覆っていた。子供は袖をまくらなかった。両手を膝の上に置いていた。
老人のように背筋をまっすぐ伸ばして、顎を少し上げたままだった。
子供は、俺が入ってくるのを見た。目は動かなかった。
4か月前のように、俺の顔と肩の横を行き来することはなかった。俺の顔だけを見た。もう見比べる枠はない、とでもいうように。
俺は椅子に座った。
* * *
子供が先に口を開いた。九歳にも満たない声だった。高くて、細かった。なのに、話し方は遅かった。語尾を長く引いた。
「長く探したのだ……」
その語尾を、俺は知っていた。
学堂で何度か見た老いた魔法使い。師と同じ年に学堂を出た者。俺の城門の前で独り、馬を降りた者。条件文を読み聞かせ、約束の日を定め、俺の署名を受け取って出て行った者。
あの者には、語尾を長く引く癖があった。今、ガラスの向こうの子供が、そう話した。
「この空は広いものであった。手探りには長くかかった。二度確かめて、ようやく見つけたのだ……」
首筋が冷たくなった。指はなかった。その指の主は、ガラスの向こうに座っていた。
立会い刑務官が、椅子の上でびくりと身をすくめた。子供の物言いのせいだろう。テレビで、あの子供が老人のように話すことは、みんな知っていた。それでも、直接聞くと、やはり違った。
刑務官は接見記録票に何かを書きかけ、手を止めた。接見内容要約欄に何を書けばいいのか、わからない顔だった。
* * *
俺は答えた。俺の口から出た言葉は、俺の物言いではなかった。あの騎士の物言いだった。3年以上、俺が着て生きてきた物言い。正しさを問いただす者の物言い。
「その子の身体から出てください」
子供は眉を上げた。両方とも。
「その子は子供です。子供の身体を使うのは、正しいことではありません。私を探していたのなら、私のところへ来ればいい。その子を放してください」
俺はそう言いながら、わかっていた。自分が何をしているのかを。
司祭の手首を掴んで扉枠を奪った者が、他人の身体を使うのは正しくないと言っていた。
あの騎士の正義で。あの騎士なら言ったはずの言葉を、あの騎士の身体で。あの騎士を引き裂いた者が。
子供が笑った。声に出して。
子供の笑い声だったのに、笑い方は老人だった。肩は揺れず、喉の奥だけで笑った。
「その物言いは誰のものだ。そなたのものか、そなたが着ている身体のものか」
俺は答えられなかった。
老司祭が椅子から半ば立ち上がり、向こう側の扉の窓口職員に何かを耳打ちした。出たい、ということらしかった。
職員は、申請人側はいつでも退室して構わないと言った。ただ、未成年の申請人は保護者なしでは接見室に残れない、とも言った。
接見申請書の保護者欄に署名したのは、その老司祭だった。
老司祭は子供を一度見て、また椅子の端に腰を下ろした。子供はその司祭を一瞥もしなかった。老司祭の手は腿の上で震えていた。四か月前、面会室で子供の隣の席を守っていたあの司祭だった。今は子供から身体をずらして座っている。
「この子は、この空で私の手の届く唯一の身体でした。この子の中では、時間が逆流している。他人の老いを宿しているのだ。その逆流する時間が、空と空のあいだの隙間を広げてくれた。私はその隙間から入ってきた。この子が海の向こうで本物を探していたときに。この子は、私を本物と知った」
子供は膝の上の手をじっと見つめた。袖に覆われた、小さな手。
「身体を借りたのは、そなたと同じだ。ただ、私は借りていると知って借りた。そなたは、借りているとも知らずに3年を超えて生きた」
* * *
「私は聖騎士でした」
俺は言った。その言葉は口から出た。ビデオ接見の画面の前で八番目に言ったあの言葉と、同じように。脈絡もなく。なめらかに。
「六年の間、孤児院を守りました。子供を四十人ほど助けました。私は、子供を守る者でした」
子供は俺の言葉を最後まで聞いた。遮らなかった。
聞き終えてから、ゆっくりと頷いた。それからガラスのほうに身体を傾けた。通話口の近くまで。
「そのとおりであろう。そなたが着ているその身体は、そういう者であった。その者は本物であった」
子供は少しの間、止まった。語尾を引き延ばさなかった。今度は短く、固く言った。子供の口で、老人の言葉遣いを捨てて。
「偽物はお前で、本物もお前だった」
* * *
その言葉はガラスを越えてきた。通話口の穴を抜けて。
四か月前、この部屋で、子供は俺を偽物だと言った。
あのときの俺は、その言葉が気に入っていた。偽物なら、九枚が見たものは俺ではないかもしれないからだ。
この身体に俺以外の誰かがいることを、俺はその日知った。あのときは、二人のどちらが偽物なのか分からなかった。
今、ガラスの向こうの老人は、どちらもだと言った。
聖騎士のふりをしていた俺は偽物だった。そして、その偽物の下で午前3時になるたびにノートを書いていた俺、丘の上で手を挙げていた俺は、本物だった。
どちらも俺だった。
俺はあの騎士の口調で、何かをもう少し言おうとした。正しくない、という言葉。子供を放してやれ、という言葉。
口は開かなかった。
あの騎士の正義が、俺の口の中でためらった。その正義はあの騎士のものだった。その正義を使う資格が俺にあるのかどうか。その正義のほうが、先に問いかけていた。
子供が手を挙げた。袖がずり落ちて、小さな手が現れた。
子供はその手のひらをガラスに当てた。俺の顔の高さに。リンゴ箱の上でつま先立ちしなければ届かない高さだった。
「そなたが散らしたものを返しに来たのだ。白いものの内に散らばったそれらを。約束の日に立つには、そなたが何者かを知らねばならぬ。知らぬ者を閉じ込めることはできぬ」
* * *
俺の身体が前へ傾いた。俺が傾けたのではない。
額がガラスに触れた。手のひらのちょうど真向かいだった。
ガラスは冷たかった。手のひらの触れている場所だけが、冷たくなかった。
ガラス一枚隔てた向こうの温もりが伝わってくるはずがなかった。それなのに、額は温かくなった。
額から何かが降りてきた。首へ、肩へ、指先へ。
司祭が額に手を置いたとき、降りてきたあの道を通って。
だが、降りてきたのは温もりではなかった。
破片だった。
師が地下に置いてきた灯の光。半分ほど残った油。
マセルンの冷たい手が、俺の手を一度きつく握った感触。
エスベルの三つの井戸のうち、一番左の井戸。その石の縁に入ったひび。
俺の領地の谷、城中庭の古びた石畳。そこに降りた初霜。
城中庭の真ん中に一人で立ち、日が高く昇るまで待つ老人の後ろ姿。
その破片が、一つずつ自分の場所を見つけていった。白いものの中で散らばっていた場所へ。
切れた縫い糸を、誰かが一針ずつ縫い直すように。
破片が一つはまるたび、頭の内側で小さな音がした。
カチッ。カチッ。
俺は椅子を掴んだ。爪が鉄製の椅子の塗装を引っ掻いた。
木目のない鉄だから、爪は滑った。
後ろで立会い刑務官が、面会中止だと叫んだ。刑務官の手が俺の肩を掴んで、後ろへ引いた。
額はガラスから離れなかった。ガラスに貼りついているのではなかった。俺の首が支えていた。
刑務官が無線機に向かって、医療課を呼んだ。
ガラスの向こうでは、窓口の職員が子供に手を伸ばしかけて止まった。老司祭は後ずさって、壁に背をつけた。子供は手のひらをガラスから離さなかった。
破片はそれからも降りてきた。まだはまらない破片が多かった。
そのうちの一つが、ひときわ大きかった。名前だった。
白いものの中で、一番最後に手からこぼれ落ちたもの。
その破片はまだ降りてこなかった。他の破片の後ろで待っていた。
ガラスの向こうで、子供が語尾を長く引いて言った。
「今日はここまでですぅ。あとはあなたが自分で合わせなさい」
手のひらが、ガラスから離れた。
そのときになって、ようやく俺の首が緩んだ。
刑務官に引かれるまま、額がガラスから離れた。
ガラスには、跡が二つ残った。
あっち側は、小さな手のひらの形に白く曇って、消えた。孤児院の子供たちが、冬の朝、鎧に残していった跡みたいに。
こっち側には、俺の額の跡が残った。それは、消えなかった。
俺は椅子からずり落ちた。
* * *
目を開けた場所は、医療課の観察室だった。
白い天井。白い部屋の天井と似ていた。ただ、鏡を外したネジ穴が四つ、ここにはなかった。
腕には点滴の針が刺さっていた。
医者は、血管迷走神経性の失神だろうと言った。緊張が激しいと、脈拍と血圧が一気に下がるのだそうだ。接見室で倒れる収容者が、一年に何人かはいるのだという。
医者は俺の額の赤い跡を見て、ガラスにぶつけたのかと聞いた。俺は、そうだと答えた。
刑務官の話では、額がガラスに触れていたのは、一分にも満たなかった。
医者は、診療記録の原因欄に、接見と書いた。
観察室の扉の前に、あいさつが立っていた。勤務時間ではなさそうだった。制服のボタンを、一つ外していた。
あいさつは、俺が目を開けたのを見て、扉枠に寄りかかったまま言った。
「こんにちは」
俺は答えた。喉が枯れていて、声が割れた。
あいさつは返事を聞くと、背を向けた。廊下を歩いていく足音が聞こえた。歩く人の息づかいと一緒に。
俺は今日一日、観察室にいなければならないと言われた。明日の相談には、行けないだろう。
頭の奥では、まだ破片がはまる音がしていた。
カチッ。カチッ。
俺は、観察室のベッド脇の机にあったノートを引き寄せた。あいさつが部屋から持ってきて、置いていったものだった。
* * *
その日の接見記録紙の、接見内容要約欄には、「収容者失神」とだけ書かれていた。その欄は、一行だけだった。
ガラス仕切りの額の跡は、次の日の朝、接見室の清掃担当が拭いた。
向かい側の小さな手の跡は、拭く前にもうなかったと、彼は報告した。




